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明日への提言

2006年9月29日 (金)

横浜・明日への提言(13)登竜門と檜舞台

13

横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。) 


 選挙の声を聞くたびに思うことは、どういうわけか横浜にはこれはという人物がいないということだ。こうした傾向は政治家に限らない。文化・芸術・科学に視野を広げれば一層お寒い現状である。こうしたシチュエーションは横浜だけというよりかは「全般に地方は」と置き換えていうべきだろう。
 卓越した才能はみな若いうちから東京へ流出してしまう。
 すなわち、人材の東京集中――要因はそこにある。いないのではなく、いなくなってしまう。これこそ由々しき問題だ。
 では、どうすれば、人材の流出を防ぐことができるのか。
 というよりも、なぜ、東京に人材が集中するのかということだ。東京は京都などに比べれば歴史的に新しく、文化財の蓄積でもはるかに及ばない。だから、歴史・伝統の問題ではない。
 科学文明は最近百年の間に人類の歴史数億年をしのぐ長足の進歩をとげて、あとは再び遅々とした歩みに戻るという。この百年の歴史にかぎれば東京がすべてにおいて檜舞台であった。歴史の長さではるかに勝る京都がぽっと出の東京に及ばない原因がそこにある。ましてや、歴史も伝統もはるかに新しい横浜においておやである。
 檜舞台で活躍するには、当然、登竜門がある。経済的に裏打ちされた各分野の各種新人賞、育成機能の確かさ、これこそ卓越した若き才能が東京をめざす最大の原因であった。次から次へと新しい人材を掘り起こし、檜舞台に登壇させ、スポットライトを当ててきた。
 さらに檜舞台で活躍する俊秀中の俊秀には最高の栄誉とされる各種の賞が用意されている。東京に集まった人材が東京に留まるゆえんであろう。東京の底力の根源はそこにあった。
 しかし、バブル崩壊で経済的な裏づけが怪しくなってから、東京は登竜門、檜舞台とも制度疲労を起こし、名のみの華やかさに陥った。形骸化が進んだのである。
 東京の文化的ピンチは横浜のチャンスだ。
 タイミング的にも横浜は開港150年という歴史的節目を迎える。それにふさわしい登竜門を設け、真の人材が横浜に志を抱くような仕掛けを考えることのほうが、お決まりの地方分権論議などよりはるかに現実的でインパクトがある。

2006年9月14日 (木)

横浜・明日への提言(12)スキンシップ・デモクラシー

12

横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)
 
 前回紹介した銃器・薬物水際排除推進協議会は官民が一体となって仲よくやってきた。各省庁の出先機関と港湾関係団体が横一列に並んで一つの目的を達成しようとする姿は、これぞスキンシップ・デモクラシーといえるものだ。保安委員会のほうもスキンシップ・デモクラシーでうまくいっている。前々回提言を試みた「ミナト・ヨコハマ特別市」もこうした横浜独特の人間関係を土台に発想したものだ。
 FMヨコハマ生みの親といってもいい故・秦野章元法務大臣は、「民主主義の中の独裁がデモクラシーの理想だ」といった。自由・平等は民主主義でしか実現しない。秩序を保つには独裁のほうが断然すぐれているが、歯止めが利かなくなる欠点がある。だが、民主主義の中でよい意味での独裁が実現できれば両者が並び立つ。私も同感だ。ただし、私が考えるのはスキンシップ・デモクラシーを土台にした独裁である。横浜港の保安委員会がうまくいっているのはスキンシップ・デモクラシーが浸透しているからだと思う。
 350万都市ではスキンシップ・デモクラシーは物理的に不可能である。したがって、独裁もあり得ない。しからばどうしたらよいか。都市分割も一つの方法論だろう。平成の大合併が進むときだけに、逆の発想がきらりと光る。都市分割が無理だとしても、市長選挙とは別に地元のシンクタンクを集め、あらかじめ「提言集団」をつくるのも一つの選択肢として考えられる。だれが市長になっても困らないという骨組みをつくっておけば、悪い意味での独裁に「待った」をかけられる。選挙のたびに候補者選びで悩まないで済む。こちらのほうが横並びの人間関係になじんできた横浜の肌に合うかもしれない。
 ところで、横浜はシンポジウムが多いところだ。毎日のようにあっちでもこっちでもシンポジウムが開かれる。やれともいわないのに開かれるし、やれとけしかける者もいない。だから、よい提言が行なわれても内輪の賛同だけで終わってしまう。
 問題は提言集団の質、提言の取捨選択である。当然それらに対する質的淘汰の仕組みが必要になる。これができたら「横浜はじめて物語」の一つになる。よそが考えつかないうちにやってこそ「初めて」といえる。遅すぎるといってもよいくらいに、やるときにきているのではないか。

2006年8月31日 (木)

横浜・明日への提言(11) キーワードは「横浜はじめて物語」

11

横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)

 350万都市、人口ナンバーツーというだけでは、横浜は張り子の虎も同然だ。ひとひねりも、ふたひねりも工夫を凝らさなければ、横浜は東京のベッドタウンで埋もれてしまう。
 人口ナンバーワンの東京の強みは首都機能を持つことだ。ほかにもナンバーワンの勲章がたんさんある。人口ナンバーツーの横浜はどうか。ナンバーワン、ナンバーツーと胸を張れるものがいくつあるだろうか。質問されても具体的には答えられない浜っ子がほとんどではないだろうか。
 活路を見出すキーワードは「横浜はじめて物語」である。よそがやらないことを真っ先に始める、あるいは取り入れる。
 150年弱の歴史しかない横浜市だが、開港当時はガス灯、ビール、パン、アイスクリームなど、「横浜はじめて物語」がたくさんあった。開港によって町が生まれて、ほかに何もなかったから「日本で初めて」の物が始まった。今の横浜も「これぞ横浜」といえるものが少ないのだから開港当時とあまり変わらない。
 よそにないものをつくるにはどうしたらよいか。
 たとえば、横浜ならではの組織として銃器・薬物水際排除推進協議会がある。税関、県警が中心となった組織だが、よそのミナトにはない。普通だと大蔵省の出先だった税関がえばるのだが、上も下もなく20年も仲よく協力してやってきた。ニューヨークの9・11テロがあってから政府のお声がかりで「保安委員会」が生まれたとき、すでに同じことをやっていた横浜は看板を一枚増やしただけで済んだ。他都市の委員長は地元官庁のトップが委員長だが、横浜だけは港湾業界の私が委員長になった。銃器・薬物水際排除推進協議会の会長だったからすんなり決まったのである。横浜は民間主導が早くから根づいていた。人間関係が独特でユニークだから民間主導が生まれたわけで、これも「横浜はじめて物語」の一つといってよいだろう。
 何かというと物を考えがちだが、横浜ならではの人間関係を生かせばほかにも「横浜はじめて物語」に育つ機会はあるのではないか。そうした観点から発想し議論し試行錯誤を積み重ねていけば、いろんな「横浜はじめて物語」が生まれるはずである。

2006年8月14日 (月)

横浜・明日への提言(10)横浜府ミナト・ヨコハマ特別市

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横浜エフエム放送株式会社 
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)
 
 横浜が2年後に開港150周年を迎えるといっても、現在75歳の私が知らない開港後の歴史は半分にすぎない。千何百年もの歴史を持つ京都に比べたら、歴史も伝統もないに等しい。江戸・東京でさえ開府500年の歴史を持つ。裏返せば歴史が浅いことが横浜という街の個性であり、これからどのような伝統でもつくっていけるというよそにはない魅力でもある。
 花のお江戸・東京流にいえば、横浜はこれからなのである。過去を振り返る以上に、将来に目を向けなければいけない段階にある。それなのに、「開港50周年では開港記念会館をつくった、開港100周年にはマリンタワーを建設した、開港150周年にはミナトに自由の女神像を建てたらどうか」という50年、100年前の発想のままでは進歩がないし、自由の女神像がイベントの目玉では全市的な盛り上がりは期待できそうもない。
 しからば、どうすればよいか。
 歴史が浅いというのは京都や城下町に比べての話である。ミナト・ヨコハマにはジャック、クィーン、キングと呼ばれる開港記念会館、横浜税関、県庁旧庁舎をはじめ、赤レンガ倉庫、黄土色のタイル壁の港湾関係のビル、街並みでいえば中華街、馬車道、日本大通り、山下公園、横浜公園を含めた関内、そして元町、伊勢佐木町などなど――歴史建造物や伝統ある街並みがたくさんある。街角に立つだけで目に見えない独特の風が吹く。
 マイホームと東京を往復するだけで、「みなとみらい」と聞いても横浜のどこだかわからないような人が集まる出来立てのホヤホヤの街とは同日に論じられない。田園都市線沿線をはじめ、そういう新しい街に住む「横浜東京都民」に開港150周年を呼びかけ、議論を持ちかけても参加は望めそうにない。
 しかし、370万都市横浜を「府」に昇格させ、いくつかの特別市に分割すると議論を吹っかけたら、どういうことになるだろうか。ミナト・ヨコハマを独立させて「横浜府ミナト・ヨコハマ特別市」にし、港湾総局を中核に行政を行い、スキンシップ・デモクラシーを確立する。ミナト・ヨコハマ特別市の行政範囲は「この指とまれ」で決める。
「嫌ならあとは自分たちで考えろ」
 恐らく横浜府は結果として三つか四つの特別市に分かれるのではないか。
 このくらい乱暴で爆弾的なテーマを突きつければ、部外者でいられる横浜市民はまず一人もいなくなるだろうし、賛否両論沸騰して開港150周年イベントの幕開けにふさわしい全市的な議論になるのは間違いない。
 イベントをどう立ち上げるかを考えるのはそれからでも遅くはない。

2006年7月31日 (月)

横浜・明日への提言(9) 横浜の将来像を議論しよう

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横浜エフエム放送株式会社 
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)


 かつて獅子文六が随筆で次のようなことをいった。
 横浜というところは船の出入りが忙しいせいか、あんなに殺風景な街は見たことがない。食い物一つろくなものがない。あれだけ船の出入りが激しかったら、わびだのさびだのといってる暇はないだろう。城下町と違ってお城のない街はさびしいものだ……。
 こんな内容だったと思う。
 作家は主観で書くから、獅子文六がどう書こうと問題ではない。比較論的にいえば、城下町にはそれぞれに根ざした封建的な遺風というようなものがあり、そこから何となく脱し切れない空気があって街全体を包み込んでいる。よそから来た人間にとっては、お城のある宿場町が日常とは別次元の魅力として映る。泊まるとしてもせいぜい三日か四日だから魅力的な面が強く印象に残る。けれども、城下町の人々はよそから来た彼らを観光客、通行人としてしかみなさない。
 横浜は伝統にしばられないから、自由に街をつくってきた。城下町のように武家屋敷町、宿場町、職人町などの強制的な区割がなされなかったから、大震災、戦災で建てては焼けの繰り返しで、伝統を感じさせる街並みが残らなかった。獅子文六の目には、だから殺風景に見えたのだろう。
 しかし、開放的で自由を愛する気風までは焼けなかった。
「今日、横浜に引っ越した。今日から俺は浜っ子だ」
「オッケー」
 これで通ってしまう。だから、秋田弁、関西弁の浜っ子が大勢いる。
 しかしながら、開放的で自由を愛する気風といっても、弊害がないわけではない。横浜はやたらとイベントが多い街で、「そんなのやめろ」という人間もいない代わり、「やれ、やれっ」と威勢よく声援を送る者も、加勢する者も出てこない。要するに自分がすることには熱心に取り組むが他人がすることには無関心で、大きく一つにまとまってやろうという気構えが欠けているわけだ。おまけに人口が370万人に迫ろうとする日本で2番目の大都市である。そういう横浜で「開港150周年」を全市的なイベントに立ち上げるのは至難のわざだろうが、考えようによっては現実にする絶好のチャンスでもある。
 しからば、どうすればよいか。
 いっそのこと何をするか無理に決める前に、横浜の将来像を真剣に議論し、せめて方向づけをすることから始めたらどうだろうか。

2006年7月14日 (金)

横浜・明日への提言(8) 横浜ファッション(流儀)をつくろう

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横浜エフエム放送株式会社 
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)

 
 歴史をひもとくと、日本の開国当時、欧米社会は礼節・儀礼・教養を重んじた。武家社会を根幹とする鎖国日本には、尊皇思想という精神的革命の風が起きていて、天皇を頂点にした精神的秩序が再構築されつつあった。すなわち、日本を欧米の侵略から守ったのは台場でも大砲でもなく、日本人の高度な礼節・儀礼・教養だった。
 安政3(1856)年、伊豆下田に着任した文官ハリスは交渉相手の下田奉行、日常接する住民の姿から滲み出る日本人の美風に圧倒され、英仏艦隊が到着する寸前まで誇りを持って文官外交を貫いた。日本が欧米の植民地にならなかった原因は実はそこにある。
 昭和20年8月15日、日本人が初めて知った敗戦のショック――日本を占領しにやってきたマッカーサーは、日本の伝統的な精神文化に惚れ直し、日本を南北に二分して好きなように支配しようと持ちかけたロシアに「ユー、ファイト(やるか)」とすごんで、その野望を砕いた。そのお陰で、日本人は衣食住に不自由しながら文化国家を唱え、あらゆるものに「文化」の名を冠して復興に立ち上がることができた。文化住宅、文化包丁、文化何々という具合に……。
 ところが、ソニーがトランジスタラジオを発明して世界中に売りまくってから、日本は高度経済成長の波に乗って、あらぬ方向へ走りだした。日本が「文化国家」をやめて「経済大国」を唱えると、学校教育は右へ倣えして世界に冠たる礼節・儀礼・教養を教えなくなった。国民的規範を教わらずに育った若者は糸の切れた凧みたいに方向定めず、経済オンリーの社会を野放図に漂い始めた。
 現在、教育基本法の改正が国会で議論され、愛国心がうんぬんされているようだが、私には見当違いなことをしているように思われてならない。愛国心は礼節・儀礼・教養を身に備えた結果である。G(義理)N(人情)O(恩返し)を古くさいという人間に愛国心が芽生えるとは思えない。GNOには平和、信頼、友愛、思いやりなどありとあらゆる精神的規範が含まれる。普遍の精神的資産が古びて廃れるはずもない。さりとて、私は日本を論じる立場にないから、せめてもミナト・ヨコハマだけでもおかしな風潮に毒されないように心がけてきた。だから、ミナト・ヨコハマには勝者もいなければ敗者もいない。最近10年の間に倒産した会社は皆無だし、すべてが中産階級のままでいる。
 みんなが中産階級でいられること、それがベストではないとしても、現実的にはベターだと私は信じている。日本人1億の8割が中産階級であった頃は世の中が明るかった。開港150周年を控えて、横浜の将来に必要なのは何かといえば、「横浜といえばGNO」とだれもが認めるような精神的規範を横浜市民が共有し、礼節・儀礼・教養を個人のファッション(流儀)にすることではないか。

2006年6月30日 (金)

横浜・明日への提言(7) G・N・O―波止場の掟

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横浜エフエム放送株式会社 
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。) 


 これまでは、子どもすなわち日本の未来、横浜の将来の問題点を指摘したわけだが、大人を取り巻く卑近な問題にも言及しておこう。
 今日、何かというと経済原則、経済効果、競争原理という言葉が金科玉条のように語られる。まるで陰謀渦巻いた弱肉強食、下剋上の戦国時代の再来を見るようで、これもまた私にとっては実に嫌な言葉だ。
 私はFMヨコハマのほかにミナトの仕事に長いこと携わってきた。ミナトは波止場――悪い波を防ぐ場所。すなわち、G(義理)N(人情)O(恩返し)がミナト・ヨコハマの掟で、悪い波の防波堤でもある。市場経済というシングルイシューでしか考えない連中は胸を張って「いまやグローバリゼーションの時代、競争原理が世界的な潮流である」というが、「ここは日本だからノー」というのが私の返事である。
 ワットの蒸気機関の発明で始まった産業革命が欧米に広がり、大量生産による安価な製品の輸出市場開拓の必要性が高まり、植民地主義に一段と拍車がかかった。そのターゲットになったのが、アジアとアフリカだった。イギリス、フランスの砲艦外交の前にまずインド、インドシナが屈し、次に清国が標的になってアヘン戦争が起きた。イギリスが清国で、フランスがインドシナで足止めをくっている間に、ペリーの黒船艦隊を派遣したアメリカが一足先に日本を開国させた。しかし、日本の開国から横浜の開港までさらに五、六年の歳月を必要とした。清国、インドシナに砲艦外交を展開するイギリス、フランスに対し、アメリカは日本に対して文官外交で臨みあくまでも友好的に日本と貿易しようと考えたためである。ここが大事なところだ。
 日本が大東亜戦争から太平洋戦争に戦線を拡大させアメリカ・イギリス連合軍に負けたときも同じことが起きた。同盟国ヒトラー・ドイツは占領軍に直接統治され、東西分断の悲劇を招いたが、日本を占領したマッカーサーは「自分も皇室の財産もどうなってもよいから国民を守ってくれ」という昭和天皇の慈悲の心に圧倒され、天皇制解体の方針を覆して象徴天皇制として残し、政府の存在まで認めた。天皇を親以上に敬い日本人が家族のように一つにまとまっていた事実が、失われた古きよきアメリカに強烈なノスタルジーを抱くマッカーサーをノックアウトしたわけである。開国期と似ているといって、これほど似た歴史的事実はない。だから、私の提言は日本の未来、横浜の将来に必要なのは市場原理主義に毒された考え方ではなく、波止場の掟「GNO」を確固とした見識として守り抜けということである。

2006年6月14日 (水)

横浜・明日への提言(6) 便利社会の落とし穴 その③

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横浜エフエム放送株式会社 
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。
 

 戦前に生まれた私は軍国少年として育ち、戦争中は空襲で生命の危険と隣り合わせながら学校工場で働き、軍事教練で鍛え抜かれた。教科書はあっても開く機会が少なかった。
「欲しがりません、勝つまでは」で、食うものもろくに与えられなかった。しかし、今日の便利社会、飽食の時代を見てきて、うらやましいと感じたことは一度もないと断言できる。
 私は終戦の20年8月15日を14歳で迎えたとき、昼過ぎから翌日の朝遅くまで熟睡し、「戦争が終わるということは空襲がないことなんだ。安心して眠れるということなんだな」と実感した。生まれて初めて平和な社会を迎えて、それからというもの私は好きな野球にのめり込んだ。
 野球をやるといっても、校庭は空襲で焼け落ちた校舎の残骸などで埋めつくされてすぐには使えなかったから、瓦礫の山を取り除きながらの練習だった。食うものもなく空腹で喉が渇く。グランドともいえない校庭の片隅にぽつんと立つ蛇口に口をつけて飲む水が、甘露水のようにうまかった。ついでに空腹をみたすために腹ががぶがぶになるまで水を飲んだ。歩くと体を伝って腹から「チャポン、チャポン」と音が聞こえてきた。
 今日の若者、子どもたちが経験する便利社会、飽食の時代とは180度異なる青春時代を私たち戦前世代は送った。機械も道具も不足し何をやるにも不便で、自分で工夫しないと何も始められなかった。しかし、自由や民主主義という言葉が胸の中できらきらと輝いていて、やりたいことがいっぱい詰まっていた。同年代の友達と目標を示し合い、熱く語りながら充実した日々を無我夢中で送った。香華に満ちてまさにあれが青春だった。
 天井が抜けたような自由を謳歌する今日の便利社会と比べて、結果にみるこの違いは何だろうか。
 戦後61年を経過する間に、日本はどん底から経済大国にのし上がり、そして、沈没の危機に直面している。日本の将来はいかにあるべきかを判断する材料がすべて出揃ったといってよい。そろそろ、戦前・戦中・戦後の本当の意味での検証をすべきではないか。その検証をしないと何も始まらないのだ。
 科学文明はここ半世紀の間に人類が数千年をかけて築いた歩みをはるかに越える勢いで進歩したという。現代人は科学文明のスピードに見合うだけの進化を遂げただろうか。そうでないとすると。人間は機械文明のドレイになってしまう。私が「便利社会万歳」としない理由がそこにある。

2006年5月31日 (水)

横浜・明日への提言(5) 便利社会の落とし穴 その②

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横浜エフエム放送株式会社 
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)


 かつて私は「PHP」という雑誌から頼まれて「携帯が日本を滅ぼす」という評論を載せたことが有る。それから何年も経って、携帯電話が小学生にまで普及した事実にショックを隠し切れないでいる。小学生が携帯を使うとき、それは明らかに「オモチャ」になってしまう。使用料はだれが払うのだろうか。
 最近まで郵便配達に携わった人から聞いたのだが、毎月のように携帯電話会社から配達証明が大量に出るという。宛名は表札の苗字と同じだが名前が違うから恐らく子どもに遅延した使用料の支払いを督促するものだろう。考えようによってはこれも新手のキャッシングのようなものである。滞納金額も数万単位に達するようだから、支払い能力のない子どもに代わって親が弁済するほかない。これまた、私には嫌な話だ。
 景気が後退していたある時期、携帯事業の業績が好調で景気指数の向上に大きく貢献した。ゲームソフト関連の企業の業績も底堅く、次から次へ新商品を発売してきた。商品を売って利益を上げるのだから企業活動といってよいのだろうが、消費者について考えるとき果たして実需といえるのだろうか。
 二十四時間垂れ流し状態のテレビ番組も、テレビ放送が始まった頃は夜中の十二時には終わり大人向けがほとんどだったと思うが、今は子どもと主婦に大半を乗っ取られた感じである。当然、ゲームソフト、携帯などのCMも氾濫する。ファーストフード、スナック菓子、清涼飲料のCMはいうに及ばない。
 ごく大ざっぱにいっても、以上が日本の子どもを取り巻く環境である。脳卒中で倒れた大人の患者がリハビリ代わりにゲーム器でピコピコ、指先一つで携帯を握るのならともかく、全身を使って鍛える時期の子どもが毎日そういう生活を繰り返すことで将来もたらされる結果はいうまでもない。子どもは環境に育てられるというが、決して好ましい環境にあるとはいえないだろう。しかし、子どもたちに環境を変える知恵も力もない。環境をつくっているのは大人たちである。子どもたちはその環境以外に経験することがない。だとしたら、すべての責任は大人にある。もっともらしく数値目標を並べ立てただけの構造改革をいうよりも、子どもたちの環境から手をつけるのが先決である。
 至れり尽くせりの便利社会を万歳と手放しで礼賛するのは間違っている。便利、便利で汗もかかずに暮らせて、体力が向上するはずがない。機械が相手ではコミュニケーション能力も育たない。情緒の欠落で表現も流行語に頼るワンパターンになってしまう。結局は人間的にないないづくしの落とし穴にはまってしまうような構造にこそ問題がある。今すぐにでも子どもの環境構造改革に着手しないと、日本の将来は大変なことになるのではないか。

2006年5月12日 (金)

横浜・明日への提言(4) 便利社会の落とし穴 その①

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横浜エフエム放送株式会社 
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)

 ラジオのAMとFM放送、テレビ局併せて200余りのステーションがあるが、キャッシング関係のコマーシャルをやらないのはFMヨコハマだけだ。しかも、社長の私だけが反対している。副社長や専務が私に泣きつく。
 「社長、そろそろお願いします。いろいろ経済的な事情があって、他局もやっているし、うちもやらせて下さい」
 「気持ちは分かるが、頼むから私の生きている間はやめて欲しい」
 昔も今も私の返事は終始一貫して変らない。
 FMヨコハマのリスナーは13歳、14歳のローティーンから始まってハイティーンまでが主流で、あのソフトを買いたい、あれが欲しい――みんなお金が欲しいときだ。私にとってはいわば孫も同然だ。FMヨコハマで「キャッシングはどこで、いくらだよ。電話一本で借りられる」とやったら、かわいいリスナーたちが30万円借りた、50万円借りたということになって、それこそお父さん、お母さんまでもが大変な目に遭わされる。そんなのはほんとに嫌だ。一人でもそういう犠牲者を出すのは嫌だ。
 ありがたいことに広告代理店が心配してくれて、「子どもがよくわからないようなコメントにするから」といっていろいろ工夫しA案、B案、C案、D案を持ってきた。
 「いくら藤木が頑固でも、これならいけるだろう」
 ほんとに嬉しかった。だが、断った。所詮、キャッシングだ。稼ぎのない若者が借金をしたら返せないのはわかっている。だから、今でも断っている。
もし、受け入れるなら、その前にやることがある。それは月給を下げることだ。給料を下げても会社を維持する。また下げて維持する。下げすぎて子どもの月謝も払えない。そこまでいったら、初めてキャッシングOK・・・・。
 しかし、そこまではいかない。社員は結構いい生活をしている。だから、そういう意味でやるまでには至っていないと判断して私はゴーサインを出さない。
 瑣末なことかも知れないが、親の世代、祖父母の世代として当然の配慮だと思う。新しく何かを考えたりしようとする前に、「ここまでは譲れるが、ここから先は駄目だ」という基準を明らかにし、愛情で物事に血を通わせるのが順序だ。そういう企業が横浜に増えれば日本も変る。
 私はこれからも会社を愛するようにリスナーを大事にしたいと思う。愛すると口先では簡単にいえるが、確固とした信念に裏打ちされたものでないと、「それぐらいは、まあいいか」になってしまう。近頃の企業の稚拙な事故や事件の原因の一つがそこにある。そういう意味で私は死ぬまでわからず屋の「頑固オヤジ」でいようと思う。