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ヨコハマ ストーリー

2006年8月25日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第22回 「私の横浜夏物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の横浜夏物語』。

 若き日の横浜の夏の思い出といえば、大学一年の時、体育の単位取得のため横浜プリンスホテルのプールで水泳の特訓をしたこと。
 その当時からの仲間と、久しぶりに横浜で会って今年の夏を締めくくろうということになった。みなとみらい線日本大通り駅で待ち合わせ、街へ繰り出した。
山下公園からみなと大通りと歩き回り、馬車道では「馬の水飲み場」を発見。午後も一時半を過ぎたので、大桟橋通りの「カルテ・デリ」で腹ごしらえを、と行ってみた。昔、よく行ったそのお店はもう無く、仕方なく元町に行くことにした。
 元町は週末で賑わっていた。お昼は、昔来たことのある肉料理の店「シィエル・ブルー」した。テキサス風の古い店内は、今も昔の面影を残し、あまり変わっていなかった。男性達はビールも注文。さっきの「馬の水飲み場」ではないが、暑い中ビールにありつけた喜びも手伝って、話は大いに盛り上がった。
 食後は元町を歩き回った。子供のころは、まだ元町では買い物は出来なかったが、ハマトラが大ブームになる少し前には、もう働いていたので、キタムラやフクゾウに行くことができるようになっていた。
 夕食は、中華街関帝廟通りにある小さな北京料理の店「蓬莱閣」。ビールを注文して、メニューとの格闘が始まった。
その時、一人の中年男性と若者三人のグループが入ってきた。白髪まじりの中年男性は、ビールを素早く注文したかと思うと、メニューも見ずに次々と料理とデザートまで一気に注文した。あっという間の出来事だった。
 仲間の一人が、その男性に「よく来るんですか、この店には」と語りかけた。
「ああ、年に一回くらいかな」
「昔からですか」
「25年くらいかな、30年になるかな」
「どちらから」
「東京に決まってるよ」
 短いフレーズで余計な事は言わない。江戸っ子だな、と思った。そうこうしていたら、その男性が、自分たちは注文しないのに「餃子、頼まないの?」と聞いてきた。私たちは水餃子を注文した。
 女主人と、その息子だと思われる店員が、初めて微笑んだ。最後にその男性が「シュガーシャックに、よかったら一緒にどう?」と誘ってくれた。シュガー・シャックはソウルバーだ。でも私たち「スターダストに行くの」と答えたら、「いいね」と一言いった。
JR東神奈川駅まで電車でそして、タクシーでみずほ埠頭方向へ。米軍施設のある橋の手前で降りる。
 スターダストに入ると、カウンターにどっしりと座っている猫に迎えられて中に入った。飲み物を注文して飲み始めると、猫はもうカウンターの上で丸くなって寝始めていました。キャッシュ・アンド・デリバリー方式、古いジュークボックスから流れる音楽も懐かしい。変わったのは外国人、アメリカ人がいなくなったことくらいだ。
 
今日の、『私の横浜夏物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、浮田周男でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・


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2006年8月18日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第21回 「横浜ホテル物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「横浜ホテル物語」

 みなとみらいに、屹立する高層ホテルは、それぞれ個性的だ。帆船をイメージしたヨコハマ グランドインターコンチネンタル ホテル。バルコニーで潮風を感じることができるパン パシフィックホテル横浜。そして何よりその名のとおり、ランドマークとしてそびえたつ横浜ロイヤルパークホテル。
横浜ランドマークタワーは、造船所のドック跡地に建設された。現在、イベントスペース等に利用されている『ドックヤードガーデン』は、日本に現存する最古のドックヤード「第2号ドック」を残したものだ。このドックは、1896年に竣工し、1973年に使用を中止するまでの70数年間、港湾施設として、重要な役割を果たしてきた。そして1993年、横浜ランドマークタワーの開業とともに、ドックヤードガーデンとしてオープンし、1997年12月に、国から重要文化財の指定を受けた。離れた海岸線を懐かしむように、ドックには今日も潮風が舞っている。

 夏の日差しはまだ健在だった。港を横切るタンカーが、かげろうのように見える。短い夏休みにホテルを予約した。友人は「少し贅沢じゃない?」と言ったけれど、ランドマークタワーにあるホテルにした。部屋もとびきり見晴らしのいいタイプを選んだ。
 このホテルには、地上256メートルの65階に、お茶室があった。私と友人は、以前からその天空のお茶室が気に入っていて、何度かお点前を体験したことがある。晴れた日には富士山も見えるその場所で「いつかこのホテルに二人で泊まって、命の洗濯をしましょうよ」と私を誘ったのは、友人の方だった。
待ち合わせの時間より早く着いたので、ドックヤードガーデンに行こうと、階段を下りたときだった。突然の風に帽子を飛ばされた。帽子は弧を描き宙を舞った。ひとりの青年がその帽子を追いかけてくれた。階段を駆け下りドックヤードガーデンに落ちた帽子を青年はつかまえた。
 青年は、人懐こい笑顔で、私に帽子を差し出す。「ありがとうございます」と言うと「ここは昔、船のドックだったから海風が懐かしがって、ときどき遊びにくるんです」と笑った。足早に仕事に戻っていく青年の後姿が、くっきりとした夏の陰をつくりながら小さくなっていった。
 友人とのディナーは、68階のフレンチにした。相模湾でとれた新鮮な旬の魚が、横浜ポーセリンのお皿に盛られてくる。デザートが、ワゴンで運ばれてきた。そのワゴンを押すパティシエの顔に見覚えがあった。彼は、再び人懐こい笑顔で「ああ、どうも」と言った。
「昼間はありがとうございました」と私が頭を下げると、友人は、わけがわからず私たちの顔を見比べた。
「僕は、小さいころ、誕生日をホテルでしてもらったことがあるんです。ケーキに花火をつけてくれたのが嬉しくて。そのときの喜びが忘れられなくて、いつかホテルのレストランで働きたいって思い続けてきたんです」。ケーキも美味しかったけれど彼の笑顔を見ていたら、すでに命の洗濯は完了したように思った。ベイブリッジの青い灯りが、ケーキの上の花火のように浮かんで見えた。

今日の「私の横浜ホテル物語」はいかがでしたか?出演、小林 節子 脚本北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年8月11日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第20回 「私の写真館物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本の抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の写真館物語」

1861年、横浜市中区野毛町に、日本で最初の写真館ができた。『全楽堂』という小さな写真館を開業したのは下岡蓮杖だった。彼は、下田から画家を目指して上京したが、当銀板写真に出会って衝撃を受けた。その迫力に圧倒された蓮杖は、写真技術を取得するため、奮闘する。浦賀奉行所、アメリカ領事館、さまざまな場所を渡り歩き、辿り着いたのが横浜。イギリス人の職業写真家、ジョン・ウイルソンに写真機材を譲り受け技術を会得、ついに念願の写真館開業にこぎつけた。写真技師を志して、実に18年の年月が流れていた。

 昔は、住んでいる街に必ずひとつは、小さな写真館があったような気がする。私が幼いころ住んでいた野毛の町にも写真館があった。店の前に飾られたいくつかの写真。七五三、入学式、結婚式。人生のお祝い事には、みんな写真館にいって嬉しい時間を封印した。
 ある日、父に手をひかれて写真館に行った。父は「遠くに住んでいるおじいさんに、写真をおくってあげよう」と話しながら私の頭をなでた。店に入ると白髪頭のおじさんが、じろっと私を見た。不思議な色をした壁の前に立派な椅子があった。おじさんは、その椅子に座わるように言った。父が見守る中、私は写真に撮られた。笑ってといわれても、どんなふうに笑えばいいのかわからなかった。そのときの写真が、まさか写真館の表に飾られることになるとは思いもしなかった。
 町の小さな写真館に飾られた私の写真。はにかんだように、ぎこちなく微笑んだ顔。店が通学路にあったので、写真はクラス中の知るところとり、私はクラスの男の子からずいぶんひやかされた。私は写真嫌いになった。店の前をさけ学校へも遠回りしていくようになった。母に、あの写真をはずすように言ってと頼んだ。でも私の写真は飾られたままだった。写真のことをみんなが何も言わなくなる頃、気がつくと店のウインドウからはずされていた。
 先日、久しぶりに実家に帰った。母が面白いものが出てきたわよと言った。見ると、写真館に飾られていたあの写真だ。きちんと額におさまっている。
「お父さんはね、この写真が、とっても気に入っていたのよ。写真屋さんがね、表からこの写真をはずそうとするのを何度もとめたくらい」と母は言った。困ったような笑顔の私。そのセピア色の幼い自分を見ながら、当時のことが次々と思い出された。写真館のかびくさいような匂い。フカフカとした椅子の感触。そして、父の大きな手のぬくもり。「これ、もらってもいい?」と私は母に笑顔で言った。

 今日の「私の写真館物語」いかがでしたか?出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年8月 4日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第19回 「私の根岸森林公園物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の根岸森林公園物語』。

1867年、日本で初めて競馬が行われた根岸競馬場。その跡地に開かれた根岸森林公園。根岸競馬場は戦争で閉鎖、戦後は米軍に接収された。ゴルフ場やモータープールになっていたが、1969年に一部が返還され、1977年に公園としてオープンした。
この公園の魅力はなだらかな丘と、横浜スタジアムが五個分という敷地いっぱいに広がる芝生。多くの樹木による四季折々の景観も素晴らしい。隣接する根岸競馬記念公苑には、馬の博物館、ポニーセンターがあり世界でも珍しい馬だけの総合博物館である。根岸競馬場の歴史や、暮らしの中の馬文化など豊富な資料が揃っている。

 本棚を整理していたら、妙なものをみつけた。古ぼけた5年運用日記。17歳の時に、突然、思いたって書き始めたのだ。最後までやり遂げないと気の済まない性格だが、不思議なことに、その5年の運用日記は4年8ヶ月と13日で終わっている。
 ページをめくっていくと一枚の写真が出てきた。父と私が左右に分かれ、一頭の馬の手綱をとっている。父の愛馬・ヤマフジが、大井競馬場で優勝した時のスナップだ。
 父は競馬が好きで、周りの反対をも押し切って馬主になったことがある。だが、馬主生活はそう長くは続かなかった。馬のオーナーとしての経済的な負担はかなりのものだったのだろう。愛馬ヤマフジ優勝のスナップは、私達にとっても古き良き時代のひとこまだ。
 父は根岸森林公園を散歩するのが好きだった。丘の上には、古いレンガ造りの館がそびえている。開設以来立ち続ける競馬場跡の観覧スタンド。
昭和16年、ここで四歳馬のレースが行われ、優勝したのがセントライト。セントライトは、東京と京都でも勝って日本初の三冠馬となった。
「もし戦争がなかったら、ここでクラシックレースをやっていたんだ」父は残念そうに、よくそう言っていた。
 もし、戦争がなかったらで、ふと思い出した。日記が4年と8ヶ月あまりで終わっているのは、私にとっての淡い、切ない恋の戦いの終戦。「青春って、純で無邪気で、ムキになってしまうものだったじゃない。」とスナップ写真の中の二十歳の私が微笑みかけてきた。

今日の、『私の根岸森林公園物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、大多田純でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年7月28日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第18回 「国際劇場会館物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「横浜国際劇場会館物語」


横浜、野毛。今は場外馬券場「wins」になっている場所にかつて横浜ショービジネスの中心として観客を魅了し、数々の伝説を生んだ横浜国際劇場会館があった。
昭和23年。横浜国際劇場会館一周年記念特別興行。小唄勝太郎の前座で登場したのはわずか十歳の少女だった。スポットライトをあびた彼女は、笠置シヅ子の「セコハン娘」などを歌った。およそ2千人の観客は驚き、そして割れんばかりの拍手を送った。美空ひばり、表舞台登場の瞬間であった。このステージをきっかけに、美空ひばりは、横浜国際劇場会館と約半年間の専属契約を結んだ。また映画『悲しき口笛』は、野毛周辺が舞台になり、それにちなみ劇場跡地の道路をはさんだ向かい側に、シルクハットをかぶった美空ひばりのブロンズ像が建っている。この劇場は、階段状の客席に絨毯が敷かれた立派なホールで、観客が戦後の暗い世相を瞬時忘れることができる空間であった。

 「母が倒れた」という知らせを受けたのは、劇場での仕事が無事終った楽屋だった。マネージャーの北里さんが、落ち着いて話してくれた。私が司会をつとめるクラシックコンサートが始まる寸前に知らせが入ったのだが、北里さんは黙って舞台を見守り続けた。その判断に救われたかもしれない。
なぜなら、私は、モーツアルトの「レクイエム」の説明をしなくてはならなかったのだ。もし母のことを知ったら、不吉な想像をして、きっと声をつまらせてしまったことだろう。
 急いでタクシーに乗り、流れていく風景を見ながら母をひたすら案じた。
母は、劇場に足を運ぶのが大好きだった。昭和31年、美空ひばりが8年ぶりに横浜国際劇場会館に出演した姿を観たことが何よりの自慢で、私が生まれてからも芝居、リサイタルと劇場通いはやめなかった。私が、劇場と縁がある仕事をしているのも、少なからず母の影響なのだ。私が司会をつとめる舞台には、必ず足をはこんでくれた。
 病室の母は安定していた。パイプ椅子を広げて座ると母が目を覚ました。
「痛む?」と聞くと、「だいじょうぶ」と小さく言った。そして「コンサートは、うまくいった?」と聞かれ私は大きくうなずいた。母は、幸せそうに微笑んだ。
 「初めて、お芝居に連れていったときのことを思い出すわ。騒ぐことも退屈がることもなく、黙って、じっとお芝居を観ていた。今でもその横顔を覚えている。客席から舞台に立つあなたを見ると、ほんとうに幸せな気持ちになるの。そしてね、あなたを自慢に思ってるのよ」と母が言ったとき、不覚にも涙がこぼれた。

今日の「横浜国際劇場会館物語」いかがでしたか。出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年7月21日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第17回 「私の磯子物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の磯子物語』。

(このストーリーの舞台、横浜プリンスホテルは平成18年6月末で閉館となりました。)
JR京浜東北線の南端だった桜木町駅からさらに南に向かって電車が走るようになったのは1964年、根岸線の桜木町・磯子間が開通したときからだ。これにより、根岸や磯子地域は急激に発展した。そして同時期から始まった根岸湾埋め立て工事で、工場が誘致され臨海工業地帯が作られていった。また磯子駅周辺には大型店舗を核とする商業地域と、海を見下ろす高層住宅地域が出現した。こうして、磯子区は1964年にはおよそ8万8千人だった人口が、今では16万2千人と一大ベッドタウンとして発展した。

 先日、新聞に面白い小さな記事を見つけた。横浜プリンスホテルのフラワープロムナードで「アガウェー・ショーウィー」という珍しい花が、まもなく開花しそうだという記事だ。「アガウェー・ショーウィー」は、英語名で「センチュリー・プラント」と呼ばれ、百年に一度花を咲かせ、枯れてしまうと生涯を終える神秘的な植物ということだ。実際には30年から50年に一度開花するそうだが、それでも開花まであまりの長い年月がかかるので「センチュリー・プラント」と名付けられたのだろうか。
私は興味をそそられ友達と出かけた。フラワープロムナードでは長く伸びた「アガウェー・ショーウィー」が黄緑色の花を咲かせていた。そばにいた方に聞いたところ、日本では龍舌蘭と呼ばれているメキシコが原産の花で、樹液からはテキーラなどのアルコールが作られるとのことだ。
 ここ横浜プリンスホテルは、地元の私たちは「磯子プリンスホテル」と言っていた。
ここのプールには懐かしい思い出がある。大学一年の女子の体育の必修科目が水泳だった。単位のためにはテストで25メートル以上泳がねばならない。子供の頃、本牧の海岸線にはバス停ごとに海水浴場があったくらいで、夏休みには家族や近所の友達とよく海に行った。しかし、私は浮き輪で遊んでいただけで、泳ぎは全くダメでカナヅチだった。
 横浜から通っていた同じ学部の同学年に泳げない女の子が一人いた。私たちはすぐ友達になり、水球部の一人の男子学生をバーベキューをごちそうするからと、コーチに頼み夏休みに4回くらい横浜プリンスホテルのプールで特訓した。
おかげで、二人とも何とか25メートルくらいは泳げるようになった。毎回プールから上がって、夕方3人で食べたバーベキューの味と楽しさは、若き日の夏の思い出となっている。この話にはオマケがある。秋になってテストの日、緊張からか焦りからか、電車を降りるとき棚に水着を入れたボストンバッグを忘れてしまった。その日のテストはついに受けられなかった。幸い後日、次のテストで何とか合格し無事単位がとれた。

 今日の、『私の磯子物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、浮田周男でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年7月14日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第16回 「私の映画館物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の映画館物語」

1911年のクリスマスの日、横浜長者町に日本最初の洋画専門映画館、オデヲン座が誕生した。オデヲン座は、常設の洋画封切館として東京まで名をはせる第一級の映画館になった。同館は、山下町の貿易商、平尾商会の試写館で、輸入フィルムをいち早く公開できた。
関東大震災で平尾商会が手をひいたあとを、六崎市之介が引き継いだ。まだ無声映画の時代、彼は伴奏音楽に着目した。弁士に合わせて六崎自身がクラリネットを演奏する管弦楽団を編成した。その質の高い伴奏は「活動映画ファン」を魅了した。また、映画のプログラム『オデヲン座ウィークリー』も充実させた。ファンは、この表紙と挿絵に凝った解説書を競って収集した。

私の家は、横浜、日の出町近くで、映画館をやっていた。映画好きの父の夢だった。母もその夢に自分の夢を重ねた。今では、笑い話だけれど、私が産まれる前、よく私の家に泥棒が入ったという。その理由が面白い。『心の旅路』という映画を上映していて、毎日、父と母がそれを観にいき家を空けていたからなのだ。
私の幼いころの思い出は映画館にある。当時の映画館には冷房の設備などない。暑さしのぎに氷の柱が置かれた。その氷の中に花が入っていたのを今も覚えている。
映画館のチケット収入だけでは、思うように儲からないので、母は売店を思いついた。PXと呼ばれる米軍専用の店から、ルートを使って品物を仕入れた。アイスクリーム、チョコレート。おせんにキャラメル以外の商品に皆、飛びついた。
映画が終ったあと、ドアが開いて観客があふれてくる瞬間。出てくる人は、どの顔もうれしそうで幸せそうだった。その光景は、物をつくったり毎日会社に行かなくても人を幸せにする仕事があることを教えてくれた。
私は映画が好きだ。あの暗闇の中で人は人生を生きる。笑い泣きながら、自分とは違う人生を味わう。光りあふれるロビーに出る瞬間、私は一生分の2時間を体験したことを知る。

今日の「私の映画館物語」はいかがでしたか?出演、小林 節子 脚本北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年7月 7日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第15回「私の横浜ジャズ物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の横浜ジャズ物語』。

アメリカ生まれのジャズは、明治の終わりから大正にかけて日本に上陸したと言われる。西海岸から太平洋航路が開拓され、寄港する東洋の港町にジャズを誕生させた。 大戦中、敵性音楽だったジャズは禁じられたが、戦後、傷だらけの横浜の街に進駐軍のラジオからジャズが流れ始めた。同時に軍の施設やクラブなどでジャズの演奏が聴かれるようになった。日本人のバンドマンが仕事を求め、横浜駅前などに集まりバンドマーケットができた。また、日本のモダンジャズの原点といわれる伊勢佐木町「モカンボ」での「モカンボセッション」が行われるようになり、秋吉敏子、渡辺貞夫らが横浜から巣立った。横浜のこのような歴史的背景をもとに、1993年から横浜ジャズプロムナードが開催され、ジャズ文化を発信している。

ミニライブへの誘いの葉書が届いた。中年アマチュアバンドのライブだが「トシオを送る会」と書かれてあるのに引かれて行ってみる事にした。
トシオ君は40年近くにもなる古い仲間だ。高校時代、横浜の規律に厳しいミッション・スクールに通っていた私にとって、日曜日はいつもと違った気分になれる日だった。海岸教会での日曜日の礼拝。私たち賛美歌コーラスの仲間にとって唯一、ボーイフレンドとの出会いの場所だった。今思えば初々しいお付き合いだった。トシオ君もそのひとりだった。ジャズの専門誌「スウィング・ジャーナル」を片手に教会にやってくるトシオ君は、高校時代から先生に怒られながらも「ストーククラブ」や「ちぐさ」に通っていた筋金入りのジャズファン。大学に入ると、仲間を集めてジャズ研究会を作った。そして本格的なジャズボーカリストを目指すようになり、レコードデビューの話も聞くようになったが「上には上がいる」ということで、プロを断念して通信社の記者となった。
会場は関内の小さなビルの2階にあった。奥まったスペースにピアノ、ベース、ドラムが置いてある。アップライトのピアノの向こうにトシオ君がいた。
「お久しぶり。送る会ってどういう意味」
「ニューヨーク支局に転勤さ。今頃ジャズの本場に行ってもね。」
トシオ君がジャズを辞めた本当の理由は、生まれたばかりのお嬢さんが、難しい病気を患っていたということだ。地方廻りの仕事が多いミュージシャンでは、看護も生活も厳しい。「家族のため」サラリーマンを選んだ。それが真実だった。
この日のライブはいつになく賑やかで、アステアばりにリズミカルにタップを踏むトシオ君がとても粋だった。ラストナンバーはおきまりの「ニューヨーク・ニューヨーク」。
そのとき、花束を持ってお嬢さんの典子さんと奥様が登場、会場は一気に盛り上がった。再び大きな拍手の後、トシオ君はアンコールナンバー「マイ・ウェイ」を歌って「送る会」は幕を閉じた。

今日の、『私の横浜ジャズ物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、大多田純でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年6月30日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第14回「私の本牧物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の本牧物語』。

横浜港の南東部にあたる本牧。古くからエキゾチックな文化が根付いた街として知られ、明治の中頃から早くも外国人相手の歓楽街として賑わいをみせた。
その後、三渓園が公開され、谷崎潤一郎が住むなど別荘地として発展したが、戦後はアメリカ軍の基地と宿舎が広い敷地を占めた。まさにフェンスの向こうのアメリカだった。一方で、外国文化に影響された、その独特の雰囲気から、歌謡曲や映画の舞台にもなり、音楽家の活動拠点ともなった。1982年にアメリカ軍から返還されたが、基地と交流のあった名残を小港付近のカフェや雑貨店に見ることができる。

 先日、大学のOB会横浜支部の会に出席した。横浜のミッション・スクールから、東京の大学へ入学した私は、当初男子学生と話をすることができなかった。それが、住まいが本牧近くという事から、男子学生の関心を引いた。当時の男の子達は、横浜、特に本牧には憧憬をもっていた。それはフェンスの向こう側に存在するアメリカというイメージだったのか、新しいファッション、音楽、ダンスのステップ、街全体が醸し出す不良っぽさだったのか。ともかく、「節子は、本牧通なのだろう」とおだてられ、大いに株を上げ、ちょっと背伸びをして、「リキシャルーム」や「ゴールデンカップ」に案内し自慢だった。
 OB会が始まった。開宴の挨拶はおなじみの大先輩。乾杯の音頭は、白髪混じりのかなりの年輩に見えるロマンスグレー氏。あまり見かけない方だった。
仲良しだった友子と昔話に花を咲かせていると、突然後ろから「お久しぶりです、先生」と声をかけられた。乾杯の音頭をとったロマンスグレー氏だった。
「先生?」私は驚いて、「年輩に見えた貴方に、先生と呼ばれる覚えはないわ」と、内心つぶやいた。学生時代、私は本牧で三人の高校生の英語の家庭教師をしていた。有名なヨットのセール屋さんと自動車会社の息子さん。その照れた笑顔に思い出した。目の前のロマンスグレー氏は、確かに拓也君だ。
 「先生のおかげで一浪させられましたが、後輩です」拓也君の、この小憎らしいもののいい方は不思議なほど変わっていない。私がロマンスグレー氏の先生だったなんて、ちょっとショックで、思わず「貴方に教えた覚えはないわ」と大声を出してしまった。これには友子も声をあげて大笑い。誘われて私も吹き出し、涙が出るほど笑ってしまった。
 OB会も終わり、外に出てみると、港からの潮の香りが、いっそう強く感じられた。盛り上がった私たちの勢いはとまらず、拓也くんも誘いカラオケへ。 「ブルーライト横浜」の大合唱となった。

今日の、『私の本牧物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、大多田純でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年6月23日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第13回「横浜赤レンガ倉庫物語」 

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したそのときから、歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「横浜赤レンガ倉庫物語」

近代港湾発祥の地、横浜新港埠頭は明治の技術の粋を集めて造られた。赤レンガ倉庫は、その上屋施設として1907年に着工され、補強材として鉄を用い、スプリンクラーを完備、荷役用にエレベーターがあるなど、当時の最新技術が導入されていた。
赤レンガ倉庫は、貿易の要として活躍した後、関東大震災をくぐりぬけ、戦後は米軍に接収され、事務所や食堂、倉庫などに利用された。そして倉庫としての役割を終えたあとも、横浜のシンボルとして静かにたたずんできた。
その貴重な歴史的資産を1992年、横浜市が国から取得。2002年4月に新たな文化・商業施設としてオープンした。

 日曜日の朝、横浜赤レンガ倉庫を訪れた。友人が、一緒にガラス工芸を習おうと誘ってきたのだ。先月一人娘が結婚して、なんとなく心に穴が開いたような寂しさを感じていた。友人なりの気遣いなのだろう。
 赤レンガ倉庫にある「横濱硝子」は、横浜で初めての吹き硝子工房。いろんな作家が創作に取り組んでいるという。「まったくの素人である私でも大丈夫よ」と友人は言っていた。緊張したせいか、約束の時間より早く着いてしまった。
倉庫は、まだひっそりとその入り口を閉ざしている。埠頭を歩くことにした。初夏の陽射しを跳ね返しながら、シーバスが水しぶきをあげている。犬を散歩させている夫婦が、ゆっくりと通り過ぎる。
 横濱硝子での体験教室。卓上酸素バーナーを使って硝子棒を溶かし、トンボ玉を作る。飴のように溶けていく硝子玉。赤、青、緑、黄色など、さまざまな原色が、混じり合い、形を変えていく。友人は、慣れた手つきでトンボ玉付きの携帯ストラップを作っていく。私は、光を反射した硝子の美しさに、ただ目を奪われている。
 ふと、娘の結婚式を思い出した。キラキラ光る娘の姿が浮かんだ。心が満ちていくような幸福感が私を包む。嫁いだ娘に、携帯ストラップを作って送ってみようと思った。

今日の「横浜赤レンガ倉庫物語」はいかがでしたか?
出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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