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2006年6月

2006年6月30日 (金)

横浜・明日への提言(7) G・N・O―波止場の掟

07

横浜エフエム放送株式会社 
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。) 


 これまでは、子どもすなわち日本の未来、横浜の将来の問題点を指摘したわけだが、大人を取り巻く卑近な問題にも言及しておこう。
 今日、何かというと経済原則、経済効果、競争原理という言葉が金科玉条のように語られる。まるで陰謀渦巻いた弱肉強食、下剋上の戦国時代の再来を見るようで、これもまた私にとっては実に嫌な言葉だ。
 私はFMヨコハマのほかにミナトの仕事に長いこと携わってきた。ミナトは波止場――悪い波を防ぐ場所。すなわち、G(義理)N(人情)O(恩返し)がミナト・ヨコハマの掟で、悪い波の防波堤でもある。市場経済というシングルイシューでしか考えない連中は胸を張って「いまやグローバリゼーションの時代、競争原理が世界的な潮流である」というが、「ここは日本だからノー」というのが私の返事である。
 ワットの蒸気機関の発明で始まった産業革命が欧米に広がり、大量生産による安価な製品の輸出市場開拓の必要性が高まり、植民地主義に一段と拍車がかかった。そのターゲットになったのが、アジアとアフリカだった。イギリス、フランスの砲艦外交の前にまずインド、インドシナが屈し、次に清国が標的になってアヘン戦争が起きた。イギリスが清国で、フランスがインドシナで足止めをくっている間に、ペリーの黒船艦隊を派遣したアメリカが一足先に日本を開国させた。しかし、日本の開国から横浜の開港までさらに五、六年の歳月を必要とした。清国、インドシナに砲艦外交を展開するイギリス、フランスに対し、アメリカは日本に対して文官外交で臨みあくまでも友好的に日本と貿易しようと考えたためである。ここが大事なところだ。
 日本が大東亜戦争から太平洋戦争に戦線を拡大させアメリカ・イギリス連合軍に負けたときも同じことが起きた。同盟国ヒトラー・ドイツは占領軍に直接統治され、東西分断の悲劇を招いたが、日本を占領したマッカーサーは「自分も皇室の財産もどうなってもよいから国民を守ってくれ」という昭和天皇の慈悲の心に圧倒され、天皇制解体の方針を覆して象徴天皇制として残し、政府の存在まで認めた。天皇を親以上に敬い日本人が家族のように一つにまとまっていた事実が、失われた古きよきアメリカに強烈なノスタルジーを抱くマッカーサーをノックアウトしたわけである。開国期と似ているといって、これほど似た歴史的事実はない。だから、私の提言は日本の未来、横浜の将来に必要なのは市場原理主義に毒された考え方ではなく、波止場の掟「GNO」を確固とした見識として守り抜けということである。

ヨコハマ ストーリー  第14回「私の本牧物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の本牧物語』。

横浜港の南東部にあたる本牧。古くからエキゾチックな文化が根付いた街として知られ、明治の中頃から早くも外国人相手の歓楽街として賑わいをみせた。
その後、三渓園が公開され、谷崎潤一郎が住むなど別荘地として発展したが、戦後はアメリカ軍の基地と宿舎が広い敷地を占めた。まさにフェンスの向こうのアメリカだった。一方で、外国文化に影響された、その独特の雰囲気から、歌謡曲や映画の舞台にもなり、音楽家の活動拠点ともなった。1982年にアメリカ軍から返還されたが、基地と交流のあった名残を小港付近のカフェや雑貨店に見ることができる。

 先日、大学のOB会横浜支部の会に出席した。横浜のミッション・スクールから、東京の大学へ入学した私は、当初男子学生と話をすることができなかった。それが、住まいが本牧近くという事から、男子学生の関心を引いた。当時の男の子達は、横浜、特に本牧には憧憬をもっていた。それはフェンスの向こう側に存在するアメリカというイメージだったのか、新しいファッション、音楽、ダンスのステップ、街全体が醸し出す不良っぽさだったのか。ともかく、「節子は、本牧通なのだろう」とおだてられ、大いに株を上げ、ちょっと背伸びをして、「リキシャルーム」や「ゴールデンカップ」に案内し自慢だった。
 OB会が始まった。開宴の挨拶はおなじみの大先輩。乾杯の音頭は、白髪混じりのかなりの年輩に見えるロマンスグレー氏。あまり見かけない方だった。
仲良しだった友子と昔話に花を咲かせていると、突然後ろから「お久しぶりです、先生」と声をかけられた。乾杯の音頭をとったロマンスグレー氏だった。
「先生?」私は驚いて、「年輩に見えた貴方に、先生と呼ばれる覚えはないわ」と、内心つぶやいた。学生時代、私は本牧で三人の高校生の英語の家庭教師をしていた。有名なヨットのセール屋さんと自動車会社の息子さん。その照れた笑顔に思い出した。目の前のロマンスグレー氏は、確かに拓也君だ。
 「先生のおかげで一浪させられましたが、後輩です」拓也君の、この小憎らしいもののいい方は不思議なほど変わっていない。私がロマンスグレー氏の先生だったなんて、ちょっとショックで、思わず「貴方に教えた覚えはないわ」と大声を出してしまった。これには友子も声をあげて大笑い。誘われて私も吹き出し、涙が出るほど笑ってしまった。
 OB会も終わり、外に出てみると、港からの潮の香りが、いっそう強く感じられた。盛り上がった私たちの勢いはとまらず、拓也くんも誘いカラオケへ。 「ブルーライト横浜」の大合唱となった。

今日の、『私の本牧物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、大多田純でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年6月23日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第13回「横浜赤レンガ倉庫物語」 

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したそのときから、歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「横浜赤レンガ倉庫物語」

近代港湾発祥の地、横浜新港埠頭は明治の技術の粋を集めて造られた。赤レンガ倉庫は、その上屋施設として1907年に着工され、補強材として鉄を用い、スプリンクラーを完備、荷役用にエレベーターがあるなど、当時の最新技術が導入されていた。
赤レンガ倉庫は、貿易の要として活躍した後、関東大震災をくぐりぬけ、戦後は米軍に接収され、事務所や食堂、倉庫などに利用された。そして倉庫としての役割を終えたあとも、横浜のシンボルとして静かにたたずんできた。
その貴重な歴史的資産を1992年、横浜市が国から取得。2002年4月に新たな文化・商業施設としてオープンした。

 日曜日の朝、横浜赤レンガ倉庫を訪れた。友人が、一緒にガラス工芸を習おうと誘ってきたのだ。先月一人娘が結婚して、なんとなく心に穴が開いたような寂しさを感じていた。友人なりの気遣いなのだろう。
 赤レンガ倉庫にある「横濱硝子」は、横浜で初めての吹き硝子工房。いろんな作家が創作に取り組んでいるという。「まったくの素人である私でも大丈夫よ」と友人は言っていた。緊張したせいか、約束の時間より早く着いてしまった。
倉庫は、まだひっそりとその入り口を閉ざしている。埠頭を歩くことにした。初夏の陽射しを跳ね返しながら、シーバスが水しぶきをあげている。犬を散歩させている夫婦が、ゆっくりと通り過ぎる。
 横濱硝子での体験教室。卓上酸素バーナーを使って硝子棒を溶かし、トンボ玉を作る。飴のように溶けていく硝子玉。赤、青、緑、黄色など、さまざまな原色が、混じり合い、形を変えていく。友人は、慣れた手つきでトンボ玉付きの携帯ストラップを作っていく。私は、光を反射した硝子の美しさに、ただ目を奪われている。
 ふと、娘の結婚式を思い出した。キラキラ光る娘の姿が浮かんだ。心が満ちていくような幸福感が私を包む。嫁いだ娘に、携帯ストラップを作って送ってみようと思った。

今日の「横浜赤レンガ倉庫物語」はいかがでしたか?
出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年6月16日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第12回 「山下公園物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の山下公園物語』。

  横浜で最も有名な公園「山下公園」。1930年に日本初の臨海公園として関東大震災きっかけに誕生した。復興事業として波打ち際に捨てられていた焦土や市内の瓦礫、焼け跡のレンガなどが埋め立てに利用された。1935年には復興記念横浜大博覧会が開かれた。今で言うパビリオンが立ち並び、およそ323万人を集め賑わった。1990年には東側がリニューアル整備された。バルセロナのグエル公園を思わせるカスケードのある楽しい階段や幾何学的な滝や水路などが作られ、新しい魅力が加わった。

 「お母さん、何か飲み物買ってくる」と言って娘は私と荷物をベンチに残して走っていった。二人で元町で買い物をして山下公園でひと休み。そこに主人が合流して夕食を食べる。こんな過ごし方が月に一度の習慣になったのはいつからだろう。私は横浜市の花である薔薇が咲き誇るこの季節の山下公園がことのほか好きだ。
 いつもの海に面したベンチに座って娘を待つ。そんな慣れ親しんだシーンもあと数回。「この秋に結婚したい」と、ボーイフレンドを連れてきた時は私も主人も驚きを隠せなかった。わがままいっぱいの娘が、誰かのために生きたいと思うようになったのかと、喜びと不安で複雑な気持ちになった。
走っていく娘の後ろ姿を見ていると、なぜか母の事を思い出した。その昔、母と二人でこの公園に来たのは桜の季節。
 母は海を見ながら「昔、私もおばあちゃんとここに来たことがあるのよ」と話し始めた。祖母は常に祖父をたて親を敬うことを重んじていた。そして祖父が起きる前に薄化粧を済ませ、どんなに帰りが遅くなっても、必ず起きて待っている・・・そんな人だったのだ。関東大震災そして戦争。その都度全てを失いながらも家族を愛し守ってきた人。この山下公園で『何があっても旦那様を敬い、家族を愛し、守れる強さを持つのよ』と母に言ったそうだ。母は私にそこまで話すと黙ってしまった。その言葉は嫁いでいく私へのメッセージだったのだろう。
 汽笛が鳴り我に返った時、主人が声をかけ隣りに座った。そういえば二人が出会った頃もこの公園に薔薇を見に来て、他愛もない話をしたことがあった。
「あの子が嫁いで二人になっても、また一緒に来ましょうね。」と言うと、何も言わずに主人が微笑んだ。「お父さーん!」娘が駆け寄ってきて「今日は何を食べるの」といつもの元気な声で言った。

今日の、『私の山下公園物語』いかがでしたか。 出演、小林節子 脚本、浮田周男でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年6月14日 (水)

横浜・明日への提言(6) 便利社会の落とし穴 その③

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横浜エフエム放送株式会社 
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。
 

 戦前に生まれた私は軍国少年として育ち、戦争中は空襲で生命の危険と隣り合わせながら学校工場で働き、軍事教練で鍛え抜かれた。教科書はあっても開く機会が少なかった。
「欲しがりません、勝つまでは」で、食うものもろくに与えられなかった。しかし、今日の便利社会、飽食の時代を見てきて、うらやましいと感じたことは一度もないと断言できる。
 私は終戦の20年8月15日を14歳で迎えたとき、昼過ぎから翌日の朝遅くまで熟睡し、「戦争が終わるということは空襲がないことなんだ。安心して眠れるということなんだな」と実感した。生まれて初めて平和な社会を迎えて、それからというもの私は好きな野球にのめり込んだ。
 野球をやるといっても、校庭は空襲で焼け落ちた校舎の残骸などで埋めつくされてすぐには使えなかったから、瓦礫の山を取り除きながらの練習だった。食うものもなく空腹で喉が渇く。グランドともいえない校庭の片隅にぽつんと立つ蛇口に口をつけて飲む水が、甘露水のようにうまかった。ついでに空腹をみたすために腹ががぶがぶになるまで水を飲んだ。歩くと体を伝って腹から「チャポン、チャポン」と音が聞こえてきた。
 今日の若者、子どもたちが経験する便利社会、飽食の時代とは180度異なる青春時代を私たち戦前世代は送った。機械も道具も不足し何をやるにも不便で、自分で工夫しないと何も始められなかった。しかし、自由や民主主義という言葉が胸の中できらきらと輝いていて、やりたいことがいっぱい詰まっていた。同年代の友達と目標を示し合い、熱く語りながら充実した日々を無我夢中で送った。香華に満ちてまさにあれが青春だった。
 天井が抜けたような自由を謳歌する今日の便利社会と比べて、結果にみるこの違いは何だろうか。
 戦後61年を経過する間に、日本はどん底から経済大国にのし上がり、そして、沈没の危機に直面している。日本の将来はいかにあるべきかを判断する材料がすべて出揃ったといってよい。そろそろ、戦前・戦中・戦後の本当の意味での検証をすべきではないか。その検証をしないと何も始まらないのだ。
 科学文明はここ半世紀の間に人類が数千年をかけて築いた歩みをはるかに越える勢いで進歩したという。現代人は科学文明のスピードに見合うだけの進化を遂げただろうか。そうでないとすると。人間は機械文明のドレイになってしまう。私が「便利社会万歳」としない理由がそこにある。

2006年6月 9日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第11回 「山手界隈散歩物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したそのときから、歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストリー』今日は「山手界隈散歩物語」

 開港後、欧米から外交官や商人たちが横浜に居住すると、すぐに馬や二輪馬車を購入して道路の新設を望むようになった。こうして、山手・根岸・本牧の景勝地を馬や馬車で巡る散策路ができた。これが「外国人遊歩新道」である。
 地蔵坂が出発点。明治天皇が根岸競馬場への行幸で何度も登った坂だ。根岸競馬場から不動坂を下りて、本牧へと到る。そして、山手の山すそから小港の十二天に向かう道と、山手公園から地蔵坂へと戻る全長およそ9キロの道だった。一部を除き、ほとんどが生活道路や幹線道路としてその姿を残している。

 友人と、石川町から間門まで、外国人遊歩新道をたどってみようということになった。お天気は快晴。用意のいい彼女は、日傘を手にしている。風が心地よく頬をかすめていった。
 石川町駅からすぐに地蔵坂だ。山元町商店街を抜ける。米軍施設の先に根岸森林公園がある。競馬場を思い出させる雰囲気が、今も残っている。
緑の匂いを感じていると、友人が「ちょっと、相談があるんだけど」と私を見た。遠くで、鳥の鳴く声が聞こえた。彼女は、相談したいことがあるときはいつも私を散歩に誘う。夫のこと、ひとり娘の就職のこと。ひとしきり話すと、いつもさばさばと帰っていく。でも今日は、少し様子が違う。喉が渇いたので、『ドルフィン』でお茶しましょう、というと、彼女は頷いた。
 彼女の話は、こうだ。旦那さんが、ある日プレゼントを持って帰ってきた。デパートでプラチナジュエリーのフェアをやっていたから、つい買ってしまった、と素敵なネックレスを手渡す。結婚以来、そんなことは一度もなかった。誕生日でさえ、ファミレスですます人なのだ。これは怪しいと彼女は言う。
「何かやましいことがあるに違いない。どう思う?」と聞かれて私は笑ってしまった。
「素直に喜べばいいじゃない。あなたの旦那さんにかぎって、そんなことないわよ」と言った。店を出て、不動坂から遠く海を眺めた。友人の胸には、しっかりとプラチナのネックレスが輝いていた。「今日は、相談ではなく、のろけだったのね」と心の中でつぶやいた。

今日の「山手界隈散歩物語」はいかがでしたか。出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・



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2006年6月 2日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第10回 『私の「港の見える丘」公園物語』

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の「港の見える丘」公園物語』。

JR根岸線石川町駅から元町を抜け谷戸坂を登り、「港の見える丘」公園に入る。 外国人居留地だったこの山手地区は、異国情緒あふれる横浜を代表する観光の名所でもある。戦後大ヒットした「港の見える丘」のモデル都市は不明だが、歌のイメージを山手に求めた横浜市民の要望もあって、1962年に「港の見える丘」公園は開園した。名前のとおり、海側を向いた展望台は、横浜ベイブリッジや、みなとみらい21、山下公園、横浜港などが一望でき、また夜景も素晴らしい眺めである。

 「お墓参りに帰国するので、どうしても会いたいと言ってます」と「明君」から突然電話が入った。「明君」は、バンクーバーにいる私の親友、直子の息子さんだ。急に懐かしくなって古いアルバムをめくった。セピア色にあせた私達二人の写真。直子はひときわ幸せそうに笑っている。ファインダーを覗き「ハイ、チーズ」と言ったのは、直子の夫となったばかりの哲也さん。もう二十数年前になるが、ジューン・ブライドの明るい、いきいきとした彼女を、今でもはっきりと覚えている。
 直子は海岸教会の聖歌隊で一緒だった幼なじみ。港まつりの国際仮装行列で私は王子様、彼女はお姫様役を演じた事もある。ミッション・スクールの高校で再会し、私達は聖歌隊で活躍した。大学卒業後、教会関係の仕事を手伝うほど熱心なプロテスタントだった。直子は、哲也さんと山手聖公会で素敵な結婚式を挙げた。しかし、幸せは長くは続かなかった。敬けんなクリスチャンであった直子のその純粋さが、哲也の母親との溝を広げていった。一生懸命、関係修復の努力をしていた様だが、それは報われることはなかった。最後まで、哲也さんと明君を心配しながら、直子は横浜港からバンクーバーへと旅立っていった。
 久しぶりに訪れた「港の見える丘」公園は、日曜日とあって家族連れや若いカップルでいっぱいだった。直子は明君と一緒にやってきた。20数年ぶりだという彼女は、当時はなかったベイブリッジや、みなとみらい21に驚き、歓声を上げる。かつてスナップを撮った場所には、当時見かけなかったバラの花が今が盛りと咲きほこっている。
 歳月が「港の見える丘」公園を変貌させ、直子は「これでは私たちが変わっても無理がないわね」と私にそっと耳打ちをする。ローズガーデンでのツーショット。ファインダーを覗き、シャッターを切る明さんの姿が哲也さんに良く似ていると思ったのは決して私だけではなかった。思わず笑みがこぼれ、二十数年前の笑顔の直子がそこにいた。二人は港を見つめながら昔よく歌った「アメージング・グレース」をいつしか口ずさんでいた。

今日の、『私の「港の見える丘」公園物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、浮田周男でお送りいたしました。また来週をお楽しみに・・・

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