ヨコハマ ストーリー 第14回「私の本牧物語」
魅力あふれる街、ヨコハマ。この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の本牧物語』。
横浜港の南東部にあたる本牧。古くからエキゾチックな文化が根付いた街として知られ、明治の中頃から早くも外国人相手の歓楽街として賑わいをみせた。
その後、三渓園が公開され、谷崎潤一郎が住むなど別荘地として発展したが、戦後はアメリカ軍の基地と宿舎が広い敷地を占めた。まさにフェンスの向こうのアメリカだった。一方で、外国文化に影響された、その独特の雰囲気から、歌謡曲や映画の舞台にもなり、音楽家の活動拠点ともなった。1982年にアメリカ軍から返還されたが、基地と交流のあった名残を小港付近のカフェや雑貨店に見ることができる。
先日、大学のOB会横浜支部の会に出席した。横浜のミッション・スクールから、東京の大学へ入学した私は、当初男子学生と話をすることができなかった。それが、住まいが本牧近くという事から、男子学生の関心を引いた。当時の男の子達は、横浜、特に本牧には憧憬をもっていた。それはフェンスの向こう側に存在するアメリカというイメージだったのか、新しいファッション、音楽、ダンスのステップ、街全体が醸し出す不良っぽさだったのか。ともかく、「節子は、本牧通なのだろう」とおだてられ、大いに株を上げ、ちょっと背伸びをして、「リキシャルーム」や「ゴールデンカップ」に案内し自慢だった。
OB会が始まった。開宴の挨拶はおなじみの大先輩。乾杯の音頭は、白髪混じりのかなりの年輩に見えるロマンスグレー氏。あまり見かけない方だった。
仲良しだった友子と昔話に花を咲かせていると、突然後ろから「お久しぶりです、先生」と声をかけられた。乾杯の音頭をとったロマンスグレー氏だった。
「先生?」私は驚いて、「年輩に見えた貴方に、先生と呼ばれる覚えはないわ」と、内心つぶやいた。学生時代、私は本牧で三人の高校生の英語の家庭教師をしていた。有名なヨットのセール屋さんと自動車会社の息子さん。その照れた笑顔に思い出した。目の前のロマンスグレー氏は、確かに拓也君だ。
「先生のおかげで一浪させられましたが、後輩です」拓也君の、この小憎らしいもののいい方は不思議なほど変わっていない。私がロマンスグレー氏の先生だったなんて、ちょっとショックで、思わず「貴方に教えた覚えはないわ」と大声を出してしまった。これには友子も声をあげて大笑い。誘われて私も吹き出し、涙が出るほど笑ってしまった。
OB会も終わり、外に出てみると、港からの潮の香りが、いっそう強く感じられた。盛り上がった私たちの勢いはとまらず、拓也くんも誘いカラオケへ。 「ブルーライト横浜」の大合唱となった。
今日の、『私の本牧物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、大多田純でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・