ヨコハマ ストーリー 第10回 『私の「港の見える丘」公園物語』
魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の「港の見える丘」公園物語』。
JR根岸線石川町駅から元町を抜け谷戸坂を登り、「港の見える丘」公園に入る。 外国人居留地だったこの山手地区は、異国情緒あふれる横浜を代表する観光の名所でもある。戦後大ヒットした「港の見える丘」のモデル都市は不明だが、歌のイメージを山手に求めた横浜市民の要望もあって、1962年に「港の見える丘」公園は開園した。名前のとおり、海側を向いた展望台は、横浜ベイブリッジや、みなとみらい21、山下公園、横浜港などが一望でき、また夜景も素晴らしい眺めである。
「お墓参りに帰国するので、どうしても会いたいと言ってます」と「明君」から突然電話が入った。「明君」は、バンクーバーにいる私の親友、直子の息子さんだ。急に懐かしくなって古いアルバムをめくった。セピア色にあせた私達二人の写真。直子はひときわ幸せそうに笑っている。ファインダーを覗き「ハイ、チーズ」と言ったのは、直子の夫となったばかりの哲也さん。もう二十数年前になるが、ジューン・ブライドの明るい、いきいきとした彼女を、今でもはっきりと覚えている。
直子は海岸教会の聖歌隊で一緒だった幼なじみ。港まつりの国際仮装行列で私は王子様、彼女はお姫様役を演じた事もある。ミッション・スクールの高校で再会し、私達は聖歌隊で活躍した。大学卒業後、教会関係の仕事を手伝うほど熱心なプロテスタントだった。直子は、哲也さんと山手聖公会で素敵な結婚式を挙げた。しかし、幸せは長くは続かなかった。敬けんなクリスチャンであった直子のその純粋さが、哲也の母親との溝を広げていった。一生懸命、関係修復の努力をしていた様だが、それは報われることはなかった。最後まで、哲也さんと明君を心配しながら、直子は横浜港からバンクーバーへと旅立っていった。
久しぶりに訪れた「港の見える丘」公園は、日曜日とあって家族連れや若いカップルでいっぱいだった。直子は明君と一緒にやってきた。20数年ぶりだという彼女は、当時はなかったベイブリッジや、みなとみらい21に驚き、歓声を上げる。かつてスナップを撮った場所には、当時見かけなかったバラの花が今が盛りと咲きほこっている。
歳月が「港の見える丘」公園を変貌させ、直子は「これでは私たちが変わっても無理がないわね」と私にそっと耳打ちをする。ローズガーデンでのツーショット。ファインダーを覗き、シャッターを切る明さんの姿が哲也さんに良く似ていると思ったのは決して私だけではなかった。思わず笑みがこぼれ、二十数年前の笑顔の直子がそこにいた。二人は港を見つめながら昔よく歌った「アメージング・グレース」をいつしか口ずさんでいた。
今日の、『私の「港の見える丘」公園物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、浮田周男でお送りいたしました。また来週をお楽しみに・・・