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ヨコハマ ストーリー

2006年6月16日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第12回 「山下公園物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の山下公園物語』。

  横浜で最も有名な公園「山下公園」。1930年に日本初の臨海公園として関東大震災きっかけに誕生した。復興事業として波打ち際に捨てられていた焦土や市内の瓦礫、焼け跡のレンガなどが埋め立てに利用された。1935年には復興記念横浜大博覧会が開かれた。今で言うパビリオンが立ち並び、およそ323万人を集め賑わった。1990年には東側がリニューアル整備された。バルセロナのグエル公園を思わせるカスケードのある楽しい階段や幾何学的な滝や水路などが作られ、新しい魅力が加わった。

 「お母さん、何か飲み物買ってくる」と言って娘は私と荷物をベンチに残して走っていった。二人で元町で買い物をして山下公園でひと休み。そこに主人が合流して夕食を食べる。こんな過ごし方が月に一度の習慣になったのはいつからだろう。私は横浜市の花である薔薇が咲き誇るこの季節の山下公園がことのほか好きだ。
 いつもの海に面したベンチに座って娘を待つ。そんな慣れ親しんだシーンもあと数回。「この秋に結婚したい」と、ボーイフレンドを連れてきた時は私も主人も驚きを隠せなかった。わがままいっぱいの娘が、誰かのために生きたいと思うようになったのかと、喜びと不安で複雑な気持ちになった。
走っていく娘の後ろ姿を見ていると、なぜか母の事を思い出した。その昔、母と二人でこの公園に来たのは桜の季節。
 母は海を見ながら「昔、私もおばあちゃんとここに来たことがあるのよ」と話し始めた。祖母は常に祖父をたて親を敬うことを重んじていた。そして祖父が起きる前に薄化粧を済ませ、どんなに帰りが遅くなっても、必ず起きて待っている・・・そんな人だったのだ。関東大震災そして戦争。その都度全てを失いながらも家族を愛し守ってきた人。この山下公園で『何があっても旦那様を敬い、家族を愛し、守れる強さを持つのよ』と母に言ったそうだ。母は私にそこまで話すと黙ってしまった。その言葉は嫁いでいく私へのメッセージだったのだろう。
 汽笛が鳴り我に返った時、主人が声をかけ隣りに座った。そういえば二人が出会った頃もこの公園に薔薇を見に来て、他愛もない話をしたことがあった。
「あの子が嫁いで二人になっても、また一緒に来ましょうね。」と言うと、何も言わずに主人が微笑んだ。「お父さーん!」娘が駆け寄ってきて「今日は何を食べるの」といつもの元気な声で言った。

今日の、『私の山下公園物語』いかがでしたか。 出演、小林節子 脚本、浮田周男でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年6月 9日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第11回 「山手界隈散歩物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したそのときから、歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストリー』今日は「山手界隈散歩物語」

 開港後、欧米から外交官や商人たちが横浜に居住すると、すぐに馬や二輪馬車を購入して道路の新設を望むようになった。こうして、山手・根岸・本牧の景勝地を馬や馬車で巡る散策路ができた。これが「外国人遊歩新道」である。
 地蔵坂が出発点。明治天皇が根岸競馬場への行幸で何度も登った坂だ。根岸競馬場から不動坂を下りて、本牧へと到る。そして、山手の山すそから小港の十二天に向かう道と、山手公園から地蔵坂へと戻る全長およそ9キロの道だった。一部を除き、ほとんどが生活道路や幹線道路としてその姿を残している。

 友人と、石川町から間門まで、外国人遊歩新道をたどってみようということになった。お天気は快晴。用意のいい彼女は、日傘を手にしている。風が心地よく頬をかすめていった。
 石川町駅からすぐに地蔵坂だ。山元町商店街を抜ける。米軍施設の先に根岸森林公園がある。競馬場を思い出させる雰囲気が、今も残っている。
緑の匂いを感じていると、友人が「ちょっと、相談があるんだけど」と私を見た。遠くで、鳥の鳴く声が聞こえた。彼女は、相談したいことがあるときはいつも私を散歩に誘う。夫のこと、ひとり娘の就職のこと。ひとしきり話すと、いつもさばさばと帰っていく。でも今日は、少し様子が違う。喉が渇いたので、『ドルフィン』でお茶しましょう、というと、彼女は頷いた。
 彼女の話は、こうだ。旦那さんが、ある日プレゼントを持って帰ってきた。デパートでプラチナジュエリーのフェアをやっていたから、つい買ってしまった、と素敵なネックレスを手渡す。結婚以来、そんなことは一度もなかった。誕生日でさえ、ファミレスですます人なのだ。これは怪しいと彼女は言う。
「何かやましいことがあるに違いない。どう思う?」と聞かれて私は笑ってしまった。
「素直に喜べばいいじゃない。あなたの旦那さんにかぎって、そんなことないわよ」と言った。店を出て、不動坂から遠く海を眺めた。友人の胸には、しっかりとプラチナのネックレスが輝いていた。「今日は、相談ではなく、のろけだったのね」と心の中でつぶやいた。

今日の「山手界隈散歩物語」はいかがでしたか。出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・



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2006年6月 2日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第10回 『私の「港の見える丘」公園物語』

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の「港の見える丘」公園物語』。

JR根岸線石川町駅から元町を抜け谷戸坂を登り、「港の見える丘」公園に入る。 外国人居留地だったこの山手地区は、異国情緒あふれる横浜を代表する観光の名所でもある。戦後大ヒットした「港の見える丘」のモデル都市は不明だが、歌のイメージを山手に求めた横浜市民の要望もあって、1962年に「港の見える丘」公園は開園した。名前のとおり、海側を向いた展望台は、横浜ベイブリッジや、みなとみらい21、山下公園、横浜港などが一望でき、また夜景も素晴らしい眺めである。

 「お墓参りに帰国するので、どうしても会いたいと言ってます」と「明君」から突然電話が入った。「明君」は、バンクーバーにいる私の親友、直子の息子さんだ。急に懐かしくなって古いアルバムをめくった。セピア色にあせた私達二人の写真。直子はひときわ幸せそうに笑っている。ファインダーを覗き「ハイ、チーズ」と言ったのは、直子の夫となったばかりの哲也さん。もう二十数年前になるが、ジューン・ブライドの明るい、いきいきとした彼女を、今でもはっきりと覚えている。
 直子は海岸教会の聖歌隊で一緒だった幼なじみ。港まつりの国際仮装行列で私は王子様、彼女はお姫様役を演じた事もある。ミッション・スクールの高校で再会し、私達は聖歌隊で活躍した。大学卒業後、教会関係の仕事を手伝うほど熱心なプロテスタントだった。直子は、哲也さんと山手聖公会で素敵な結婚式を挙げた。しかし、幸せは長くは続かなかった。敬けんなクリスチャンであった直子のその純粋さが、哲也の母親との溝を広げていった。一生懸命、関係修復の努力をしていた様だが、それは報われることはなかった。最後まで、哲也さんと明君を心配しながら、直子は横浜港からバンクーバーへと旅立っていった。
 久しぶりに訪れた「港の見える丘」公園は、日曜日とあって家族連れや若いカップルでいっぱいだった。直子は明君と一緒にやってきた。20数年ぶりだという彼女は、当時はなかったベイブリッジや、みなとみらい21に驚き、歓声を上げる。かつてスナップを撮った場所には、当時見かけなかったバラの花が今が盛りと咲きほこっている。
 歳月が「港の見える丘」公園を変貌させ、直子は「これでは私たちが変わっても無理がないわね」と私にそっと耳打ちをする。ローズガーデンでのツーショット。ファインダーを覗き、シャッターを切る明さんの姿が哲也さんに良く似ていると思ったのは決して私だけではなかった。思わず笑みがこぼれ、二十数年前の笑顔の直子がそこにいた。二人は港を見つめながら昔よく歌った「アメージング・グレース」をいつしか口ずさんでいた。

今日の、『私の「港の見える丘」公園物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、浮田周男でお送りいたしました。また来週をお楽しみに・・・

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2006年5月26日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第9回 「私の三渓園物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したそのときから、歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。
そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』今日は「私の三渓園物語」

 国内でも有数の広さと美しさを誇る日本庭園『三渓園』。ここは、生糸貿易で財をなした横浜の実業家 原 三渓の元邸宅だった。彼は、この地に京都や鎌倉などから歴史的に価値のある建築物を移築し明治39年『三渓園』として一般に公開した。
 約5万3千坪の園内には、10棟の重要文化財を含む17棟の古い建築物が配置されている。三渓記念館には原三渓所蔵の古美術が所蔵されている。三渓園内のどこからでも見られる、旧橙明寺三重塔は京都から大正3年に移築されたもので、室町時代の様式美を堪能できる。
 第二次大戦で大きな被害を受けたが、昭和28年財団法人三渓園保勝会の手に移されたのを機に復旧工事が行われ5年後にほぼ昔の姿を取り戻した。四季折々の自然と建築物の調和は、訪れるものを優しく包み込んでくれる。

 三渓園で絵を描きませんか?そのコピーに惹かれて、町内会が主催する絵画教室に参加した。初夏を思わせる日差しは、外苑の大池をキラキラと舞っている。
 睡蓮を描こうと思った。三渓園の創設者、原三渓は、泥の中から清らかな華を咲かせる蓮の花を、特別愛したという。早朝のすがすがしい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。絵の道具を広げていたら、隣に初老の男性が腰を下ろした。
 「私も、ここで、描いていいですか?」と聞くので、どうぞ、と笑顔で答えた。
 あらためて、蓮の花を見つめる。去年亡くなった母の戒名には、『蓮』の字がついている。母にぴったりだと思った。母は、人をほっとさせるさりげない優しさを持っていた。
 「お母様には、生前、お世話になりました。この絵画教室で、お会いしました。絵を描く楽しさを教えていただきました」と突然、隣の男性が言った。
母は、中学の美術の教師をしていた。
 「筆のタッチが、お母様にそっくりですね」と男性に言われた。
 「そうですか?」と言いながら、嬉しさがこみあげてくる。絵を描き終えたら、母が好きだった「隣花苑」で、三渓そばを食べて帰ろうと思った。隣の男性が、ふとつぶやいた。
 「ほんとうに、蓮の花みたいな人でしたね」

今日の「私の三渓園物語」いかがでしたか。出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りしました。また来週をお楽しみに・・・

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2006年5月19日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第8回 「私の野毛山動物園物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したそのときから、歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』今日は「私の野毛山動物園物語」

 野毛山動物園の開園は1951年。当時の名称は野毛山遊園地だった。どことなく日本庭園の趣を残した動物園は、起伏に富んだ地形を生かして、動物舎が上手く配置されている。キリンやライオン、フラミンゴ、ハクチョウ等、おなじみの動物や鳥類が近くで観察出来ることで、親近感のある動物園として子供たちに人気を呼んでいる。また、ほどよい広さの園内は、家族連れやお年寄りの散策路としても楽しめるのが特徴のひとつである。1999年、ホッキョクグマのユキコが亡くなったのを機に、リニューアル整備され、今日も市民に愛される動物園になっている。

 先日、中学時代の同窓会を行うというので、何年かぶりに幹事の容子と会った。当時、容子は私の家によく遊びに来ていた。それは単に親しかったからだけではなく、私の実家が映画館だったからだ。容子は動物好きで、動物の出る映画が上映されているときは必ず遊びに来て2人で一緒に観た。なかでも「子鹿物語」は、涙をポロポロ流しながら観た映画の一つだった。
 中学生の時、私が家に宿題を忘れてしまったことがある。困っていると容子が、お昼休みに取りに行ってあげると言う。断っても自分は足が速いからまかせて、と引き下がらない。結局、職員室の電話を借りて、家の映画館で働いていたおじさんに頼んだ。フィルムを映画館から映画館へ運ぶ仕事をしていたおじさんは、自転車を飛ばしてすぐに持ってきてくれた。「わがままだ」とみんなから非難されたが、容子だけは「良かったわね」とやさしい笑顔で私を見つめていたのを今でもよく覚えている。
 容子とは懐かしい洋菓子店で会った。中学生の頃、この店でソフトクリームを食べたこと、最近の話、そして動物の話題で盛り上がったところで、突然容子が  「これから野毛山動物園に行ってみない」と言いだした。
 動物園は昔とは見違えるほどきれいに整備され、家族連れでにぎわっていた。
しかし、期待していたシロクマがいなかった。中に一体と外に二体置かれたホッキョクグマの像が当時を偲ばせていただけだった。1961年から1999年まで何代かにわたって動物園にいたホッキョクグマは、シロクマのユキコが亡くなったのを最後にもう飼育されていないということだった。
 「ユキコは愛嬌があって、人気者だったのよ」と容子が教えてくれた。
 私は容子を元気づけようと、同級生が経営する日の出町の焼き鳥屋さんに連れていき、生ビールを一杯ごちそうして別れた。

 今日の「私の野毛山動物園物語」いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、浮田周男でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

2006年5月12日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第7回 「中華街物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したそのときから、歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』今日は「中華街物語」

 横浜開港後、中国人は雑役、通訳として日本に渡ってきた。年を追うごとにその数が増え、洋食や和食ではなく中華料理を出す店も出てきた。初めは外国商館勤めの中国料理人が独立開業した中国人向けの店だった。当時は現在の南門通り一帯がその拠点。街は拡大していったが、関東大震災で大きな被害を受けた。それを機に現在の場所に移り、長さ約150mほどの通りの両側に店がつくられていった。これが中華街の始まり。
 第二次大戦前は数十軒しかなかった中華料理店だが、戦後いち早く復興をとげた。現在10基の牌楼、すなわち門に守られている。中華街は、周辺の道路に対して45度傾いており、ほぼ東西南北に角がある。特に東西南北の4基の門には、風水の深い意味がこめられている。

 「お母さんに会ってほしい人がいるんだ」と息子に言われた。地方に転勤になった息子は、最近めっきり実家に顔を出さなくなった。それが珍しく「今度の週末、中華街にいこうよ」と言ってきた。
 我が家では、お祝い事があるたびに、必ず中華街で円卓を囲んだ。いつも、私の幼友達がやっている広東料理の店だった。息子は、きっと結婚を考えている人を連れてくるのだ。そう思うと、不思議な高揚感と安堵感、そして一抹の寂しさに包まれた。さっそく友人の店に電話し「とびきり大事なお客様がくるから、豪勢にお願いね」と席を予約した。
 土曜日の夕方。関内駅に現れたその女性は、綺麗な瞳と爽やかな笑顔をたずさえていた。中華街は賑わっていた。息子は得意げに説明している。中華街は東西南北、四ヶ所に牌楼門があって、各方位の守護神に守られている。東は朝陽門で日の出を迎える門、色は青。西は延平門で平安を願う、色は白。南の朱雀門は厄を払い大いなる福を招く。色は赤。そして北は玄武門といい子孫繁栄をもたらす。色は、黒。
 彼女が門に貼られた「福」という字が、どうして逆さまになっているのかと聞いた。息子は困って私を見た。逆さは中国語で「倒れる」と書いて「倒」。倒の発音は、「到る」と同じ。つまり、福を逆さにして「福に到る」と読ませるのだと私が説明する。福に到るとは今日の日にふさわしい響きだと思いながら、二人を友人の店に案内した。

今日の「中華街物語」いかがでしたか。出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。また来週をお楽しみに・・・

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2006年5月 4日 (木)

ヨコハマ ストーリー  第6回 「グランドホテル」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したそのときから、歩みは始まりました。
そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。
そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』今日は「グランドホテル物語」

 横浜開港後、外国人用ホテルの需要が急増した。そして、現在の「横浜人形の家」付近に、本格的なホテル「グランドホテル」が建てられた。残念ながら、このホテルは関東大震災で焼失した。震災後、ホテルの復興はなかなかすすまなかった。しかし、需要の高さに迫られた横浜市は、市がホテルを建設し運営を民間の会社にゆだねるという画期的方策を打ち出した。そして昭和2年、新しいホテルが誕生。名前は横浜市民から募集し『ホテルニューグランド』と決まった。
 このホテルにはチャップリンや、ベーブ・ルースが泊まり、第二次大戦直後は連合国軍最高指令官、マッカーサーが執務室として利用した。現在のホテルニューグランド旧館は建設当時の面影を残している。階段をのぼったロビーは洋風と和風を巧みに調和させ、格調の高い雰囲気をかもしだしている。

 結婚40年のお祝いで『ホテルニューグランド』に夫と泊まることにした。本館二階のロビーは太い柱とレリーフをほどこした壁、年代を感じさせる調度品やソファで重厚な空気につつまれている。その雰囲気は昨日今日つくられたものではなかった。
 普段ほとんど口をきかない夫が珍しく「たまには、ホテルに泊まるか」と声をかけてきた。「結婚式をあげたニューグランドにしようと思う」と言った顔が印象的だった。照れたような怒ったような表情。あとで、娘がこっそり話してくれた。これは娘のアイデアだった。頑固な夫がこのアイデアに素直にしたがってくれたことが微笑ましかった。
 山下公園を夫と散歩した。並んで歩くのはずいぶん久しぶりだと思う。先月の入院は二週間に及んだ。定期的な検査入院だったがかなりこたえた。夫は、毎日病院にきてくれた。
 歩く私たちの影は心細く揺れている。影も歳をとるのかしら、とふと思った。風に潮の匂いが交じっている。氷川丸の船体が水面に映った陽光をはねかえしている。「風が出てきたな。ホテルに戻ろう」と夫が言った。
 レストランの席は窓側だった。こうして、あらためて二人の時間をながめると、私たちの関係も、このホテルのように昨日今日つくられたものではないことがわかる。気がつくと、ウエイターが、大きな花束をテーブルに置いた。夫はそっけなく「これは、俺が頼んだんだ」と言った。その言い方がおかしかった。窓の外では暗くなった街路樹に、柔らかな灯りがともった。

 今日の「グランドホテル物語」いかがでしたか。出演、小林 節子 脚本、北阪真人でお送りしました。また来週をお楽しみに・・・

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2006年4月28日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第5回 「馬車道物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時から、その歩みは始まりました。
そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。
そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」
今日は、「馬車道物語」

 吉田橋から県立博物館に向かう馬車道は、明治期の洋風を模したガス灯などでレトロの印象が強い。この道は馬車が通った道で、居留外国人の要望で1867年3月に造られた。開港直後、馬車は外国人専用の乗り物だった。これを乗り合い馬車として企業化したのは、茶や絹などの貿易会社のコブ商会で、横浜と築地間に一日2回定期便を走らせた。
 日本人が初めて乗合馬車の営業を開始したのは1869年で、わが国の写真業の祖といわれる下岡久之助らの成駒屋だった。成駒屋は吉田橋脇を発着所とした。二頭立て、定員6名の馬車は都橋を渡り、野毛山を超えて4時間かけて日本橋に向かった。1868年、馬車道の太田町にわが国最初の写真屋が、翌年、常磐町にわが国初のアイスクリーム屋が開業、そして1872年にガス灯がともり、馬車道は開け行く文明のシンボルになった。

 友人の個展を観るために関内まできたので、昔、父がシェフをつとめるレストランがあった馬車道を歩いてみようと思った。幼い頃私は厨房に父を訪ねては、よく怒られた。何日も煮込んだシチューの香りを今もしっかりと覚えている。叱られてばかりだったのに、馬車道を歩くと胸の奥があたたかくなるのは何故だろう。
右手に見える「神奈川県立歴史博物館」。ドイツ・ルネッサンス様式の影響が強い本格的な石造り。その堂々とした風格は、まるで父の背中のように安心感を与えてくれる。
 友人の絵は素晴らしかった。彼女は五十を過ぎてから本格的に絵画を学んだ。そのタッチは優しく繊細だった。海に浮かぶ船の絵があった。うねる海。小さな船は少し心細く見えたが、この船は必ず港にたどり着く。そう思わせる何かが伝わってきた。
 父の店があったあたりに、小さな喫茶店があった。店内は山小屋を思わせるロッジ風のつくりで、低くモーツアルトが流れている。髭をたくわえエプロン姿の主人にコーヒーを注文した。
 陽が傾きはじめていた。父のことを思い出した。そうだ、私は怒られてばかりではなかった。この道を私の手をひきながら歩く父は、笑っていた。その大きな手の感触がよみがえる。
 ドアが開き、ベルが鳴った。振り向くと、そこに個展をひらいた友人がいた。
「あなたの姿がみえたものだから。個展、きてくれたのね。ありがとう」と微笑んだ。子供たちのことや昔のこと、いろいろな話をした。ふと、窓ガラス越しに家族連れが歩いているのが見えた。ああ、父が、友人と引き合わせてくれたんだなと思った。
 ガス灯の灯が、優しく舗道を照らしていた。

 今日の、「馬車道物語」いかがでしたか。出演、小林節子、構成、北阪昌人でお送りいたしました。また来週をお楽しみに・・・

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2006年4月21日 (金)

ヨコハマ ストーリー 第4回 「私の野毛山公園物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。


魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。
そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、「私の野毛山公園物語」

 横浜野毛の街から野毛坂を上り、横浜市立図書館の角を左に折れると、道の右手には木立に包まれた緑濃い一画がある。そこが野毛山公園だ。野毛山公園は日本庭園、西洋庭園、折衷庭園の三つ様式を持った公園として1926年(大正15年)に開園した。第二次大戦後、しばらく米軍に接収されていたが。1949年(昭和24年)日本庭園だった部分に動物園が、1951年(昭和26年)洋式庭園だった部分に児童遊園が造られ、整備を加えながら現在の野毛山公園になっている。
 野毛山公園には、横浜にゆかりのある人の記念碑が3つある。まず入ってすぐの散策路の傍らに著名な女流俳人「中村汀女」の句碑がある。高浜虚子に師事したホトトギス派の中村汀女は、日常を題材にしながらも叙情性に富んだ句を詠んだ人として知られている。
 中村汀女の句碑から歩を進めて、噴水のある広場の上側へと散策路を行くと、佐久間象山顕彰碑がある。幕末の松代藩士、佐久間象山は、横浜開港を推進した人物と言われ、開港百年を記念して1954年(昭和29年)この地に顕彰碑が建てられた。
 佐久間象山顕彰碑の傍らを過ぎて道路に戻り、動物園入り口横から吊り橋を渡ると野毛山配水池がある。そこに「近代水道発祥の地」の記念碑としてヘンリー・スペンサー・パーマーの胸像がある。パーマーは水道創設の際、技術指導を行ったイギリス人で、横浜水道創設百周年を記念して1987年(昭和62年)に胸像が建てられた。
 公園の開放的な雰囲気いっぱいのこの広場は、高台に位置している。周囲に視界が開けており、近くの展望台からは港方面の眺望が楽しめる絶好のロケーションである。今日、野毛山公園は市民のいこいの場所として、また観光の名所として多くの人々に愛されている。

 私の実家は西区宮川町。「野毛山公園は我が家の庭のようなもの」と言ったら少し大げさだろうか・・・でも本当に近い。公園の広場にはよく遊びに行ったし、高台の展望台から、はるか遠くに船や大きなクレーンなど、港の風景を楽しんだものだ。
 そして公園の外には二階建ての小さな放送局があった。それは1958年(昭和33年)に誕生したラジオステーションで、アメリカ軍のラジオ局WVTR現在のFENを意識した外国音楽が中心の放送局だった。
フランソワーズ、モレシャンさんのエレガントなフランス語には、遥かパリを感じ、ケン田島さんの格調高い英語にはイギリスやアメリカを感じたものだ。また流れてくるアメリカンポップス、ジャズ、カントリー、ハワイアン、シャンソン等、外国音楽の魅力にすっかり引き込まれてしまった。特に当時まだ誰も聴いたこともなく、全く知らなかった新しい音楽、ボサノバそしてモダンフォークミュージックを初めて耳にしたときの感動は大きく、当時の私の若い心を強く踊らせて止まなかった。
 私は日本人で、しかも生粋のハマッ子だが「音楽の国籍はどちら」と問われれば、すぐさま「外国籍」と言いたいくらいすっかり洋楽ファンになっていた。             
 大学時代、私には音楽仲間と言ってもよい五人の友人がいた。私達は、年数回に集まり、野毛山公園に行っておしゃべりしたり、歌ったりするのがきまりのようになっていた。仲間のうちの一人浩君は、私達女性のアイドルだった。彼の足はスラッと長く背も高くスマート。当時流行していたアイビーファッションがよく似合っていた。さらに憧れの、マーティンのフォークギターを持っていて、これがとても上手。おまけに新しいモダンフォークも知っていたので人気を独占しても不思議ではなかった。浩君には「花はどこへ行った」等モダンフォークを教えてもらい、芝生の上でみんなで歌い、楽しい時間を過ごした。
 そんな折、「花はどこへ行った」を作ったモダンフォークの神様的存在「ピートシーガー」が川崎でコンサートを行うという知らせが伝わってきた。私達は野毛山公園に集合してから聞きに行く事を約束していた。しかし約束の時間が過ぎても浩君は現れなかった。急病だった。みんなで一緒に行こうと決めていたので私達はコンサートをあきらめることにした。
 それからまもなくして浩君は外国に旅立ってしまった。以来みんなで会うことはなくなったが、彼はアメリカで音楽関係の仕事をしていると友達が教えてくれた。
 今でも野毛山公園のあたりを通ると、残念な一日もあったが、楽しかったたくさんのことを想い出す。しかし、もうあの時の歌声は聞こえてこない。さらに昔のラジオ局の跡は、アンテナらしきものだけが残され駐車場になっていて、昔胸を躍らせて聴いた音楽ももう聞こえこない。
 ボブディランが「時代は変わる」と歌ったように、間違いなく時代は、しかもどんどん早く変わっていってしまう。でも私達に想い出を残してくれた野毛山公園はこれからも市民の憩いの場であってほしいと願う。私の心の中にも、あの時代のことと共にずっと生き続けていくのだから。

今日の、「私の野毛山公園物語」いかがでしたか。
ヨコハマの魅力と由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」出演、小林節子 脚本、浮田周男でお送りしました。
なお、野毛山公園へは、JR線「桜木町駅」から歩いて約15分。京急線「日の出町駅」から歩いて約10分です。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年4月14日 (金)

ヨコハマ ストーリー 第3回「横浜ステーション物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。


魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。
ペリー艦隊が来航した時から、その歩みは始まりました。
そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。
そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく
「ヨコハマ・ストーリー」今日は、「横浜ステーション物語」

横浜駅は、現在の場所に移るまで、実に56年の歳月を要した。駅舎の流浪の旅は、1872年10月14日、横浜、新橋間の開通に始まる。当時の横浜駅は、今の桜木町駅の場所にあった。駅舎は、アメリカの建築家ブリジェンヌ氏が、設計し、前年の9月に完成している。
当初、横浜駅は、桜木町駅から大江橋を越えて関内方向に造られる予定だった。しかし、蒸気機関車による火事を危惧した住民の強い反対により、現在の桜木町までしか鉄道が造られなかった。
1889年に東海道線が全線開通したが、下り列車は神奈川駅から横浜駅に入り、そこで機関車をつけかえて同じ線路を通って保土ヶ谷駅に向かうルートしかなかった。
神奈川と保土ヶ谷を直接つなぐルートを設置するべく、現在の高島町付近から平沼橋付近に線路がひかれた。1901年には、その間に平沼駅が開設されたが、その名のとおり、駅周辺は湿地帯で土地の状況はよくなかった。
世界につながり、栄えつつある港の町、横浜にふさわしい駅舎をという要望にこたえ、1915年8月に、高島町にレンガ造りの駅舎が完成した。そこを横浜駅と名づけ、従来の横浜駅は、桜木町駅と改名された。さらに、この横浜駅も立地に問題があり移転を迫られ、1928年9月に、ようやく現在の横浜駅の位置に駅舎ができあがった。
ドイツ風の重厚なコンクリート造りは以来50年以上威厳を保ち続けた。

ある日曜日、夫は「久しぶりに友達に会うんだ」と言って出かけていった。定年を控え、最近、少し元気がなかったので、私は「いってらっしゃい」と明るく送り出した。夜になって、帰ってきた夫は、にこやかに笑いながら、友達との再会の話を聞かせてくれた。
桜木町駅に降り立つのは、16年ぶりになる。商社勤めの常で、海外暮らしが長かった。妻と娘を日本に残し、単身で渡った国は片手では足りない。電車から吐き出される人の群れ。乗り込む人の流れ。休日のホームは家族連れと恋人同士であふれていた。
今日は16年ぶりに友人に会う。待ち合わせは横浜美術館。16年前、友人と私は横浜博覧会の開催に奔走した。そして、その会の一施設として開館したのが横浜美術館だった。桜木町駅構内の壁に「エドモンド・モレルの肖像」がある。彼は1870年、横浜、新橋間の鉄道開設2年前、初代鉄道建築士の責任者に就任したことで知られている。
その実直な人柄は、伊藤博文も絶賛したらしい。彼も、異国の地での生活を精一杯やり遂げたのだ。滞在わずか一年半での病死は、その任務の過酷さを物語っている。今は、外人墓地に夫人とともに眠っているという。
駅を出て、ゆっくりと歩く。待ち合わせの時間までには余裕があった。春の陽は暖かく、ときおり優しい風に潮の香りがした。定年をひかえ、自らの心を見つめるゆとが
生まれた。先ばかりを見つめ、前ばかりを目指してきた自分の人生において、初めての「振り返る」という心の動き。とまどいや不安もあるが、そんな心の行方に身を任せてみたいという願望もあった。そんなとき、突然友人が会いたいと言ってきた。
彼は、行政側の現場担当者として、博覧会に携わった。がっしりした体は野球で鍛えたものだと笑った。その笑顔に救われた。運営にたどり着くまでの幾多の苦難も、彼の「まあ、なんとかなるでしょう」のひとことで乗り越えられたような気がする。彼は私より先に一線を退き、今は横浜郊外で、静かに暮らしていると人づてに聞いた。彼が「静かに暮らしている」様子はうまく想像できなかった。突然の再会の誘いは、パソコンだった。年賀状に書いておいたアドレスにメールがきた。
「たまには、ノスタルジーにひたってみましょう。郷愁に心をゆだねるには、横浜はいい街です」と彼は書いた。
整備された道を歩いていると、家族連れとすれ違った。小学二、三年の女の子が、右手に真っ赤な風船を持っていた。16年前、娘もあんな歳だったな、と思った。その娘が来月嫁に行くのだ。
階段を下りると、美術館が見えてきた。丹下健三設計による堂々としたたたずまい。ふと、こちらに向かってくる男性が見えた。がっしりした体躯は、いくぶんやせてしまったが、忘れられない笑顔があった。そして、その微笑みは「まあ、なんとかなるでしょう」と言っているように見えた。私は、年甲斐もなく、大きく手を振った。彼もまた、手を振りかえした。春の午後にできた二つの影が近づいた。
大きく手を振る夫の姿がはっきりと想像できた。私は、友達との再会のシーンを聞きながら、そっとつぶやいた。
「まあ、なんとかなりますよ」

今日の、「横浜ステーション物語」いかがでしたか。ヨコハマの魅力と由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」出演、小林節子、脚本、北阪昌人でお送りいたしました。また来週をお楽しみに・・・

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