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2006年6月14日 (水)

横浜・明日への提言(6) 便利社会の落とし穴 その③

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横浜エフエム放送株式会社 
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。
 

 戦前に生まれた私は軍国少年として育ち、戦争中は空襲で生命の危険と隣り合わせながら学校工場で働き、軍事教練で鍛え抜かれた。教科書はあっても開く機会が少なかった。
「欲しがりません、勝つまでは」で、食うものもろくに与えられなかった。しかし、今日の便利社会、飽食の時代を見てきて、うらやましいと感じたことは一度もないと断言できる。
 私は終戦の20年8月15日を14歳で迎えたとき、昼過ぎから翌日の朝遅くまで熟睡し、「戦争が終わるということは空襲がないことなんだ。安心して眠れるということなんだな」と実感した。生まれて初めて平和な社会を迎えて、それからというもの私は好きな野球にのめり込んだ。
 野球をやるといっても、校庭は空襲で焼け落ちた校舎の残骸などで埋めつくされてすぐには使えなかったから、瓦礫の山を取り除きながらの練習だった。食うものもなく空腹で喉が渇く。グランドともいえない校庭の片隅にぽつんと立つ蛇口に口をつけて飲む水が、甘露水のようにうまかった。ついでに空腹をみたすために腹ががぶがぶになるまで水を飲んだ。歩くと体を伝って腹から「チャポン、チャポン」と音が聞こえてきた。
 今日の若者、子どもたちが経験する便利社会、飽食の時代とは180度異なる青春時代を私たち戦前世代は送った。機械も道具も不足し何をやるにも不便で、自分で工夫しないと何も始められなかった。しかし、自由や民主主義という言葉が胸の中できらきらと輝いていて、やりたいことがいっぱい詰まっていた。同年代の友達と目標を示し合い、熱く語りながら充実した日々を無我夢中で送った。香華に満ちてまさにあれが青春だった。
 天井が抜けたような自由を謳歌する今日の便利社会と比べて、結果にみるこの違いは何だろうか。
 戦後61年を経過する間に、日本はどん底から経済大国にのし上がり、そして、沈没の危機に直面している。日本の将来はいかにあるべきかを判断する材料がすべて出揃ったといってよい。そろそろ、戦前・戦中・戦後の本当の意味での検証をすべきではないか。その検証をしないと何も始まらないのだ。
 科学文明はここ半世紀の間に人類が数千年をかけて築いた歩みをはるかに越える勢いで進歩したという。現代人は科学文明のスピードに見合うだけの進化を遂げただろうか。そうでないとすると。人間は機械文明のドレイになってしまう。私が「便利社会万歳」としない理由がそこにある。