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2006年4月14日 (金)

ヨコハマ ストーリー 第3回「横浜ステーション物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。


魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。
ペリー艦隊が来航した時から、その歩みは始まりました。
そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。
そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく
「ヨコハマ・ストーリー」今日は、「横浜ステーション物語」

横浜駅は、現在の場所に移るまで、実に56年の歳月を要した。駅舎の流浪の旅は、1872年10月14日、横浜、新橋間の開通に始まる。当時の横浜駅は、今の桜木町駅の場所にあった。駅舎は、アメリカの建築家ブリジェンヌ氏が、設計し、前年の9月に完成している。
当初、横浜駅は、桜木町駅から大江橋を越えて関内方向に造られる予定だった。しかし、蒸気機関車による火事を危惧した住民の強い反対により、現在の桜木町までしか鉄道が造られなかった。
1889年に東海道線が全線開通したが、下り列車は神奈川駅から横浜駅に入り、そこで機関車をつけかえて同じ線路を通って保土ヶ谷駅に向かうルートしかなかった。
神奈川と保土ヶ谷を直接つなぐルートを設置するべく、現在の高島町付近から平沼橋付近に線路がひかれた。1901年には、その間に平沼駅が開設されたが、その名のとおり、駅周辺は湿地帯で土地の状況はよくなかった。
世界につながり、栄えつつある港の町、横浜にふさわしい駅舎をという要望にこたえ、1915年8月に、高島町にレンガ造りの駅舎が完成した。そこを横浜駅と名づけ、従来の横浜駅は、桜木町駅と改名された。さらに、この横浜駅も立地に問題があり移転を迫られ、1928年9月に、ようやく現在の横浜駅の位置に駅舎ができあがった。
ドイツ風の重厚なコンクリート造りは以来50年以上威厳を保ち続けた。

ある日曜日、夫は「久しぶりに友達に会うんだ」と言って出かけていった。定年を控え、最近、少し元気がなかったので、私は「いってらっしゃい」と明るく送り出した。夜になって、帰ってきた夫は、にこやかに笑いながら、友達との再会の話を聞かせてくれた。
桜木町駅に降り立つのは、16年ぶりになる。商社勤めの常で、海外暮らしが長かった。妻と娘を日本に残し、単身で渡った国は片手では足りない。電車から吐き出される人の群れ。乗り込む人の流れ。休日のホームは家族連れと恋人同士であふれていた。
今日は16年ぶりに友人に会う。待ち合わせは横浜美術館。16年前、友人と私は横浜博覧会の開催に奔走した。そして、その会の一施設として開館したのが横浜美術館だった。桜木町駅構内の壁に「エドモンド・モレルの肖像」がある。彼は1870年、横浜、新橋間の鉄道開設2年前、初代鉄道建築士の責任者に就任したことで知られている。
その実直な人柄は、伊藤博文も絶賛したらしい。彼も、異国の地での生活を精一杯やり遂げたのだ。滞在わずか一年半での病死は、その任務の過酷さを物語っている。今は、外人墓地に夫人とともに眠っているという。
駅を出て、ゆっくりと歩く。待ち合わせの時間までには余裕があった。春の陽は暖かく、ときおり優しい風に潮の香りがした。定年をひかえ、自らの心を見つめるゆとが
生まれた。先ばかりを見つめ、前ばかりを目指してきた自分の人生において、初めての「振り返る」という心の動き。とまどいや不安もあるが、そんな心の行方に身を任せてみたいという願望もあった。そんなとき、突然友人が会いたいと言ってきた。
彼は、行政側の現場担当者として、博覧会に携わった。がっしりした体は野球で鍛えたものだと笑った。その笑顔に救われた。運営にたどり着くまでの幾多の苦難も、彼の「まあ、なんとかなるでしょう」のひとことで乗り越えられたような気がする。彼は私より先に一線を退き、今は横浜郊外で、静かに暮らしていると人づてに聞いた。彼が「静かに暮らしている」様子はうまく想像できなかった。突然の再会の誘いは、パソコンだった。年賀状に書いておいたアドレスにメールがきた。
「たまには、ノスタルジーにひたってみましょう。郷愁に心をゆだねるには、横浜はいい街です」と彼は書いた。
整備された道を歩いていると、家族連れとすれ違った。小学二、三年の女の子が、右手に真っ赤な風船を持っていた。16年前、娘もあんな歳だったな、と思った。その娘が来月嫁に行くのだ。
階段を下りると、美術館が見えてきた。丹下健三設計による堂々としたたたずまい。ふと、こちらに向かってくる男性が見えた。がっしりした体躯は、いくぶんやせてしまったが、忘れられない笑顔があった。そして、その微笑みは「まあ、なんとかなるでしょう」と言っているように見えた。私は、年甲斐もなく、大きく手を振った。彼もまた、手を振りかえした。春の午後にできた二つの影が近づいた。
大きく手を振る夫の姿がはっきりと想像できた。私は、友達との再会のシーンを聞きながら、そっとつぶやいた。
「まあ、なんとかなりますよ」

今日の、「横浜ステーション物語」いかがでしたか。ヨコハマの魅力と由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」出演、小林節子、脚本、北阪昌人でお送りいたしました。また来週をお楽しみに・・・

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