ヨコハマ ストーリー 第51回 「私の横浜開港資料館物語」
魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の横浜開港資料館」
「横浜開港資料館」は大桟橋の付け根にある。日本の近代はここから始まった。
1854年日米和親条約締結。現在も資料館の中庭にある「玉楠の木」が、ペリーの上陸から、条約の締結を見守った。横浜港の開港はその5年後のこと。
なぜ、横浜だったのだろうか。アメリカは当時の首都であった江戸で条約を結ぶ事を望んだ。江戸に外国の軍艦が入港という事態に幕府は慌て、交渉の結果横浜村という妥協点をみつける。現在の横浜から想像もできないが、19世紀の前半横浜村は半農半漁のわずか87軒という小さな村に過ぎなかった。日米和親条約の横浜応接所と開港後の横浜居留地として脚光を浴びた横浜村。やがて大都市横浜へと発展する。
小学3年生の姪の知美にねだられて「横浜開港資料館」に行ってきた。好奇心の人一倍強い知美は、幼い頃から素朴な疑問を私たち大人に投げかけてくる。「どうして空は青いの、海もなんで青いの」には、連れ合いがおもわず「子供電話相談室にきいてみようか」などと言いだしたこともある。今回の「横浜開港資料館」見学も、きっかけは、なぜ横浜が開港の場所になったのかだった。
資料館で充分に時間をかけて百数十年前の横浜の古き時代を存分にトリップした知美は満足した様子。帰り道、「中華街に寄っておそばでもたべようか」と誘うと、姪のいつもの調子がでてきた。
「叔母ちゃん、でも変だよね、日本は鎖国をしていたのでしょう。アメリカ人と開港の話しはどうしたの、英語はできたの」食い気よりも好奇心。考えてみればその昔、私自身も7歳か8歳の頃の父に同じような疑問を投げかけたことがあった。
父の答えは意外なものだった。鎖国中とはいえ、江戸初期には南蛮学が、中期には蘭学、幕末には英学、仏学、独学という洋学が存在していたという話しではない。父は幼い私に向かって「しっかりとした日本語だ」といった。
アメリカに対して主張すべき内容が整理されていれば、表現する手段、洋学、英語の出来、不出来は問題でない。「キチットした日本語がポイントだったのだ、節子も国語、日本語はしっかり勉強しろよ」といわれた。
最近、数学者藤原正彦さんのベストセラー「国家の品格」を読んだ。藤原さんは真の国際人に外国語は関係ないという。明治の初め、多くの日本人が海外に留学したが、彼らの多くは西欧のエチケットを知らない、世界史、世界地理も知らない、福沢諭吉や新渡戸稲造、内村鑑三などは例外だが、多くの留学生は肝心の英語さえままならなかった。しかし尊敬、賞賛されて帰ってきた。
その理由は、日本の古典をきちんと読んでいたこと、漢籍、漢文をよく読み、そして武士道精神をしっかりと身につけていた、この3つで尊敬されて帰ってきたというのである。
何処かで「このニュアンス、聴いたような・・・」感じ。・・・と突然「叔母ちゃんさっきの答えは」とラーメンと汗だくになって格闘している知美が攻めてきた。私は一瞬たじろぐ。そして、「しっかりとした日本語だったのよ、知美も国語勉強しなさいよ」 「エッ、日本語!?」姪の知美は唖然としてなにも返してこなかった。
今日の「私の横浜開港資料館物語」いかがでしたか?出演、小林節子 脚本、二羽信宏でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに。