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2006年4月

2006年4月28日 (金)

横浜・明日への提言(3) ジャンク・フード その②

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横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)

昔は小学校の運動会、遠足というと母親が早起きしておにぎりを握り、野菜の煮物を重箱に詰めた。弁当は「おふくろの味」であり、常にその存在を知らしめるものだった。運動会には日頃仕事で忙しい父親も観にきて、お昼になると家族単位で弁当に舌鼓を打ち、時ならぬ団らんの輪があちこちに出現した。
 今はどうだろうか。都会のあちこちにコンビニ、ファーストフードのチェーン店が店舗を展開し、私たちはお金さえ払えば簡単に食事が間に合う便利な社会に身を置いている。子どもの味覚は十歳前後で決まるというのに生徒が学校へ持参する弁当の多くはコンビニの商品で、家庭でもおやつはファーストフードのハンバーガー、スナック菓子、食事にさえコンビニのお手軽弁当が多くなり、たまさか家族揃って外食するときにはファミレスや回転すしへ入ってしまう。これでは折角の団らんが味気なくなるばかりか、ファミレスや回転すしで子どもが定番のように好んで注文するのがハンバーグ、大トロ、いくら、うに、ボタンエビというようなことになると、食の体験としては貧しいと断ぜざるを得ない。折角、命をはぐくむ食事を営みながら親の愛情のぬくもりが感じられないから、子どもの心は成長に反比例して渇いていく。
 若くして病に倒れる。倒れないまでも出来合いの決まり切った食事を繰り返すことで失われる食べる楽しみ、親への感謝、味覚を広げる充実感など情緒の喪失まで含めて考えると、子どもはもちろんのこと、親にとってこれほど恐ろしい現実があろうか。
 便利を追求する社会には、このような落とし穴が口を開けている。民主主義が多数決を原則とする一方で、「少数意見の尊重」を謳うように常に反対概念を尊重し、対策を講じる姿勢が必要である。致命的な失敗をしないことが成功の第一条件とするなら、将来ある若者にとってはどうしたら成功するかを考える以前に便利な社会に潜む危険を熟知することが必須の心得となるだろう。
母親がつくる具沢山の味噌汁、おじいちゃんが釣った魚の干物、おばあちゃんが漬けたタクアンなど、こうした素朴な食が豊かな人間をつくるといわれるのは、やはり丹精と愛情が子や孫に理屈抜きに伝わるからだろう。ジャンク・フードは商品なりの工夫は凝らされるだろうが、不特定多数が相手だけに愛情が籠もっているとはいいがたい。一日三食、一年三百六十五日、年々歳々、親子の愛情伝達の機会が失われることを思うと、ジャンク・フードの功罪を真剣に考えざるを得ない。まだ小学生あたりの信じるも信じないも判断のつかない年代を襲う犯罪があとを絶たないのも、ジャンク・フードで育った成人のなせるわざだろうか。もちろん、事件とジャンク・フードの間に因果関係があると証明されたわけではない。だから、私はジャンク・フードそのものを否定しているわけではない。
便利に慣らされて大切なものを見失うことが問題なのだ。飽食というからには食生活に不足は何一つないわけで、こうしたシチュエーションが深刻な問題点を自覚させない原因でもある。それこそ問題と感じて、ジャンク・フードを一つの例に取り上げたにすぎない。
 ところで、「平和都市宣言」をする自治体があるが、どうせなら平和の上塗りをするより「食生活構造改革都市」を宣言したほうがはるかに意味がある。みんなで考えるきっかけをつくれば、どうすればよいかの知恵は自然と生まれる。

ヨコハマ ストーリー  第5回 「馬車道物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時から、その歩みは始まりました。
そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。
そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」
今日は、「馬車道物語」

 吉田橋から県立博物館に向かう馬車道は、明治期の洋風を模したガス灯などでレトロの印象が強い。この道は馬車が通った道で、居留外国人の要望で1867年3月に造られた。開港直後、馬車は外国人専用の乗り物だった。これを乗り合い馬車として企業化したのは、茶や絹などの貿易会社のコブ商会で、横浜と築地間に一日2回定期便を走らせた。
 日本人が初めて乗合馬車の営業を開始したのは1869年で、わが国の写真業の祖といわれる下岡久之助らの成駒屋だった。成駒屋は吉田橋脇を発着所とした。二頭立て、定員6名の馬車は都橋を渡り、野毛山を超えて4時間かけて日本橋に向かった。1868年、馬車道の太田町にわが国最初の写真屋が、翌年、常磐町にわが国初のアイスクリーム屋が開業、そして1872年にガス灯がともり、馬車道は開け行く文明のシンボルになった。

 友人の個展を観るために関内まできたので、昔、父がシェフをつとめるレストランがあった馬車道を歩いてみようと思った。幼い頃私は厨房に父を訪ねては、よく怒られた。何日も煮込んだシチューの香りを今もしっかりと覚えている。叱られてばかりだったのに、馬車道を歩くと胸の奥があたたかくなるのは何故だろう。
右手に見える「神奈川県立歴史博物館」。ドイツ・ルネッサンス様式の影響が強い本格的な石造り。その堂々とした風格は、まるで父の背中のように安心感を与えてくれる。
 友人の絵は素晴らしかった。彼女は五十を過ぎてから本格的に絵画を学んだ。そのタッチは優しく繊細だった。海に浮かぶ船の絵があった。うねる海。小さな船は少し心細く見えたが、この船は必ず港にたどり着く。そう思わせる何かが伝わってきた。
 父の店があったあたりに、小さな喫茶店があった。店内は山小屋を思わせるロッジ風のつくりで、低くモーツアルトが流れている。髭をたくわえエプロン姿の主人にコーヒーを注文した。
 陽が傾きはじめていた。父のことを思い出した。そうだ、私は怒られてばかりではなかった。この道を私の手をひきながら歩く父は、笑っていた。その大きな手の感触がよみがえる。
 ドアが開き、ベルが鳴った。振り向くと、そこに個展をひらいた友人がいた。
「あなたの姿がみえたものだから。個展、きてくれたのね。ありがとう」と微笑んだ。子供たちのことや昔のこと、いろいろな話をした。ふと、窓ガラス越しに家族連れが歩いているのが見えた。ああ、父が、友人と引き合わせてくれたんだなと思った。
 ガス灯の灯が、優しく舗道を照らしていた。

 今日の、「馬車道物語」いかがでしたか。出演、小林節子、構成、北阪昌人でお送りいたしました。また来週をお楽しみに・・・

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2006年4月21日 (金)

ヨコハマ ストーリー 第4回 「私の野毛山公園物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。


魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。
そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、「私の野毛山公園物語」

 横浜野毛の街から野毛坂を上り、横浜市立図書館の角を左に折れると、道の右手には木立に包まれた緑濃い一画がある。そこが野毛山公園だ。野毛山公園は日本庭園、西洋庭園、折衷庭園の三つ様式を持った公園として1926年(大正15年)に開園した。第二次大戦後、しばらく米軍に接収されていたが。1949年(昭和24年)日本庭園だった部分に動物園が、1951年(昭和26年)洋式庭園だった部分に児童遊園が造られ、整備を加えながら現在の野毛山公園になっている。
 野毛山公園には、横浜にゆかりのある人の記念碑が3つある。まず入ってすぐの散策路の傍らに著名な女流俳人「中村汀女」の句碑がある。高浜虚子に師事したホトトギス派の中村汀女は、日常を題材にしながらも叙情性に富んだ句を詠んだ人として知られている。
 中村汀女の句碑から歩を進めて、噴水のある広場の上側へと散策路を行くと、佐久間象山顕彰碑がある。幕末の松代藩士、佐久間象山は、横浜開港を推進した人物と言われ、開港百年を記念して1954年(昭和29年)この地に顕彰碑が建てられた。
 佐久間象山顕彰碑の傍らを過ぎて道路に戻り、動物園入り口横から吊り橋を渡ると野毛山配水池がある。そこに「近代水道発祥の地」の記念碑としてヘンリー・スペンサー・パーマーの胸像がある。パーマーは水道創設の際、技術指導を行ったイギリス人で、横浜水道創設百周年を記念して1987年(昭和62年)に胸像が建てられた。
 公園の開放的な雰囲気いっぱいのこの広場は、高台に位置している。周囲に視界が開けており、近くの展望台からは港方面の眺望が楽しめる絶好のロケーションである。今日、野毛山公園は市民のいこいの場所として、また観光の名所として多くの人々に愛されている。

 私の実家は西区宮川町。「野毛山公園は我が家の庭のようなもの」と言ったら少し大げさだろうか・・・でも本当に近い。公園の広場にはよく遊びに行ったし、高台の展望台から、はるか遠くに船や大きなクレーンなど、港の風景を楽しんだものだ。
 そして公園の外には二階建ての小さな放送局があった。それは1958年(昭和33年)に誕生したラジオステーションで、アメリカ軍のラジオ局WVTR現在のFENを意識した外国音楽が中心の放送局だった。
フランソワーズ、モレシャンさんのエレガントなフランス語には、遥かパリを感じ、ケン田島さんの格調高い英語にはイギリスやアメリカを感じたものだ。また流れてくるアメリカンポップス、ジャズ、カントリー、ハワイアン、シャンソン等、外国音楽の魅力にすっかり引き込まれてしまった。特に当時まだ誰も聴いたこともなく、全く知らなかった新しい音楽、ボサノバそしてモダンフォークミュージックを初めて耳にしたときの感動は大きく、当時の私の若い心を強く踊らせて止まなかった。
 私は日本人で、しかも生粋のハマッ子だが「音楽の国籍はどちら」と問われれば、すぐさま「外国籍」と言いたいくらいすっかり洋楽ファンになっていた。             
 大学時代、私には音楽仲間と言ってもよい五人の友人がいた。私達は、年数回に集まり、野毛山公園に行っておしゃべりしたり、歌ったりするのがきまりのようになっていた。仲間のうちの一人浩君は、私達女性のアイドルだった。彼の足はスラッと長く背も高くスマート。当時流行していたアイビーファッションがよく似合っていた。さらに憧れの、マーティンのフォークギターを持っていて、これがとても上手。おまけに新しいモダンフォークも知っていたので人気を独占しても不思議ではなかった。浩君には「花はどこへ行った」等モダンフォークを教えてもらい、芝生の上でみんなで歌い、楽しい時間を過ごした。
 そんな折、「花はどこへ行った」を作ったモダンフォークの神様的存在「ピートシーガー」が川崎でコンサートを行うという知らせが伝わってきた。私達は野毛山公園に集合してから聞きに行く事を約束していた。しかし約束の時間が過ぎても浩君は現れなかった。急病だった。みんなで一緒に行こうと決めていたので私達はコンサートをあきらめることにした。
 それからまもなくして浩君は外国に旅立ってしまった。以来みんなで会うことはなくなったが、彼はアメリカで音楽関係の仕事をしていると友達が教えてくれた。
 今でも野毛山公園のあたりを通ると、残念な一日もあったが、楽しかったたくさんのことを想い出す。しかし、もうあの時の歌声は聞こえてこない。さらに昔のラジオ局の跡は、アンテナらしきものだけが残され駐車場になっていて、昔胸を躍らせて聴いた音楽ももう聞こえこない。
 ボブディランが「時代は変わる」と歌ったように、間違いなく時代は、しかもどんどん早く変わっていってしまう。でも私達に想い出を残してくれた野毛山公園はこれからも市民の憩いの場であってほしいと願う。私の心の中にも、あの時代のことと共にずっと生き続けていくのだから。

今日の、「私の野毛山公園物語」いかがでしたか。
ヨコハマの魅力と由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」出演、小林節子 脚本、浮田周男でお送りしました。
なお、野毛山公園へは、JR線「桜木町駅」から歩いて約15分。京急線「日の出町駅」から歩いて約10分です。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年4月14日 (金)

横浜・明日への提言(2) ジャンク・フード その①

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横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)


前回述べた「技術の継承」ということでいえば、子どもの発育上好ましくないという理由でイギリス政府がジャンク・フードの広告を規制する動きを見せていると聞いて、私は思わぬところに原因を見出して強い衝撃を受けた。
 脂肪・カロリーの高いスナック菓子類、清涼飲料、糖分の高いアイスクリームなどをひっくるめて「ジャンク・フード」という。これらが子どもたちの肥満を助長し、従来は成人病に位置づけられた糖尿病、高血圧、心臓病、狭心症、身体能力低下などが、若者たちの心身を蝕む諸悪の根源として槍玉に挙がったというのである。まだ社会へ出ないうちから若年糖尿病などの思いもよらない事態で闘病生活を余儀なくされる、あるいは借金地獄に陥ってしまう――こういう気の毒な若い人たちが現実に激増している。技術の伝承どころか、世の中の食の構造改革から始めなければならなくなった。
健全な精神は健康な体に宿ると古くからいわれてきた。私たちは一日三食の暮らしを当たり前に繰り返しているが、問題は食事の取り方である。好き嫌いを基準にして明日なき食事とするか、人生を逞しく生き抜く健全な体をつくる不断の営みとするかで自分の人生の明暗が分かれるとしたら、だれであろうと「この一食」をなおざりにはできまい。だから、子どもが健康に育つうえで食の体験を無視するわけにはいかない。
この世で最も恐ろしいことは、危険を知らされないまま被害者にさせられることだ。
 飽食の時代とか飽食社会といわれている。平和な時代が高度成長をうながし、豊かな暮らしが飽食生活をもたらしたことは確かである。しかし、平和万歳、ゆたかな暮らし万歳を叫ぶ前に、わずかながらでも立ち止まって「ちょっと待てよ」と考え、テレビCMなどを用いて次々と仕掛けられるジャンク・フード攻勢によってもたらされる生命の危険に思いを致す必要がありはしまいか。
どうしたら身を危険から守ることができるか、次回は少し掘り下げて考えるとしよう。

ヨコハマ ストーリー 第3回「横浜ステーション物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。


魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。
ペリー艦隊が来航した時から、その歩みは始まりました。
そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。
そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく
「ヨコハマ・ストーリー」今日は、「横浜ステーション物語」

横浜駅は、現在の場所に移るまで、実に56年の歳月を要した。駅舎の流浪の旅は、1872年10月14日、横浜、新橋間の開通に始まる。当時の横浜駅は、今の桜木町駅の場所にあった。駅舎は、アメリカの建築家ブリジェンヌ氏が、設計し、前年の9月に完成している。
当初、横浜駅は、桜木町駅から大江橋を越えて関内方向に造られる予定だった。しかし、蒸気機関車による火事を危惧した住民の強い反対により、現在の桜木町までしか鉄道が造られなかった。
1889年に東海道線が全線開通したが、下り列車は神奈川駅から横浜駅に入り、そこで機関車をつけかえて同じ線路を通って保土ヶ谷駅に向かうルートしかなかった。
神奈川と保土ヶ谷を直接つなぐルートを設置するべく、現在の高島町付近から平沼橋付近に線路がひかれた。1901年には、その間に平沼駅が開設されたが、その名のとおり、駅周辺は湿地帯で土地の状況はよくなかった。
世界につながり、栄えつつある港の町、横浜にふさわしい駅舎をという要望にこたえ、1915年8月に、高島町にレンガ造りの駅舎が完成した。そこを横浜駅と名づけ、従来の横浜駅は、桜木町駅と改名された。さらに、この横浜駅も立地に問題があり移転を迫られ、1928年9月に、ようやく現在の横浜駅の位置に駅舎ができあがった。
ドイツ風の重厚なコンクリート造りは以来50年以上威厳を保ち続けた。

ある日曜日、夫は「久しぶりに友達に会うんだ」と言って出かけていった。定年を控え、最近、少し元気がなかったので、私は「いってらっしゃい」と明るく送り出した。夜になって、帰ってきた夫は、にこやかに笑いながら、友達との再会の話を聞かせてくれた。
桜木町駅に降り立つのは、16年ぶりになる。商社勤めの常で、海外暮らしが長かった。妻と娘を日本に残し、単身で渡った国は片手では足りない。電車から吐き出される人の群れ。乗り込む人の流れ。休日のホームは家族連れと恋人同士であふれていた。
今日は16年ぶりに友人に会う。待ち合わせは横浜美術館。16年前、友人と私は横浜博覧会の開催に奔走した。そして、その会の一施設として開館したのが横浜美術館だった。桜木町駅構内の壁に「エドモンド・モレルの肖像」がある。彼は1870年、横浜、新橋間の鉄道開設2年前、初代鉄道建築士の責任者に就任したことで知られている。
その実直な人柄は、伊藤博文も絶賛したらしい。彼も、異国の地での生活を精一杯やり遂げたのだ。滞在わずか一年半での病死は、その任務の過酷さを物語っている。今は、外人墓地に夫人とともに眠っているという。
駅を出て、ゆっくりと歩く。待ち合わせの時間までには余裕があった。春の陽は暖かく、ときおり優しい風に潮の香りがした。定年をひかえ、自らの心を見つめるゆとが
生まれた。先ばかりを見つめ、前ばかりを目指してきた自分の人生において、初めての「振り返る」という心の動き。とまどいや不安もあるが、そんな心の行方に身を任せてみたいという願望もあった。そんなとき、突然友人が会いたいと言ってきた。
彼は、行政側の現場担当者として、博覧会に携わった。がっしりした体は野球で鍛えたものだと笑った。その笑顔に救われた。運営にたどり着くまでの幾多の苦難も、彼の「まあ、なんとかなるでしょう」のひとことで乗り越えられたような気がする。彼は私より先に一線を退き、今は横浜郊外で、静かに暮らしていると人づてに聞いた。彼が「静かに暮らしている」様子はうまく想像できなかった。突然の再会の誘いは、パソコンだった。年賀状に書いておいたアドレスにメールがきた。
「たまには、ノスタルジーにひたってみましょう。郷愁に心をゆだねるには、横浜はいい街です」と彼は書いた。
整備された道を歩いていると、家族連れとすれ違った。小学二、三年の女の子が、右手に真っ赤な風船を持っていた。16年前、娘もあんな歳だったな、と思った。その娘が来月嫁に行くのだ。
階段を下りると、美術館が見えてきた。丹下健三設計による堂々としたたたずまい。ふと、こちらに向かってくる男性が見えた。がっしりした体躯は、いくぶんやせてしまったが、忘れられない笑顔があった。そして、その微笑みは「まあ、なんとかなるでしょう」と言っているように見えた。私は、年甲斐もなく、大きく手を振った。彼もまた、手を振りかえした。春の午後にできた二つの影が近づいた。
大きく手を振る夫の姿がはっきりと想像できた。私は、友達との再会のシーンを聞きながら、そっとつぶやいた。
「まあ、なんとかなりますよ」

今日の、「横浜ステーション物語」いかがでしたか。ヨコハマの魅力と由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」出演、小林節子、脚本、北阪昌人でお送りいたしました。また来週をお楽しみに・・・

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2006年4月 7日 (金)

ヨコハマ ストーリー 第2回「私の伊勢佐木町物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。
ペリー艦隊が来航した時から、その歩みは始まりました。
そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。
そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」 
今日は、「私の伊勢佐木町物語」

JR根岸線関内駅のところに、1870年明治3年日本で最初の「鉄の橋」吉田橋が架けられた。そして1907年、明治44年鉄筋コンクリートの橋に作り替えられ、当時我が国の最も近代的な橋の一つとして有名になった。
この橋を境に港側が関内、外側の関外が伊勢佐木地区と言われている。
現在の吉田橋からウェルカム・アーケードをくぐって真っ直ぐに延びる道に1978年、昭和53年、伊勢崎モールが作られ1丁目、2丁目に歩行者天国が誕生した。以来1丁目から6丁目にかけて四つのオブジェが制作されたり、近年アミューズメントパークも出来て老若男女が楽しめる魅力的な町となっている。
伊勢佐木町を語る上で大変ユニークな事と言えば、新旧の歌手・グループの歌と演奏活動がこの街を全国的に知られるようにしたことであろう。
古くは1960年代後半、青江三奈さんが歌って大ヒットした「伊勢佐木町ブルース」がこの街に歌の足跡を残したこと。
新しくはモールの路上ライブからスタートし、全国へ飛び立っていったフォークデュオ「ゆず」がストリートからスターへの新しい夢の道を作ったこと。
「伊勢佐木町ブルース」の歌碑と青江三奈さんの看板のある伊勢崎モール4丁目には年配の方々が・・・そして日曜夜のライブでモールを埋めつくすほど人を集めたデパート前のところには、今も若い「ゆずっ子」が記念撮影に訪れる光景を今も目にする。これからも伊勢佐木町は、若い人からお年寄りまで誰もが伊勢プラを楽しめる、そしてヨコハマの「下町感覚」をたっぷり味わうことが出来る街であり続けるだろう。
先日ニュースで、春の選抜高校野球に神奈川県の名門校が、45年ぶりに出場すると話題になった。偶然私はその高校で野球をやっていた宏之さんと知人であり、何しろ45年ぶりの甲子園だから、早速「おめでとう」と電話をした。そうしたら「OB仲間と甲子園に行くんだよ」とはしゃいでいた。

そう私達女子中学生3人組が宏之さん達と会ったのは伊勢崎モールの老舗の大きな本屋さんだった。宏之さん達は初めてこの街に来た様子で、きっと捜し物の場所がわからなかったのだろう、私達にスポーツ関連の本のある場所を聞いてきた。案内をしてあげて本はすぐに見つかった。そして私達が買い物を済ませ表通りに出ると、宏之さんたちが
「さっきはありがとう。」
「お茶でもおごるよ」
「ここ初めてだからいいお店教えてよ」と声をかけてきた。
私達は三人ということもあり、おまけに調子よいテンポで誘われたので一緒に行くことにした。
「どこがいいかしら」
「あそこはどうかしら」
あれこれ迷った末、私達のたまに行くお店で美人のおばあさんのいる甘味喫茶に彼ら三人を案内した。
「何にする?」
「みつまめ」「おしるこ」「アイスクリーム」
あれもいいし・・・これも食べたい。時間をかけてやっと注文が決まって私達は思わぬ3時のおやつに恵まれ、喜び合った。
「お前があんな球投げるからだろ・・・」
「なんて足が遅いんだ・・・」
「球をよく見て打てよ・・・」
といった会話から野球の選手達だとわかったのは、しばらくしてからだった。
そして最近はいいところまで勝ち上がるけど、惜しくも負けてしまう。しばらく甲子園から遠ざかっていて、悔しい思いをしていることが伺いしれた。
私達の地元には、野球の強い高校があり、その生徒達のことを街でよく見かけることがあったが、同じ野球部でも宏之さん達にはかなり違った印象を受けた。
間もなくして、店を出て伊勢プラしていたら夕方近くになっていた。
当時の伊勢佐木町は、かなり大人の街だったので、私達中学生は暗くならないうちに帰ることにした。宏之さん達は封切館、今で言うロードショー劇場で洋画を観ることに決めていた様子だった。
「次は頑張って」
「今度応援に行くから」
「オー」
「必ず来いよ」
と言い合いながらわかれた。
伊勢崎モールで彼らと知り合ったことがきっかけで試合は二回も見に行ったが。しかし彼らは、卒業するまで甲子園に行くことはなかった。
私が本格的に野球を観たのはあの時が初めてで、以来野球に興味を持ち好きになったのは間違いなく彼らからの影響だった。
後輩達が達成した45年ぶりの甲子園出場、おめでとうございました。

今日の、「私の伊勢佐木町物語」いかがでしたか。ヨコハマの魅力と由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」出演、小林節子、脚本、浮田周男でお送りいたしました。また来週をお楽しみに・

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