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2006年12月15日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第38回 「私の新横浜ラーメン博物館物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の新横浜ラーメン博物館物語」

ラーメンブームを決定的にしたのはこの博物館かもしれない。館内すべてがラーメン専門のミュージアム「新横浜ラーメン博物館」だ。1994年のオープン以後、新横浜の人気スポットに成長した。JR新横浜駅からオフィス街を歩くこと5分。入場料は大人300円,子供100円。3ヶ月間何度でも使えるフリーパスは1000円。昭和の街なみを再現したレトロな館内、全国各地からえり抜きの名店のラーメンを手軽に食べられるほか、ラーメンのうんちく満載の展示ギャラリーなど何度訪れても楽しめる。

 友人の恵子と待ち合わせたのが新横浜駅。
 「おなかは」
 「空いてる」
 アウンの呼吸だ。映画「ALWAYS 三丁目の夕日」がヒットして昭和、それも33年がブームだが、ラーメン博物館は、毎日が昭和33年。生活はまだ貧しくとも、行く手に希望が仄かに見えたあの時代。力道山の空手チョップが始まると我が家は、テレビを前に隣近所の人たちで茶の間から玄関先までが埋まった。当時のことで、いまこの歳になってもみる夢がある。
 両親が一緒になって映画館をやっていたということもあって、ひとり留守番をしていることが多かった。その時に鳴る電話のベル。受話器のむこうから誰が、どんなことを・・・。まだまだ、電話はそんなに普及もしていない。今日では想像もできないが、子供にとって電話が怖いものだった時代があった。
 ベルが鳴ると同時に私は「どうしよう、どうしよう」と押入れに入り込んでガタガタ震えて、ある時寝込んでしまった。火鉢でサツマイモを焼いていたのも忘れて・・・。どこかで扉の叩く音がしている・・・。
 夢の中の私はいつも火だるまになる。もう駄目だ。逃げ様としても足が動かない。びっしょりと汗にまみれて、次の瞬間目が醒める。サツマイモが焦げあがって、煙が玄関や台所から流れでていたのだ。まだ私が幼かった昭和20、いや30年?
 昭和30年代ブームという。現代人が見失った人と人とのきずな、お隣が扉を叩いてくれなかったら・・・。穏やな、寛容な社会があった。テレビを観に町中の人がやってくる温かい社会があったことを若い人は知って欲しいし、生き抜いてきた人にはあの時代を思い出して欲しい――ひとりごちる。
 目の前の恵子はウエストを気にしながらも、額に汗を浮かべてミニラーメンとはいえ三杯目に挑戦している。

きょうの「私の新横浜ラーメン博物館物語」いかがでしたか?出演、小林節子 脚本、大多田純でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・


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2006年12月14日 (木)

横浜・明日への提言(18) 神奈川・横浜をがん撲滅先進都市に

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横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)


 古くからの友人である梅沢健治前県会議員などに担がれて、8月4日「がん医療と患者・家族を支援する会」という組織を立ち上げた。世間に訴えて支援の輪を広げようと11月29日に「がん医療の最前線を探る」と題するシンポジウムを企画した。開催当日、私の友人ががんで亡くなった。それも医者からがんを宣告された途端、ショックで人間が変わってしまった。ああ、これなんだ、もっと早くこの会をつくっていれば救えたのではないかと思うと、私は悔やんでも悔やみ切れなかった。
 私は医師ではないから検診も治療もできないが、みんなで支えれば死なずにすみ、助かる人がいることは紛れもない事実だ。私は悔やむと同時に「がん撲滅」は医師だけの役割ではないと肝に銘じた。
 がんの検診・医療技術の進歩はめざましく、最近では重粒子線治療というがん細胞だけにピンポイントで放射線を当て、健康な細胞に害を加えることなく病巣を取り除く治療法が開発され、最早、死病ではなくなったといえるほど治癒率が高くなった。しかし、がん検診・治療がそこまできていることを知らない人が多い。亡くなった私の友人もその一人だ。
 当日、私は会長としてのあいさつで、がんは早く発見すれば治るし、何も知らずにいる患者・家族を助けないといけないと訴えながら、この会の活動を通じて医師でなくともがん患者・家族の支えになれることを一人にでもわかって貰えるようにするのが、友人に対する何よりもの弔意であり、私自身にとっても残された人生最大の使命だと痛感した。
 技術的なことは繁雑になるので省略するが、がん治療の最先端技術といわれる重粒子線治療を始めたのは日本とドイツだけで、日本でも目下は千葉と兵庫に限られるそうだ。神奈川・横浜がまだ始めていないのはさびしいが、今からでも遅くない、たとえ重粒子線治療機器がどれほど高価であったとしても、一台といわず二台でも三台でも導入して、病死する国民の死因の3割ががんであるといわれる現実にまず神奈川・横浜が率先して終止符を打つ。そのための「がん医療と患者・家族を支援する会」でもある。880万の人口を抱える神奈川・横浜が、官学民の立場を超え一体となってがんに立ち向かう体制が取れたとしたら、何よりも新しい「神奈川・横浜らしさ」になるのではないか。
 終わりに提言を兼ねたお願いである。がんを死因とする患者のうち精神的な支えで救える人はかなりの数にのぼるはずだ。情けは他人のためならずともいう。いつ自分が3割の仲間入りをするかわからない。支援の輪に加わるだけでも自分自身の支えになると思うが。

2006年12月 8日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第37回 「私の有隣堂物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の有隣堂物語」

関内駅の近く、イセザキモールに位置する有隣堂本店書店館。創業は、1809年12月13日。横浜を愛し、横浜に愛されてきた歴史ある有隣堂は、文化の発信地として、その役割を守ってきた。有隣堂の名の由来は、中国の論語からきている。「徳は、孤ならず、必ず、隣りあり」。徳を積んでいるひとは、孤独にはならず、必ず、隣に誰かいる、という言葉に由来している。
神奈川の歴史や郷土コーナーも充実しており、ガイドブックやエッセイ、写真集も地元に根ざした品揃えになっている。もちろん、その他の書籍の種類も豊富で、多くの人が本を求めて来店する。
お客様とのコミュニケーションを大切にしたいという思いから始まった、十色のブックカバー。『何色になさいますか?』というひとことが、優しく響く。ブックカバーは、色紙のようなシンプルなデザイン。上質な手ざわりで『本は心の旅路』という文字と、カタツムリのマークが銀色で、さりげなく入っている。 (文庫のブックカバーは2006年から冬季限定で1色増えています)
 
 来年のカレンダーを買うために、有隣堂にいった。休日のイセザキモールは、にぎわっていた。吹き抜けの一階が特に好きだ。高い天井に文化の香りが昇っていく。人々は、思い思いに本を見ていた。選ぶ本はさまざまだったけれど、その横顔はどの人も同じように凛として見えた。
 カレンダーはすぐに見つかった。熊田千佳慕という94歳の画家が描いた花のカレンダー。草花や虫を愛し、自然とともに生きる横浜出身の画家の絵。彼の生き生きとした輝く描写力と、愛にあふれた優しさが心を満たしてくれる。
 熊田千佳慕は、1911年横浜市中区に生まれた。東京美術学校、現在の東京藝術大学を卒業し、グラフィックデザインの道に進んだ。横浜大空襲で被災後は、6Bの鉛筆と縁の下で拾った絵の具を使って細密画法を会得した。初めての絵本は『みつばちの国のアリス』。以来、子供の絵本や雑誌で、花や虫の生態画を手がけてきた。
 彼を好きになったのは『みつばちマーヤ』という絵本のあとがきを読んでからだ。こう書いてあった。「大きな自然の中で、小さな虫たちは小さな命を大切に守って生きているのです。人間も虫も同じ生きものです。なかまです。失われていく自然への感性を大切にしましょう。私も心の灯りを大切に、神の許しのある日まで、愛を大切に生きてまいります。またお会いできる日を楽しみに。心をこめて。千佳慕」
花の絵は、優しかった。丁寧で、温かかった。街に出ると、師走の風が頬にあたった。つめたかったけれど、その寒さが嬉しかった。

 今日の「私の有隣堂物語」はいかがでしたか?出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年12月 1日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第36回「私の山手公園テニス物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の山手公園テニス物語」

横浜、山手公園は、外国人居留地にあったことから、横浜の中の「外国」としての存在感を保ってきた。山手公園は完成して数年後、居留地外国人による『婦女弄鞠社』、すなわち、レディース・ローンテニス・アンド・クロッケー・クラブという女性のテニス団体によって管理運営されることになった。イギリスで始まったばかりのテニスが、1876年横浜に上陸。山手公園で初めて試合が行われたのである。
テニスは、いち早く横浜の女学校に取り入れられた。1870年に創設されたフェリス女学院は、早くから洋式の体操を授業に取り入れ、明治末には、ラケットを持った女学生の写真が残っている。当時のテニスコートは、長さは現在と一緒だが、幅が90cm広かった。テニスに興じる外国人を見て、地元の日本人は、「しゃもじ」と噂したと言われている。

 1918年、横浜に住む三人の詩人が詩集『海港』を刊行した。海の港と書いて海港。彼らは、横浜をこよなく愛した。その三人のひとり、柳沢健は、三木露風を中心とする大正浪漫主義を代表する象徴派の詩人であった。彼は、当時の横浜をこう歌った。
 「窓から覗けば、赤い建物はグランドホテル。山の上の風景は、仏蘭西人コンシェール館の薄霞。静かな雨、白い海鳥。ジャバの紅茶。カピタン室の空気の重さ、軽さ」
 その柳沢健の詩に、山手公園のテニスを詠んだ『ローンテニス』がある。
 「深き緑と、もつるる微風と、踊れるものよ、湧きたつものよ。足には軽き白靴を、手にはボールを、うかがい、うかがいて、彼女の肩を。ボールは強く、右手に響く。微風よ、微風よ、さざめき立てよ」。
 北原白秋の歌に、横浜の公園でテニスボールを追う外国人女性を歌った作品がある。
 「やわらかに、ローンテニスの球光る 公園に来て今日も思える」
 歌集『桐の花』に収められたこの歌は、彼の実体験に基づいている。彼は、そのころ、激しくもせつない恋をしていた。文学好きの人妻、松下俊子との恋。粗暴な夫から逃れたい思いの俊子と深い仲になった白秋だが、夫から訴えられる。仲を裂かれた後、俊子が、横浜の外国人相手のチャブヤで荒んだ生活をしているという噂を聞きつけた白秋は、彼女を探して、横浜山手を歩き回わった。
 歩き疲れた白秋は、公園のベンチで休んだ。そのとき、ヒマラヤスギ越しに、華やかな女性の姿が見えた。彼女たちはテニスをしていた。その美しさ、伸びやかさは、白秋の心に元気を与えた。それからしばらくして、彼は彼女を見つけ出す。
 当時の人たちに、テニスはどう見えたのか。そんなヒントが作品に垣間見られる。そして、ボールを打つあの音は、今も、変わらない。

 今日の「私の山手公園テニス物語」いかがでしたか?出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・



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2006年11月30日 (木)

横浜・明日への提言(17)日本らしさ、ヨコハマらしさ

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横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)

 グローバル経済のかけ声のもと、日本のアメリカ化が一段と加速した。日米同盟一辺倒の外交、銀行のアメリカ支配、末はアメリカ企業によるゴルフ場買収、あらゆる分野で臆面もなくアメリカ化が進む。経済力の優劣、軍事力の強弱があるから、一応、仕方のないことだとしても、日本とヨコハマの将来像はこの先どうなっていくのか。
 多数決を基本とするデモクラシーが「少数意見の尊重」を謳うのは、量的な欠陥を質的に補うシステムを念頭に置くからだ。今、グローバル化が世界の趨勢であるならば、日本人に求められる反対概念は「日本らしさ」である。趨勢と反対概念の両者が拮抗してこそ、当面の利害と現象に正確な判断を下すことが可能になる。これが今回の提言である。
 経済でいえば、目前の事業がただうまくいけばよいのか、事業の横の連絡をよくして仕事がスムーズに運べばよいのかという観点からすると、今の日本は後者を「護送船団方式」として排撃し、前者の競争原理一辺倒に傾いてしまった。
 ヨコハマもまた360万市民が共有する都市イメージがいまだ確立されないまま「国際都市」が謳われている。次々に外国から入り込んでくる制度や物の考え方を取捨選択するに足る判断基準もあいまいである。
 ところで、歴史的に外来文化の玄関口となったのがミナト・ヨコハマである。ミナト・ヨコハマと簡単にいうが、観光のミナト、貿易経済のミナト、市民のプロムナードとしてのミナト、大きくこの3つに分けられる。このうち経済的に重要性が最も高いのが貿易経済のミナトである。
 私は貿易経済のミナトを受け持つ責任者の一人だが、「ミナト・ヨコハマは護送船団方式でいく」と方針を明確に打ち出してきた。目標はミナト・ヨコハマで働く人のすべてが「中産階級」であり、ごくふつうに暮らせるようになること。勝ち組もいてはならないし、まして負け組もいてはならない。いわゆる共存共栄の精神を根底にした社会で、典型的な日本らしさ、戦後日本の繁栄パターンだった。ただし、私が唱えるのは、伝統に根ざした革新で、従来のように利害にからむ護送船団方式ではなく、個々が江戸時代から続いた義理・人情・恩返しの精神的文化を持ち、率先して独創的に仕事のやり方を変えていく集団である。
 格差社会が問題とされる今日、是正する方策を探る意味で貿易経済におけるミナト・ヨコハマのありように目を向けていただければさいわいである。

2006年11月24日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第35回 「私のカレーミュージアム物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の横浜カレー・ミュージアム物語」

横浜は、わが国初めてというものが数多くある。今や日本の食卓の一番人気、カレーもそのひとつのようだ。横浜カレー・ミュージアムは、伊勢佐木町に2001年1月にオープンした。館内は、大正時代の横浜港をイメージして豪華客船や異人館などが映画のセットのように演出され、楽しいアトラクションも数多い。展示コーナーには、1872年に出版された「西洋料理通」「西洋料理指南」に記されている、日本最古のカレーのレシピを元に復元したカレーの模型が置かれている。カレーを食べながらその文化と歴史を垣間見ることができ、開館5年で内外の観光客を集める横浜の人気スポットなった。

 横浜は日本風洋食の発祥地としても知られている。野毛のキムラや花咲町のセンターグリルには家族でよく行ったものだ。母と私はセンターグリルのオムライス、父はカレーが大好物だった。
 2001年に、横浜カレーミュージアムができたことを知り、早速、興味津々で行ってみた。混雑していて、長時間待たされて中に入った。何を注文したのか覚えていないが、父が言い出したことで大いにもめたことがある。
 カレーは、ライスカレーなのか、カレーライスなのか!?
最初はどう呼ばれていたのか。どちらでも良いことなのだが、父は言い出したら、引かない、ハッキリしなければスッキリしない浜っ子だ。
 カレーの文化と歴史も教えてくれるミュージアムだが、どこを見て回っても、そんなことは一言も書いてない。父は、「ライスカレーが古いのだ」と家に帰ってまで言い張っていた。
 先日、待ち合わせで伊勢佐木町の有隣堂へいった。道すがらカレーミュージアムを通る。もはや時効となっていた「カレー論争」を思いだしてしまった。
 有隣堂には待ち合わせの相手はまだきていなかった。ここで1冊の本を見つけた。伊川公司さんが書いた「横浜・ハマことば辞典」。それによると「カレー・ライス」はライスカレーより後で使われ始めたとある。大正6年の「日用外国語辞典」にライスカレーはあるがカレーライスはない。昭和3年の林芙美子作「放浪記」には、「ねえ、洋食を食べない」「へぇ?」「カレーライス,カツライス、それともビフテキ?」というくだりでカレーライスが出てくる。
 どうやら我が家の5年に及ぶ「カレーが先か、ライスが先か」論争は父に軍配が上がったようだ。ライスカレーの文字から父の満足げな顔が浮かんでくる。

 今日の「私の横浜カレーミュージアム物語」いかがでしたか?出演、小林節子 脚本、浮田周男でお送りしました。ヨコハマストーリーまた来週をお楽しみに。

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2006年11月17日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第34回 「私の氷川丸物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の氷川丸物語」

横浜港、山下公園に係留されている氷川丸は、1930年に竣工、ただちにシアトルに向けて処女航海の途についた。この大型船は、一等船室など随所に1925年のパリ万国博で発表されたばかりのアール・デコ様式のインテリアが取り入れられている。
オーシャンライナー全盛期の優美な船のフォルムと、一流シェフの料理をはじめとする最高のサービス。氷川丸は「北太平洋の女王」と呼ばれた。1932年には、喜劇王チャーリー・チャップリンが、1937年には、イギリス皇帝ジョージ6世の戴冠式に出席された秩父宮ご夫妻が乗船された。太平洋戦争中は、病院船として使命を果たし、戦後は太平洋を横断する唯一の大型客船としてシアトル航路に復帰した。戦前戦後を通じて北太平洋を238回横断し、延べ2万5千人余りの乗客を運んだ氷川丸は、1960年現役生活を引退し、「横浜開港100周年記念事業」の一環として、翌年、生まれ故郷の横浜港に係留された。

 波の音がした。横浜の港にもさざ波は立つのだと、あらためて知った。潮風に交じった冬の気配。カモメの影が、山下公園の木々に小さく陰影をつけた。友人の葬儀は、ひっそりとしたものだった。告別式の弔辞は賛辞といたわりに満ちていた。でも、空が高すぎるせいだろうか。海が青すぎるからだろうか。ふいにせつなさが、こみあげてきた。
 気がつくと、大きな鎖でつながれた氷川丸の前にいた。
 桟橋入り口のボードウォークでは鼓笛隊が演奏している。生誕75周年と書かれた看板が見えた。まるで「偉大なひと」みたいな客船なのだ、と思った。せっかくだからと誰にともなくつぶやいて、チケットを買った。考えてみれば、この豪華客船に乗るのは、ずいぶん久しぶりだ。小さな男の子が、私の足元を走り抜けていった。船の油の匂いが、なんだか懐かしかった。
 船旅が夢を運び、人々の思いを届けていた時代の香りが、壁や床に残っていた。「氷川丸の生涯」という展示パネルに目が留まった。その航海は、波乱に満ちていた。戦争中、南太平洋海域で病院船として海を渡り、終戦後も、多くの同胞を家族が待つ日本に送り届けた。その後は、フルブライト交換留学生や「宝塚歌劇団」を乗せて話題になった。
 1960年8月、横浜。氷川丸最後の航海。デッキと桟橋の間に紙テープが乱れ飛ぶ、という説明つきの写真があった。たくさんの紙テープは、まるで大きなケーキに飾られた無数のロウソクのように、船を囲んでいた。
写真が、よく見えなくなった。泣いてしまった。涙が、最後の航海をにじませた。亡くなった友人も、75歳だったと思い出した。見えない紙テープを、投げてみた。それは、豪華客船に向けて、一直線に飛んでいった。そして、汽笛の音が聴こえた。

今日の「私の氷川丸物語」いかがでしたか?出演、小林節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年11月14日 (火)

横浜・明日への提言(16) 記者に資格認定試験を

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横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)  
 
 戦前から戦後の今日まで新聞記事を丹念に集め分析してきた人がいるという。又聞きだが、その人の下した結論は「新聞が順といったら、やがて逆になる」というものだそうだ。戦前の戦争翼賛記事が戦後に平和礼賛記事になり、高度成長礼賛が公害批判という具合に論調がひっくり返る。いちいち細かいことはいわないが、私が尊敬した故秦野章元法務大臣は「マスコミは乗換え名人」と評した。
 新聞記者は足で記事を書くといわれた時代、報道界はすぐれたジャーナリストを輩出した。遅れて登場したテレビも良質でレベルの高い番組を数多く制作してお茶の間をうるおした。情報の質が高かったから個人的にも優れたジャーナリストやテレビマンが育ったのだろう。
 ところが、今日、新聞・テレビで取り上げるニュースは各種スキャンダル、事件など社会の暗部が主流で、質的に見るべきものがない。当然、だれが書いたりつくったりしても同じような記事、番組になってしまう。そんな悪循環が起きているのではないか。
 記者にとって至れり尽くせりの社会環境も質の低下に輪をかけている。政府・官公庁はもちろん企業と名がつけば広報課があり、記者会見、記者発表、パブリシティなど、ありとあらゆるお膳立てをしてニュースにして貰おうと切磋琢磨している。記者はお仕着せの情報をかき集め、選択し、リライトするだけで仕事になってしまう。記者の専門性が薄れる一方で、紙面づくりのシステムが進歩し、コンピューター操作で画面や紙面がつくられていく。ハード的には画期的な進歩だが、肝心の能力の低下を招いた現実、しかし記事の影響力は昔日の比ではない。
 さて、ところで、戦後の日本ほど価値観が大きく揺らいだ国はない。量的にいえばオピニオン・リーダーの役割を果たしたのがマスコミである。しかし、質的には低落傾向にあるとは大方が指摘するところである。
 このままでよいのか。さあ、どうするか。
 対策の一つの手立てとして新聞・テレビなどの記者の資格試験を新設し、質的なレベルアップを図る試みが考えられる。第三者の公的機関に任せるのではなく、マスコミ自身がそれを自発的にやる必要性があるのではないか。 

2006年11月10日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第33回 「私の横浜国際総合競技場物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の横浜国際総合競技場物語」

2002FIFAワールドカップの決勝の舞台となった横浜国際総合競技場。1998年に完成し、日本最大規模の7万2千人を収容する屋外多目的競技場である。音楽コンサートも数多く開かれ、また,Jリーグ・横浜F・マリノスのホームスタジアムとして使われている。05年3月より日産自動車が命名権を取得して「日産スタジアム」と改称された。
ここで定期的に行われている「ワールドカップ・スタジアムツアー」は世界最高峰の舞台を戦った選手たちと同じ目線でスタジアムを楽しめるというイベントで、ヴィクトリーロードではワールドカップのテーマで使われた入場音楽につつまれ、フィールドへ。まるで試合に臨む選手になったかのような気分が臨場感たっぷりに味わえる。

 久しぶりの横浜国際総合競技場だった。三ツ沢競技場の近所に住んでいたという縁もあってサッカー観戦は趣味のひとつ。三ツ沢の応援風景もかなりのものだが、3年前の横浜国際総合競技場は、雰囲気が違っていた。
 世界が注目するワールドカップの決勝戦。時間は瞬く間に過ぎ、ピッチを切り裂くように、鳴り響く試合終了の笛。「神様ありがとう」優勝の瞬間、黄色いユニフォーム背番号9のロナウドが夜空にむかって十字を切った。スタンドが波を打つようにどよめき、私の耳にサンバのリズムがクローズアップしてくる。
 この日、久しぶりに競技場を訪れたのも、あの興奮と感動を再びという「ワールドカップスタジアムツアー」が開催されていると聞いたからだ。それにしても、間が悪い時はあるもの。出掛けに連れ合いが「ブラジルのサッカーもこれじゃあーな」と私に新聞を手渡した。「八百長に揺れる・サッカー王国ブラジル」と大きく活字が踊っている。全国選手権を舞台に八百長事件が発覚、違法なサッカー賭博に絡み審判が逮捕されたというのだ。一方のチームから不当にペナルティーを取ったり、選手を退場させたり、意図的に相手チームを勝たせた疑いがもたれている。これでは、選手は勿論、ファンも可哀想などと話しているうちにスタジアムについた。
 ピッチへ向かう階段を登るといきなり目の前に広がる美しい芝と7万2千人収容の観客席。ブラジルロッカールーム。2002年6月30日、決勝戦当日の姿そのままに再現されたカブラジル代表のロッカーだった。選手が残したサインや優勝を予言する数字が書かれたホワイトボード、黄色いユニフォームがずらりと並ぶ。その自信に満ちあふれた威嚇的にも映る光景は八百長騒動で揺れていた私の心をそっと鎮める。どこかでサンバの音がきこえて来た。ブラジル代表・セレソン(選ばれし者)の華麗なプレイがよみがえってくる。

今日の「私の横浜国際総合競技場物語」いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、大多田順でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・。

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2006年11月 2日 (木)

ヨコハマ ストーリー  第32回 「私の放送ライブラリー物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の放送ライブラリー物語」

「放送マンは潔さが勝負」テレビ局に入社当時、先輩からよくいわれた。特に生放送の場合は1回限りで訂正はきかない。電波に乗ればそれで終了。20年間、テレビの生放送を続けることができたのも「潔さ」を信条としたからだろう。
さて、きょうは「放送ライブラリー物語」。放送ライブラリーは、県庁近くの横浜情報文化センター、8階から10階にある。いわば放送番組の図書館、わが国唯一のアーカイブ施設で放送法に基づいて番組を収集、2000年にここに移転してきた。テレビ草創期からのドキュメンタリー、報道、ドラマ、ヴァラエティー、アニメなど1万本あまりと1946年以降の貴重なラジオ番組およそ2500本が保存され、無料で一般に公開されている。

 知り合いのラジオディレクターBさんから聞いた作り話のように聞こえる実話。Bさんの話しは「かつての神奈川県立博物館に小林峯夫さんというモグラ博士、モグラ研究では有名な先生がいましてね」というところから始まった。
モグラ博士とラジオディレクターのBさんは、モグラ大戦争というラジオ番組制作しようと箱根に向かう。箱根の山では「西軍」コウベモグラが侵攻作戦を続け、むかえうつ「東軍」アズマモグラはタジタジの体、天下分け目の決戦が、展開されているという設定。
 モグラ博士ほか総勢7名、テントをはり、10数本のマイクを地中へ。結局、マイクはモグラの陰ひとつ捕らえられず、5日がかりでやっと1匹のモグラを捕まえただけ。しかし捕獲したものの、引き取り先との交渉などなど,侃侃諤諤、さらに3日間を要し、東京・板橋区立下赤塚小学校の子供たちが飼育してくれることになった。
 「ミミズ代、金5万円也」上司が目をムく。ラジオ局のオフィスを駆け巡る伝票として不適当と判断され、つき返される。モグラは大食漢だった。毎日自分の体重ほどのミミズを食べる。昼夜を問わずに数時間おきにミミズを与えなければならない。昼間の世話は子供たちだが、日曜も含め「毎日が登校日」。モグラ博士も頻繁にやってきて、ますます、出社もままならぬ日々が続くこと3ヶ月。ボーナス査定にも響いて、深夜、モグラを前に教室に持ち込んだ寝袋の中で何度か泣いた。20数年前の話しだと言う。
 黄金のエイティーズ、人、皆、おもしろ悲しかった。モグラを飼育した子供たちも、もはや三十歳を過ぎた。「いまも忘れませんね、都会の子供たちがモグラをはじめてみた時の歓声は」とBディレクター。その歓声は、番組タイトルを「モグラ大戦争」から「モグラたちの夢ゲリラ」にかえて、芸術作品賞のクレジットを付けて放送ライブラリーに保管されているそうだ。

きょうの「私の放送ライブラリー物語」いかがでしたか?出演、小林節子 脚本、大多田純でおおくりしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに。

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