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2007年3月23日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第52回 「私の横浜桜物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の横浜桜物語」

桜前線の本州上陸は、なぜか横浜から始まることが多い。西洋文化が最初に花開いた場所だからだろうか。横浜の桜は、春の到来を真っ先に告げてくれる。
そして、桜の名所は数多い。鶴見区の県立三ツ池公園は、三つの池の周りを約千本、35種類の桜が華やかに飾り、「日本の桜の名所100選」に選ばれている。広大な敷地からなる三渓園の桜も有名だ。園内の茶店では、桜の葉を細かくきざんでつくったサクラ・アイスが堪能できる。本牧通りから三渓園正門まで約500メートル続く本牧桜道の並木も、ぜひ歩いてみたいスポットだ。
元町公園では、ひっそりとした雰囲気の園内に約百本の桜が咲いている。もとは外国人向けに造られたモダンな洋館に、寄り添うようにたたずむ桜の木。それは、港町横浜ならではの風景だ。ここには、横浜気象台が、開花した日を決める桜があることで知られている。
そのほか、港の見える丘公園の妖艶な夜桜。野毛山公園のソメイヨシノ。大岡川沿いの川面に映る桜。港南区の桜道などなど。開花が早いとされている今年の桜。どこに出かけようかと考えたときから、春はそこにいる。

 また、春がやってきた。桜が持つ華やかさと哀しさは、何処からくるのだろうか。咲く姿。散る姿。そのどちらもが美しいものを、桜以外に、私は知らない。
 今年は、にぎやかな桜ではなく、ひっそりと咲く桜を見たいと思った。有名な桜の名所が点在する横浜市中区本牧。その中でも、比較的静かに桜が鑑賞できる「本牧臨海公園」にいくことにした。ここには、キリスト、釈迦、ソクラテス、聖徳太子などといった古今東西の8人の聖人の像が配された「八聖殿」がある。その周りに桜があった。桜祭りも、夜桜のライトアップもない。でも、ここにも桜の香りは満ちていた。
 本牧臨海公園で桜を見る前に、キリストの像を見た。そして「羊飼いへのお告げ」という絵を思い出した。キリストの誕生を、天使は誰よりも先に、羊飼いに告げた。ちょうどそのころ、3人の偉い博士たちが、キリストがいつ生まれるかを予知して、神の子を訪ねようとしていた。天使は、そんな身分の高い博士ではなく、真っ先に羊飼いに伝えた。羊飼いは、そのころ社会的に貧しく身分も低かった。その彼らに、神は最も重要なことを先に知らせたのだ。
 私は、このエピソードが好きだ。いちばん嬉しい知らせは、いちばん大切なひとに知らせるということ。神にとって大切な人は誰だったかがわかる。
 臨海公園の桜は、まだ五分咲きにも満たなかった。でも、いちばん日当たりのいい場所に、しっかりと咲いた木を見つけた。その優しい桃色は、私の心に、春を灯した。この喜びを誰に告げようか。そう思ったとき、何人かの顔が浮かんだ。そのことが、また、うれしかった。
 今年もまた、春がやってきた。そのあたりまえのことが、あたりまえではなく思えて、心に華が咲いた。

今日の「私の横浜桜物語」はいかがでしたか?出演、小林節子 脚本、北阪昌人でお送りしました。
桜咲く去年の春から紡いできたストーリーも、今回が最終回になりました。また、いつの日か、新しい物語に出逢えますように。

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2007年3月16日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第51回 「私の横浜開港資料館物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の横浜開港資料館」

「横浜開港資料館」は大桟橋の付け根にある。日本の近代はここから始まった。
1854年日米和親条約締結。現在も資料館の中庭にある「玉楠の木」が、ペリーの上陸から、条約の締結を見守った。横浜港の開港はその5年後のこと。
なぜ、横浜だったのだろうか。アメリカは当時の首都であった江戸で条約を結ぶ事を望んだ。江戸に外国の軍艦が入港という事態に幕府は慌て、交渉の結果横浜村という妥協点をみつける。現在の横浜から想像もできないが、19世紀の前半横浜村は半農半漁のわずか87軒という小さな村に過ぎなかった。日米和親条約の横浜応接所と開港後の横浜居留地として脚光を浴びた横浜村。やがて大都市横浜へと発展する。

 小学3年生の姪の知美にねだられて「横浜開港資料館」に行ってきた。好奇心の人一倍強い知美は、幼い頃から素朴な疑問を私たち大人に投げかけてくる。「どうして空は青いの、海もなんで青いの」には、連れ合いがおもわず「子供電話相談室にきいてみようか」などと言いだしたこともある。今回の「横浜開港資料館」見学も、きっかけは、なぜ横浜が開港の場所になったのかだった。
 資料館で充分に時間をかけて百数十年前の横浜の古き時代を存分にトリップした知美は満足した様子。帰り道、「中華街に寄っておそばでもたべようか」と誘うと、姪のいつもの調子がでてきた。
 「叔母ちゃん、でも変だよね、日本は鎖国をしていたのでしょう。アメリカ人と開港の話しはどうしたの、英語はできたの」食い気よりも好奇心。考えてみればその昔、私自身も7歳か8歳の頃の父に同じような疑問を投げかけたことがあった。
 父の答えは意外なものだった。鎖国中とはいえ、江戸初期には南蛮学が、中期には蘭学、幕末には英学、仏学、独学という洋学が存在していたという話しではない。父は幼い私に向かって「しっかりとした日本語だ」といった。
 アメリカに対して主張すべき内容が整理されていれば、表現する手段、洋学、英語の出来、不出来は問題でない。「キチットした日本語がポイントだったのだ、節子も国語、日本語はしっかり勉強しろよ」といわれた。
 最近、数学者藤原正彦さんのベストセラー「国家の品格」を読んだ。藤原さんは真の国際人に外国語は関係ないという。明治の初め、多くの日本人が海外に留学したが、彼らの多くは西欧のエチケットを知らない、世界史、世界地理も知らない、福沢諭吉や新渡戸稲造、内村鑑三などは例外だが、多くの留学生は肝心の英語さえままならなかった。しかし尊敬、賞賛されて帰ってきた。
 その理由は、日本の古典をきちんと読んでいたこと、漢籍、漢文をよく読み、そして武士道精神をしっかりと身につけていた、この3つで尊敬されて帰ってきたというのである。
 何処かで「このニュアンス、聴いたような・・・」感じ。・・・と突然「叔母ちゃんさっきの答えは」とラーメンと汗だくになって格闘している知美が攻めてきた。私は一瞬たじろぐ。そして、「しっかりとした日本語だったのよ、知美も国語勉強しなさいよ」  「エッ、日本語!?」姪の知美は唖然としてなにも返してこなかった。

今日の「私の横浜開港資料館物語」いかがでしたか?出演、小林節子 脚本、二羽信宏でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに。


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2007年3月14日 (水)

横浜・明日への提言(24) だからGNO、やっぱりGNO

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横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)

 日本の安全神話は過去のものになったと聞く。犯罪の間口が国際的になり手口も巧妙化、件数が激増した結果、検挙率が大幅に低下したのは事実である。
 故秦野章元警視総監・法相からの又聞きだが、戦争中の日本は犯罪発生件数が皆無に等しかったそうだ。理由は「隣組」が周囲に目を配っていて、それが犯罪の抑止力になったのだという。
 日本の安全神話復活には、戦前の隣組に代わる国民的防犯意識の高まりのほかに、もう一つ欠かせない条件がある。日本は未曾有の法治国家になったが、逆に犯罪が増え、巧妙化した。法律の網をどんなに張りめぐらせても、警察・検察、裁判所が忙しくなる一方で、安全神話復活にはなかなか結びつかない。高度化しすぎた法治国家にはこのような落とし穴がある。
 思い返せば、秦野さんはこんなこともいった。
 「戦後になって犯罪が多発したのは、社会的な規範が弱まったからだ。犯罪を摘発する側も菩提心が薄れた。法律には文学もある」
 犯罪を未然に防ぐうえで国民の日常生活を律する規範つまり義理と恩返しの精神がどれほど大切か、取り締まる側は法律の条文だけでなく法の精神すなわち人情が大事だ、と私はそのように理解する。 
 社会的規制力とは道徳に裏打ちされた常識、コモンセンス、つまり、義理(G)、人情(N)、恩返し(O)である。人情をかけられれば義理が生じ、恩返しをしたくなる。私はこれを「分別の連鎖」と呼んでいる。人情をかけてくれた人に恩返しをしようとしてもいつまでも入超状態で埒が明かないから、やがて世の中という不特定多数に仕向けるようになる。結果として志操の正しい人が育ち、社会的規範がしっかりする。だから、日本の安全神話を復活させるもう一つの決め手は、やっぱりGNOだ。
 逆に「負の連鎖」がある。法治国家が行き過ぎて法律が複雑多様になると、犯罪を取り締まる側は条文を覚えるのに追われ、適用するのが精一杯で法の精神をどこかに置き忘れてしまう。犯罪者は取り締まる側が次第に機械的になっていく世の中の仕組みを逆恨みして、更生どころか報復を企てる。いわゆる悪の恩返しである。世の中、社会はどうなるか。これが、私のいう「負の連鎖」だ。
 今の日本の世の中の仕組みはどちらだろうか。
 子どものいじめ問題、非行、犯罪の横行は、世の中の仕組みを敏感に感じ取った結果である。大人、子どもの区別なく多発する犯罪・違反をなくすには病理学的な批評・解説も必要には違いないが、臨床学的な手立てが何よりものをいう。だから、秦野さんは「評論」(病理学的所見)といわないで「法律には文学もある」といったのだろう。
 ミナト・ヨコハマといえばGNO、単語にして三つ、これをすべてに当て嵌めてやってきたから仲間うちで犯罪は皆無に等しい。掟は押しつけられるのではなくみずから律して心に持つものだから簡単明瞭であることが望ましい。だからGNO、やっぱりGNOなのである。GNOを横浜全体に広め、日本全国に拡大する。そういう精神的・道徳的・国民的構造改革運動が必要な時代になった。

2007年3月 9日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第50回 「私のみなとみらい21物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、「私のみなとみらい21物語」。

港町・横浜の新しい顔として発展めざましい「みなとみらい21」。かつて造船所などがあったこの地域の再開発が計画されたのは1965年のこと。造船所の跡地と埋め立てた土地を併せて開発し、関内・伊勢佐木町と横浜駅周辺を一体化することで横浜を再生することを目的とした事業だ。
1981年に一般公募で「みなとみらい21」と名称が決定し、83年に事業は着工された。横浜ベイブリッジが開通した89年には横浜市制100周年、開港130周年を記念した「横浜博覧会」が開催された。以後、開発が本格化し1991年にパシフィコ横浜、93年に横浜ランドマークタワー、97年にはクイーンズスクエア横浜などが開業し横浜のシンボルとなっている。2004年にはみなとみらい線も開通し都心からのアクセスが充実。21世紀にふさわしい未来型都市を目指して現在も開発が進められている。

 九州に暮らす大学時代の友人と久しぶりに会うことになった。待ち合わせ場所は彼女が宿泊しているヨコハマ・グランド・インターコンチネンタル・ホテル。ラウンジに入るとすでに彼女とご主人は座っており、手を振って合図を送ってきた。
 「随分久しぶりね。何年ぶりかしら?」
 「そうね、卓也が大学に入学して以来だから、丸4年ぶりだわ。」
彼女は大学卒業後、地元・九州に戻り就職。結婚後、3人の子宝に恵まれた。卓也君は一番下の子で、彼の大学の卒業式に出席するため旅行を兼ねて横浜を訪れたのだ。
 「私、ずっとここに泊まってみたかったの。テレビや雑誌で横浜が紹介されると、必ずヨット型のこのホテルが映るでしょ?卒業式の会場とも近いからと言って主人を何とか口説いたの。」友人がそう話すと、隣のご主人は苦笑いを浮かべた。
卓也君の卒業式は、すぐ近くのパシフィコ横浜国立大ホールで明日行われるという。ここ数年、神奈川にある多くの大学が入学式や卒業式の会場として使用しているようだ。しばらく話したあと、私は彼女を連れみなとみらい21を案内することにした。
 私は、4年ぶりという彼女に、まず横浜赤レンガ倉庫やGENTO横浜などこの4年の間にオープンした施設を案内した。GENTO横浜の「横浜はじめて物語」で開港当時のレトロな雰囲気を楽しんでから、ジャックモールそして横浜美術館の前を通り、横浜ランドマークタワーへ。館内に入ると、袴姿の若い女性のグループを見かけた。彼女たちは今日卒業式を迎えたようだった。
 「明日は卓也君の番ね」と話しかけると「ええ。でも、明日の卒業式は私たち夫婦の卒業式でもあるの。末っ子のあの子が卒業して社会に出ると、親の役目は終了でしょ?これで私たちも子供から卒業なのかなぁって・・・。いろいろ大変だったけど、ちょっぴり寂しいわ」友人は微笑みながらそう言った。
 「そっか・・・。卒業おめでとう」
 「ありがとう。これからは夫婦の時間を大切にしていきたいわ。実は今度夫婦で温泉旅行に行くの。子供たちからのプレゼントよ。それが私たちの卒業証書じゃないかしら?」彼女は卒業式を迎えた袴姿の女子大生のように清清しく微笑んだ。
 
今日の「私のみなとみらい21物語」いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、二羽信宏でおおくりいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また、来週をお楽しみに。


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2007年3月 2日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第49回 「私の横浜ビール物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の横浜ビール物語」

横浜開港6年目の1864年のこと。ウィリアム・コープランドというアメリカ人が、横浜にやってきた。彼の夢はビール醸造所をつくることだった。ノルウエーに生まれて5年がかりでビールの醸造を学び、さらにアメリカに渡ってビールを研究した彼は、アメリカに帰化したのち日本にやってきた。横浜に住んで6年。1870年に、ついに念願の日本で初めてのビール醸造所スプリングバレー・ブルワリーを、天沼の豊富な湧き水を利用できる横浜山手の居留地区123番(現在の中区千代崎1丁目25番)に建設した。
日本人はこの工場でできたビールを『天沼ビアザケ』と呼んだ。その醸造所は1884年に閉鎖されたが、翌年にはジャパンブルワリーとして再建された。そして1888年にキリンビールというブランドが生まれる。のちに麒麟麦酒株式会社がこれを引継ぎ、関東大震災までの半世紀にわたりビール産業の歴史を刻み続けた。工場のあった「キリン園」跡地には、麒麟麦酒開源記念碑が立っている。

 キリンビール横浜工場ビアビレッジで、「ビール五千年の旅」探求プロジェクトがあると聞き取材に出かけた。
 ビールの起源は思ったより古い。古代メソポタミアではシュメール人が麦からビールをつくりはじめたという。その様子はモニュマンブルーの粘土板に残されている。まず麦芽を作り、砕いて水とこねる。軽く焼いてパンをつくり、それをほぐして温水を加える。おかゆのようにすると麦芽アミラーゼの働きで糖分が増え、酵母が増殖して発酵しビールになる。その上澄み液を細い管で飲んだのが最初とされている。
 こうしたビールづくりはシュメールからバビロニア、エジプトに伝わった。当時のビールは、医薬品としても使われていたらしい。もっと驚いたことに、あの巨大ピラミッドを建設した何万という人々に、パンとビールが支給されていたというのだ。
映画や小説に登場する古代エジプトのイメージは、国王が国民を従え、むちをうって、自分の大きな墓を作らせていたというものだった。
 しかし、ピラミッドを作った人々が住んでいた町の跡を調べると意外な姿が見えてきたという。実は人々は喜んで働いていたのだ。普通の農民や職人がまるで会社にいくように、規則正しく通っていた名残がみつかった。食事や休暇もキチンととり、医者にも恵まれ、出勤簿までつけていたという。
 とはいっても、王族と一般庶民との食べ物は違った。王様がフルコースなら、庶民は、にんにくと大根がメインだった。しかし王様と庶民が、共通して楽しんだものがビールだった。
 全てのエジプト人が、1日の始まりと1日の終わりにビールを飲む。そんな姿を想像していたら「1888年のビールを再現したものがあります!」と係りのひとが持ってきてくれた。口を近づけると麦芽の香り。まるで自分がピラミッドの前に立っているかのように、ゆっくり喉を潤した。

今日の「私の横浜ビール物語」いかがでしたか?出演、小林節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2007年2月28日 (水)

横浜・明日への提言(23) 精神的遺産都市宣言

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横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)

 世界文化遺産登録のための追加国内候補が出揃ったのが1月23日。現在、登録に向けてユネスコで選考が進んでいると思われるが、もし、開港当時の町並みが残っていたら、間違いなくミナト・ヨコハマも候補に挙げられただろう。しかし、関東大震災、戦災で二度廃墟を経験、赤レンガ倉庫、開港記念会館(ジャック)、神奈川県庁旧庁舎(キング)、横浜税関(クイーン)、神奈川県立歴史博物館などがとびとびに残っただけで周辺は近代的なビル街に一変した。かつてはあったというだけでは世界遺産登録は無理だろう、とだれもが思うに違いない。
 世界文化遺産への登録、地域名産ブランドの獲得が町おこしの手段に用いられる傾向が全国的に目立ってきた。町おこし自体は大いに結構なことである。だが、世界文化遺産、地域名産にしても、物に与えられるブランドである。横浜は物をなくしたが、精神的には復興都市だ。廃墟を二度も経験しながら常に蘇った。その歴史に着眼すれば先人たちの不屈の精神が浮かび上がる。日常は目立たないが、いざとなれば浜っ子は物凄い底力を発揮する。これほどの精神的遺産を遊ばせておくのはもったいない。
 開港当時の横浜も、考えてみればゼロからの出発だった。しかし、ゼロにならないと底力を発揮しないというのではまずい。日頃から大きな目標を持ち段階を積み重ねて組み上げていく。そういう姿勢に切り替えることが、開港150年目を迎えようとする横浜の課題だ。
 ミナト・ヨコハマに限っていえば、政策的にも、インフラ整備の面でも段階を踏んで、とうとうスーパー中枢港湾(ハブポート)の実現に漕ぎ着けた。京浜港に千葉港、木更津港を加えたスーパー中枢港湾が世界のハブポートとなるならば、あえてミナト・ヨコハマの伝統ある名称にはこだわらない。たとえばの話だが、スーパー中枢港湾をメトロポリタン・ポートの名前で包括し、ミナト・ヨコハマをカッコ書きすればよい。そういう大きな目標で明日にチャレンジしつづけている。
 横浜市全体がこうした具体的な目標を掲げ、不屈の精神を土台に日々チャレンジし、明日を築く。目標は今後の議論に待つとして、精神的遺産都市宣言をスローガンとして、次に来るべき開港200年へのバネとしたらどうか。
 目標が定まらなければ行動も始まらない。だから、目標は大きいに越したことはないし、多ければ多いほどよい。開港150周年記念イベントの目玉はその中からおのずと生まれてくるはずである。

2007年2月23日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第48回 「私の神奈川スケートリンク物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。
そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。
そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」 今日は、「私の神奈川スケートリンク物語」。

東急東横線・反町駅。JR東神奈川駅。京浜急行・仲木戸駅、神奈川駅。それぞれの駅から徒歩5分ほどの場所にある神奈川スケートリンク。オープンしたのは昭和26年、今年で55周年を迎える。屋内スケートリンクとしては日本で最も古い。54m×27mのメインリンクと、27m×6mの初心者用サブリンクの2つがあり、滑走料金は幼児・小学生が800円から大人の1200円まで4段階で、スケート靴は400円で借りられる。入場後は料金は加算されず、閉館時間まですべることが出来るのも人気の一つだ。
閉館時間後は、アイスホッケー、フィギュアスケート、カーリングなど部活動や各団体の練習場としても使われ、ここから神奈川県を代表する数多くの選手が生まれている。

 反町に暮らす幼なじみのお宅を訪ねた。子どもの頃の懐かしい話題で盛り上がっていると、お嫁さんが「お母さんたちにもそんな頃があったんですね」と熱いお茶を注いでくれながら語りかけてきた。
 「あの頃、私たちはオテンバでね、男の子とケンカしても負けなかったんだから。そういえば、我が家のオテンバ娘はまだ帰ってこないの?」と友人。
「ケイ子なら神奈川スケートリンクに行ってますよ。あの子、ミキティやマオちゃんにすっかり夢中になっちゃって」
 ケイ子ちゃんは友人のお孫さんで、小学3年生。家からほど近い神奈川スケートリンクのフィギュアスケート教室にこの冬から通い始めたという。
 「ねえ、ケイ子のフィギュアスケート姿、見に行ってみない?」
 友人の誘いに、ケイ子ちゃんに久しぶりに逢いたかった私は二つ返事で応えた。
神奈川スケートリンクは、何年ぶりだろうか。若いカップルに混じって、割とお年を召した方々も楽しそうに滑っている光景に少し驚いた。
 フィギュアスケート教室はサブリンクで開かれていた。私たちは、彼女に見つからないように様子を見守ることにした。子どもたちが一人ひとりコーチの前をすべってポーズを決めている。ケイ子ちゃんに順番が回ってきた。彼女は両手を広げ颯爽と滑るが、ターンに失敗して尻餅。すぐに立ち上がってもう一度挑戦。今度はきれいにターンを決めた。コーチに頭を撫でて誉められケイ子ちゃんも嬉しそうに微笑んだ。
 練習が終了して、彼女は私たちに気がついた。私は「ケイ子ちゃん上手ね、誰のようになりたいの?」と訊くと、「私、浅田真央ちゃんみたいに滑りたいの。オリンピックにも出るの。」と目をキラキラさせて答えてくれた。今はスケートが楽しくて仕方がないようで「じゃあ、おばあちゃんたち、また後でね。」と言うと友達が滑っている場所へ戻っていった。
 私たちはしばらく彼女が楽しそうに滑る様子を見ていたが、友人がついにこう切り出した。「ねぇ、私たちも久しぶりに滑らない?あの子のキラキラした目を見てたら、何でも出来るって思っていた子どもの頃を思い出しちゃって。」
 私は躊躇したが、結局彼女の勢いに押し切られ、滑るはめになってしまった。
 孫に手を振りながら友人は「私もフィギュア教室に通おうかしら。8年後には孫と一緒にオリンピックに出たいわ」と言う。私たちは一瞬顔を見合わせ、しばらく笑いが止まらなかった。

今日の、『私の神奈川スケートリンク物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、二羽信宏がお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

2007年2月16日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第47回 「私の日本新聞博物館物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の日本新聞博物館物語」


横浜には日本で最初が多い。1870年「横浜毎日新聞」発行、日刊新聞も横浜から。日本新聞博物館はその日刊新聞発祥の地横浜に2000年に開設された。新聞のことなら何でもわかる新聞専門の博物館でニュースパークとも言う。この博物館は横浜の歴史的な建造物である旧横浜商工奨励館を改築、改装した横浜情報文化センターの中にある。新聞の歴史、新聞社の仕組みや情報の大切さなどを学んだり、自分だけの新聞や広告をつくったり、子供からお年寄りまで楽しめる仕掛けがいっぱいで、自然と新聞について詳しくなれる。
新聞ライブラリーには日本新聞協会に加わっている各社の発行する日刊新聞が創刊号から収集、保管されていて調査や研究に使用できるのはもちろんのこと、自分の誕生日や記念日などの新聞をコピーすることができる。

 お蕎麦屋さんで手にした週刊誌を読んでいくうちに何かおかしな感じがした。
タレントのロマンスなのだが、週刊誌の表紙を見ると1年前のものだった。おかしな感じは当たりまえだ。その二人はもう離婚している。
 日本新聞博物館は創刊号からの新聞を読むことができる。少し前のことだが、取材でお邪魔した時に自分の誕生日の新聞を調べてみた。大昔の新聞を読んでいるようだった。物の値段が違う。広告も。レトロなどといえば格好言いが、古いこと,古いこと。「私はそんな古くないぞー」と新聞に向かって怒ってみる。
 同行したディレクターは、「帝銀事件知ってますか、僕は事件の翌日に生まれたんです」といい歳をしてはしゃいでいた。時間が経って、時差をつけて情報と出くわすのは、実は面白い。
 日本新聞博物館を訪ねた数日後、山下公園の陽だまりのベンチに座りウツラウツラしながら新聞を読んでいる。なにかおかしな感じがした。2月なのに「三ツ沢公園の桜満開、フレッシュマン花見の陣取りにおおわらわ。プロ野球、ベイスターズ開幕から6連勝」思わず日付を見ると4月10日。
 あれ、去年の新聞?!、と、もう一度日付を見る。2006年4月10日、どうみても今年のものだった。どうやら私は宝物を手に入れたようだ。それからが忙しかった。誰もが考えるように、ギャンブルの結果、競馬も競輪も結果を、未来の新聞は教えてくれる。連れ合いは、「生きてて良かった」などと大げさにいい、恥ずかしげもなく「新聞は俺のもの」と本性剥き出しで私から奪い取る。連れ合いのカッコ悪さをみる。
 ―――と。「フウーッー」とたんに夢から醒める。
 新聞も時間が経ってある程度結果が解った時点で読みなおすと面白いものだ。間違いの多いことにも気付く。何はともあれ、どう考えても未来の新聞なんてありはしない。何でも教えてくれる日本新聞博物館だって。

 今日の「私の日本新聞博物館物語」いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、大多田純でおおくりいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに。


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2007年2月14日 (水)

横浜・明日への提言(22) 客観的評価と主観的評価

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横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)
 
 生活者の視点、国民のほうを向け、内閣支持率、果ては勝ち組・負け組に至るまで、政治家やマスコミが考えたキャッチフレーズや造語が氾濫する世の中である。私は言葉だけ踊るような風潮が嫌いだから耳をふさぐようにしているが、内閣支持率で政権が浮揚したり沈んだりする昨今の風潮だけは黙っていられない。
 内閣支持率は世論調査で弾き出される。では、その世論調査とは何なのか。それを知らずに勝手なことをいってはもうしわけないので、世論調査の専門家に説明を求めて驚いた。世界の社会学者の間では「世論などない」というのが定説だというのである。
 FMヨコハマにも大いに関係あることだが、視聴率調査についても「犬が見てても視聴率」という揶揄的な業界言葉があるそうだ。テレビの前にいるのはペットだけでも測定機器のスイッチが入っていれば記録紙にカウントされてしまう。それはさておき、視聴者の好みや満足度などの質的な反応を知る客観的評価手段がないため便宜的に視聴率を用いているわけで、必ずしも正しい方法ではないという。それが業界の常識といわれたときは正直驚いた。われわれはあやふやな評価に踊らされて一喜一憂しているわけだ。
 内閣支持率に話を戻すと、世論調査には量的調査と質的調査があるが、後者は善悪・良否・正邪などの判定が調査票質問文設計者の主観に左右され結果の判定が客観的でなくなるため、現在はほとんど用いられないという。量的な調査なら質的な吟味なしに世の中の動きや思潮を項目化してそれぞれに傾向を数値で測るだけだから、それなりに客観的な結果が得られやすい。
 「つまり、傾向を測るだけで、価値判断は含まないのが世論調査。仮にそれを世論というとしても参考に留めるのが本筋で、丸呑みにして従うなど愚の骨頂だ」
 長く生きてきて、これほど驚いたことはない。
 ミナト・ヨコハマについても、客観的というと輸出量がいくらいくらで世界第何位という数値だけ語られて、それが正確無比で不動の評価であるかのようにいわれる。港湾技術の優劣などは数値化できないし、判定できるセンスを持つ者が第三者にいないから、質的な評価は港湾関係者が自分で判定し、改善はもとより創意工夫に智恵を絞り実現に汗を流す。それがミナト・ヨコハマの流儀だ。世論調査の何たるかを聞いてから、私はますます主観的な評価を大事にし、われわれがかくあるべしと信ずるミナト・ヨコハマにしていこうと強く決意した。
 FMヨコハマについても同じことがいえる。どこのだれが何をいっているかもわからない数値だけの視聴率・聴取率などより、地域に密着したエフエム放送に深い愛着を持ち明確な好みから発せられるリスナー個人の意見のほうがはるかに尊い。
 そこで結論、これからの日本と横浜に必要なのは、脱数値的評価による方向性を見出す努力だろう。それができたら、個性的な都市が日本のあちこちに出現し、当然、真っ先にこころがけた横浜が最先端を行っているはずである。

2007年2月 9日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第46回 「私の総持寺物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。
そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の總持寺物語」

曹洞宗総本山「總持寺」はJR京浜東北線か京急線の鶴見駅から歩いてすぐのところにある。石原裕次郎の菩提寺としても有名なこの寺は、他にも元総理大臣の芦田均、元横綱の前田山、そして画家の前田青沌など著名人の墓が多い。総持寺の正式名称は、「諸嶽山総持寺」。その開創は、675年もの昔にさかのぼる。もとは石川県能登半島にあり、1万3千余りの寺院を擁する大本山だったが1898年4月13日の夜、本堂の一部より出火。火はまたたくまに全山に広がり、慈雲閣、伝燈院を残し伽藍の多くを焼失した。それから7年後の明治38年5月、本山の貫主となった石川素童禅師は、本山の復興は現代的使命との自覚にもとづいて、寺院を横浜鶴見の丘に移した。
現在の総持寺は、前に東京湾と房総半島を望み、後ろに富士の霊峰をしたがえた景勝の地にある。わが国の海の玄関、横浜に位置するところから、国際的な禅の道場としての役割も担っている。

 曹洞宗の総本山が、横浜のそれも街中にある。それが妙に不思議に思えて、訪ねてみることにした。鶴見駅から歩いて数分。参道はゆるやかな登り道。奥に進むと、霊験を感じさせる本堂や、なぜか真新しい拝殿が見えてくる。手入れの行き届いた境内、特に渡り廊下が磨き上げられているのを見ると、心が浄化されるような気持ちになる。
 一番奥は後醍醐天皇の御霊殿。1322年のこと、総持寺をまかせられていた宝山禅師のもとに、後醍醐天皇の使者、臨済宗の和尚がやってくる。和尚は後醍醐天皇から託された十種の質問を禅師にゆだねた。その返答が帝の心に深く響き、同年8月28日に、総持寺は曹洞宗、曹洞出世の道場として認められ、紫の法服を着用することが許されたという。そういえば、この禅師には、面白いエピソードがあった。夢の話だ。
 日本海に突き出た能登半島の一角に諸嶽観音堂という霊験あらたかな観音を祀った御堂があった。その住職である律師が1321年の4月18日の夜、夢を見た。枕元に観音様が現れて「酒井の永光寺に宝山という徳の高い僧がいる。すぐ呼んで、この寺をその禅師に譲りなさい」と言った。
不思議なことに、その五日後の23日の明け方、やはり能登の永光寺で座禅をしていた宝山禅師本人も、まったく同じようなお告げを聞いた。観音様は、「諸嶽観音堂にいきなさい」と言った。宝山禅師はかねてから、諸嶽観音堂を禅の寺にしたいと考えていたので、寺におもむき住職となった。
 禅師と律師は夢で通じ合った。律師は夢のお告げだけで山を譲り、山をおりた。禅師は夢のお告げだけで山に出向き、一生をささげる覚悟を持った。宝山禅師は、寺の名を仏が満ち満ち保たれている総ての中心という意味をこめて、総て持っている寺と書いて「総持寺」と名づけた。

今日の「私の總持寺物語」はいかがでしたか?出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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