ヨコハマ ストーリー 第46回 「私の総持寺物語」
魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。
そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の總持寺物語」
曹洞宗総本山「總持寺」はJR京浜東北線か京急線の鶴見駅から歩いてすぐのところにある。石原裕次郎の菩提寺としても有名なこの寺は、他にも元総理大臣の芦田均、元横綱の前田山、そして画家の前田青沌など著名人の墓が多い。総持寺の正式名称は、「諸嶽山総持寺」。その開創は、675年もの昔にさかのぼる。もとは石川県能登半島にあり、1万3千余りの寺院を擁する大本山だったが1898年4月13日の夜、本堂の一部より出火。火はまたたくまに全山に広がり、慈雲閣、伝燈院を残し伽藍の多くを焼失した。それから7年後の明治38年5月、本山の貫主となった石川素童禅師は、本山の復興は現代的使命との自覚にもとづいて、寺院を横浜鶴見の丘に移した。
現在の総持寺は、前に東京湾と房総半島を望み、後ろに富士の霊峰をしたがえた景勝の地にある。わが国の海の玄関、横浜に位置するところから、国際的な禅の道場としての役割も担っている。
曹洞宗の総本山が、横浜のそれも街中にある。それが妙に不思議に思えて、訪ねてみることにした。鶴見駅から歩いて数分。参道はゆるやかな登り道。奥に進むと、霊験を感じさせる本堂や、なぜか真新しい拝殿が見えてくる。手入れの行き届いた境内、特に渡り廊下が磨き上げられているのを見ると、心が浄化されるような気持ちになる。
一番奥は後醍醐天皇の御霊殿。1322年のこと、総持寺をまかせられていた宝山禅師のもとに、後醍醐天皇の使者、臨済宗の和尚がやってくる。和尚は後醍醐天皇から託された十種の質問を禅師にゆだねた。その返答が帝の心に深く響き、同年8月28日に、総持寺は曹洞宗、曹洞出世の道場として認められ、紫の法服を着用することが許されたという。そういえば、この禅師には、面白いエピソードがあった。夢の話だ。
日本海に突き出た能登半島の一角に諸嶽観音堂という霊験あらたかな観音を祀った御堂があった。その住職である律師が1321年の4月18日の夜、夢を見た。枕元に観音様が現れて「酒井の永光寺に宝山という徳の高い僧がいる。すぐ呼んで、この寺をその禅師に譲りなさい」と言った。
不思議なことに、その五日後の23日の明け方、やはり能登の永光寺で座禅をしていた宝山禅師本人も、まったく同じようなお告げを聞いた。観音様は、「諸嶽観音堂にいきなさい」と言った。宝山禅師はかねてから、諸嶽観音堂を禅の寺にしたいと考えていたので、寺におもむき住職となった。
禅師と律師は夢で通じ合った。律師は夢のお告げだけで山を譲り、山をおりた。禅師は夢のお告げだけで山に出向き、一生をささげる覚悟を持った。宝山禅師は、寺の名を仏が満ち満ち保たれている総ての中心という意味をこめて、総て持っている寺と書いて「総持寺」と名づけた。
今日の「私の總持寺物語」はいかがでしたか?出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・