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2006年5月

2006年5月31日 (水)

横浜・明日への提言(5) 便利社会の落とし穴 その②

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横浜エフエム放送株式会社 
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)


 かつて私は「PHP」という雑誌から頼まれて「携帯が日本を滅ぼす」という評論を載せたことが有る。それから何年も経って、携帯電話が小学生にまで普及した事実にショックを隠し切れないでいる。小学生が携帯を使うとき、それは明らかに「オモチャ」になってしまう。使用料はだれが払うのだろうか。
 最近まで郵便配達に携わった人から聞いたのだが、毎月のように携帯電話会社から配達証明が大量に出るという。宛名は表札の苗字と同じだが名前が違うから恐らく子どもに遅延した使用料の支払いを督促するものだろう。考えようによってはこれも新手のキャッシングのようなものである。滞納金額も数万単位に達するようだから、支払い能力のない子どもに代わって親が弁済するほかない。これまた、私には嫌な話だ。
 景気が後退していたある時期、携帯事業の業績が好調で景気指数の向上に大きく貢献した。ゲームソフト関連の企業の業績も底堅く、次から次へ新商品を発売してきた。商品を売って利益を上げるのだから企業活動といってよいのだろうが、消費者について考えるとき果たして実需といえるのだろうか。
 二十四時間垂れ流し状態のテレビ番組も、テレビ放送が始まった頃は夜中の十二時には終わり大人向けがほとんどだったと思うが、今は子どもと主婦に大半を乗っ取られた感じである。当然、ゲームソフト、携帯などのCMも氾濫する。ファーストフード、スナック菓子、清涼飲料のCMはいうに及ばない。
 ごく大ざっぱにいっても、以上が日本の子どもを取り巻く環境である。脳卒中で倒れた大人の患者がリハビリ代わりにゲーム器でピコピコ、指先一つで携帯を握るのならともかく、全身を使って鍛える時期の子どもが毎日そういう生活を繰り返すことで将来もたらされる結果はいうまでもない。子どもは環境に育てられるというが、決して好ましい環境にあるとはいえないだろう。しかし、子どもたちに環境を変える知恵も力もない。環境をつくっているのは大人たちである。子どもたちはその環境以外に経験することがない。だとしたら、すべての責任は大人にある。もっともらしく数値目標を並べ立てただけの構造改革をいうよりも、子どもたちの環境から手をつけるのが先決である。
 至れり尽くせりの便利社会を万歳と手放しで礼賛するのは間違っている。便利、便利で汗もかかずに暮らせて、体力が向上するはずがない。機械が相手ではコミュニケーション能力も育たない。情緒の欠落で表現も流行語に頼るワンパターンになってしまう。結局は人間的にないないづくしの落とし穴にはまってしまうような構造にこそ問題がある。今すぐにでも子どもの環境構造改革に着手しないと、日本の将来は大変なことになるのではないか。

2006年5月26日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第9回 「私の三渓園物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したそのときから、歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。
そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』今日は「私の三渓園物語」

 国内でも有数の広さと美しさを誇る日本庭園『三渓園』。ここは、生糸貿易で財をなした横浜の実業家 原 三渓の元邸宅だった。彼は、この地に京都や鎌倉などから歴史的に価値のある建築物を移築し明治39年『三渓園』として一般に公開した。
 約5万3千坪の園内には、10棟の重要文化財を含む17棟の古い建築物が配置されている。三渓記念館には原三渓所蔵の古美術が所蔵されている。三渓園内のどこからでも見られる、旧橙明寺三重塔は京都から大正3年に移築されたもので、室町時代の様式美を堪能できる。
 第二次大戦で大きな被害を受けたが、昭和28年財団法人三渓園保勝会の手に移されたのを機に復旧工事が行われ5年後にほぼ昔の姿を取り戻した。四季折々の自然と建築物の調和は、訪れるものを優しく包み込んでくれる。

 三渓園で絵を描きませんか?そのコピーに惹かれて、町内会が主催する絵画教室に参加した。初夏を思わせる日差しは、外苑の大池をキラキラと舞っている。
 睡蓮を描こうと思った。三渓園の創設者、原三渓は、泥の中から清らかな華を咲かせる蓮の花を、特別愛したという。早朝のすがすがしい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。絵の道具を広げていたら、隣に初老の男性が腰を下ろした。
 「私も、ここで、描いていいですか?」と聞くので、どうぞ、と笑顔で答えた。
 あらためて、蓮の花を見つめる。去年亡くなった母の戒名には、『蓮』の字がついている。母にぴったりだと思った。母は、人をほっとさせるさりげない優しさを持っていた。
 「お母様には、生前、お世話になりました。この絵画教室で、お会いしました。絵を描く楽しさを教えていただきました」と突然、隣の男性が言った。
母は、中学の美術の教師をしていた。
 「筆のタッチが、お母様にそっくりですね」と男性に言われた。
 「そうですか?」と言いながら、嬉しさがこみあげてくる。絵を描き終えたら、母が好きだった「隣花苑」で、三渓そばを食べて帰ろうと思った。隣の男性が、ふとつぶやいた。
 「ほんとうに、蓮の花みたいな人でしたね」

今日の「私の三渓園物語」いかがでしたか。出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りしました。また来週をお楽しみに・・・

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2006年5月19日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第8回 「私の野毛山動物園物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したそのときから、歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』今日は「私の野毛山動物園物語」

 野毛山動物園の開園は1951年。当時の名称は野毛山遊園地だった。どことなく日本庭園の趣を残した動物園は、起伏に富んだ地形を生かして、動物舎が上手く配置されている。キリンやライオン、フラミンゴ、ハクチョウ等、おなじみの動物や鳥類が近くで観察出来ることで、親近感のある動物園として子供たちに人気を呼んでいる。また、ほどよい広さの園内は、家族連れやお年寄りの散策路としても楽しめるのが特徴のひとつである。1999年、ホッキョクグマのユキコが亡くなったのを機に、リニューアル整備され、今日も市民に愛される動物園になっている。

 先日、中学時代の同窓会を行うというので、何年かぶりに幹事の容子と会った。当時、容子は私の家によく遊びに来ていた。それは単に親しかったからだけではなく、私の実家が映画館だったからだ。容子は動物好きで、動物の出る映画が上映されているときは必ず遊びに来て2人で一緒に観た。なかでも「子鹿物語」は、涙をポロポロ流しながら観た映画の一つだった。
 中学生の時、私が家に宿題を忘れてしまったことがある。困っていると容子が、お昼休みに取りに行ってあげると言う。断っても自分は足が速いからまかせて、と引き下がらない。結局、職員室の電話を借りて、家の映画館で働いていたおじさんに頼んだ。フィルムを映画館から映画館へ運ぶ仕事をしていたおじさんは、自転車を飛ばしてすぐに持ってきてくれた。「わがままだ」とみんなから非難されたが、容子だけは「良かったわね」とやさしい笑顔で私を見つめていたのを今でもよく覚えている。
 容子とは懐かしい洋菓子店で会った。中学生の頃、この店でソフトクリームを食べたこと、最近の話、そして動物の話題で盛り上がったところで、突然容子が  「これから野毛山動物園に行ってみない」と言いだした。
 動物園は昔とは見違えるほどきれいに整備され、家族連れでにぎわっていた。
しかし、期待していたシロクマがいなかった。中に一体と外に二体置かれたホッキョクグマの像が当時を偲ばせていただけだった。1961年から1999年まで何代かにわたって動物園にいたホッキョクグマは、シロクマのユキコが亡くなったのを最後にもう飼育されていないということだった。
 「ユキコは愛嬌があって、人気者だったのよ」と容子が教えてくれた。
 私は容子を元気づけようと、同級生が経営する日の出町の焼き鳥屋さんに連れていき、生ビールを一杯ごちそうして別れた。

 今日の「私の野毛山動物園物語」いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、浮田周男でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

2006年5月12日 (金)

横浜・明日への提言(4) 便利社会の落とし穴 その①

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横浜エフエム放送株式会社 
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)

 ラジオのAMとFM放送、テレビ局併せて200余りのステーションがあるが、キャッシング関係のコマーシャルをやらないのはFMヨコハマだけだ。しかも、社長の私だけが反対している。副社長や専務が私に泣きつく。
 「社長、そろそろお願いします。いろいろ経済的な事情があって、他局もやっているし、うちもやらせて下さい」
 「気持ちは分かるが、頼むから私の生きている間はやめて欲しい」
 昔も今も私の返事は終始一貫して変らない。
 FMヨコハマのリスナーは13歳、14歳のローティーンから始まってハイティーンまでが主流で、あのソフトを買いたい、あれが欲しい――みんなお金が欲しいときだ。私にとってはいわば孫も同然だ。FMヨコハマで「キャッシングはどこで、いくらだよ。電話一本で借りられる」とやったら、かわいいリスナーたちが30万円借りた、50万円借りたということになって、それこそお父さん、お母さんまでもが大変な目に遭わされる。そんなのはほんとに嫌だ。一人でもそういう犠牲者を出すのは嫌だ。
 ありがたいことに広告代理店が心配してくれて、「子どもがよくわからないようなコメントにするから」といっていろいろ工夫しA案、B案、C案、D案を持ってきた。
 「いくら藤木が頑固でも、これならいけるだろう」
 ほんとに嬉しかった。だが、断った。所詮、キャッシングだ。稼ぎのない若者が借金をしたら返せないのはわかっている。だから、今でも断っている。
もし、受け入れるなら、その前にやることがある。それは月給を下げることだ。給料を下げても会社を維持する。また下げて維持する。下げすぎて子どもの月謝も払えない。そこまでいったら、初めてキャッシングOK・・・・。
 しかし、そこまではいかない。社員は結構いい生活をしている。だから、そういう意味でやるまでには至っていないと判断して私はゴーサインを出さない。
 瑣末なことかも知れないが、親の世代、祖父母の世代として当然の配慮だと思う。新しく何かを考えたりしようとする前に、「ここまでは譲れるが、ここから先は駄目だ」という基準を明らかにし、愛情で物事に血を通わせるのが順序だ。そういう企業が横浜に増えれば日本も変る。
 私はこれからも会社を愛するようにリスナーを大事にしたいと思う。愛すると口先では簡単にいえるが、確固とした信念に裏打ちされたものでないと、「それぐらいは、まあいいか」になってしまう。近頃の企業の稚拙な事故や事件の原因の一つがそこにある。そういう意味で私は死ぬまでわからず屋の「頑固オヤジ」でいようと思う。

ヨコハマ ストーリー  第7回 「中華街物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したそのときから、歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』今日は「中華街物語」

 横浜開港後、中国人は雑役、通訳として日本に渡ってきた。年を追うごとにその数が増え、洋食や和食ではなく中華料理を出す店も出てきた。初めは外国商館勤めの中国料理人が独立開業した中国人向けの店だった。当時は現在の南門通り一帯がその拠点。街は拡大していったが、関東大震災で大きな被害を受けた。それを機に現在の場所に移り、長さ約150mほどの通りの両側に店がつくられていった。これが中華街の始まり。
 第二次大戦前は数十軒しかなかった中華料理店だが、戦後いち早く復興をとげた。現在10基の牌楼、すなわち門に守られている。中華街は、周辺の道路に対して45度傾いており、ほぼ東西南北に角がある。特に東西南北の4基の門には、風水の深い意味がこめられている。

 「お母さんに会ってほしい人がいるんだ」と息子に言われた。地方に転勤になった息子は、最近めっきり実家に顔を出さなくなった。それが珍しく「今度の週末、中華街にいこうよ」と言ってきた。
 我が家では、お祝い事があるたびに、必ず中華街で円卓を囲んだ。いつも、私の幼友達がやっている広東料理の店だった。息子は、きっと結婚を考えている人を連れてくるのだ。そう思うと、不思議な高揚感と安堵感、そして一抹の寂しさに包まれた。さっそく友人の店に電話し「とびきり大事なお客様がくるから、豪勢にお願いね」と席を予約した。
 土曜日の夕方。関内駅に現れたその女性は、綺麗な瞳と爽やかな笑顔をたずさえていた。中華街は賑わっていた。息子は得意げに説明している。中華街は東西南北、四ヶ所に牌楼門があって、各方位の守護神に守られている。東は朝陽門で日の出を迎える門、色は青。西は延平門で平安を願う、色は白。南の朱雀門は厄を払い大いなる福を招く。色は赤。そして北は玄武門といい子孫繁栄をもたらす。色は、黒。
 彼女が門に貼られた「福」という字が、どうして逆さまになっているのかと聞いた。息子は困って私を見た。逆さは中国語で「倒れる」と書いて「倒」。倒の発音は、「到る」と同じ。つまり、福を逆さにして「福に到る」と読ませるのだと私が説明する。福に到るとは今日の日にふさわしい響きだと思いながら、二人を友人の店に案内した。

今日の「中華街物語」いかがでしたか。出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。また来週をお楽しみに・・・

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2006年5月 4日 (木)

ヨコハマ ストーリー  第6回 「グランドホテル」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したそのときから、歩みは始まりました。
そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。
そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』今日は「グランドホテル物語」

 横浜開港後、外国人用ホテルの需要が急増した。そして、現在の「横浜人形の家」付近に、本格的なホテル「グランドホテル」が建てられた。残念ながら、このホテルは関東大震災で焼失した。震災後、ホテルの復興はなかなかすすまなかった。しかし、需要の高さに迫られた横浜市は、市がホテルを建設し運営を民間の会社にゆだねるという画期的方策を打ち出した。そして昭和2年、新しいホテルが誕生。名前は横浜市民から募集し『ホテルニューグランド』と決まった。
 このホテルにはチャップリンや、ベーブ・ルースが泊まり、第二次大戦直後は連合国軍最高指令官、マッカーサーが執務室として利用した。現在のホテルニューグランド旧館は建設当時の面影を残している。階段をのぼったロビーは洋風と和風を巧みに調和させ、格調の高い雰囲気をかもしだしている。

 結婚40年のお祝いで『ホテルニューグランド』に夫と泊まることにした。本館二階のロビーは太い柱とレリーフをほどこした壁、年代を感じさせる調度品やソファで重厚な空気につつまれている。その雰囲気は昨日今日つくられたものではなかった。
 普段ほとんど口をきかない夫が珍しく「たまには、ホテルに泊まるか」と声をかけてきた。「結婚式をあげたニューグランドにしようと思う」と言った顔が印象的だった。照れたような怒ったような表情。あとで、娘がこっそり話してくれた。これは娘のアイデアだった。頑固な夫がこのアイデアに素直にしたがってくれたことが微笑ましかった。
 山下公園を夫と散歩した。並んで歩くのはずいぶん久しぶりだと思う。先月の入院は二週間に及んだ。定期的な検査入院だったがかなりこたえた。夫は、毎日病院にきてくれた。
 歩く私たちの影は心細く揺れている。影も歳をとるのかしら、とふと思った。風に潮の匂いが交じっている。氷川丸の船体が水面に映った陽光をはねかえしている。「風が出てきたな。ホテルに戻ろう」と夫が言った。
 レストランの席は窓側だった。こうして、あらためて二人の時間をながめると、私たちの関係も、このホテルのように昨日今日つくられたものではないことがわかる。気がつくと、ウエイターが、大きな花束をテーブルに置いた。夫はそっけなく「これは、俺が頼んだんだ」と言った。その言い方がおかしかった。窓の外では暗くなった街路樹に、柔らかな灯りがともった。

 今日の「グランドホテル物語」いかがでしたか。出演、小林 節子 脚本、北阪真人でお送りしました。また来週をお楽しみに・・・

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