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2006年12月 1日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第36回「私の山手公園テニス物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の山手公園テニス物語」

横浜、山手公園は、外国人居留地にあったことから、横浜の中の「外国」としての存在感を保ってきた。山手公園は完成して数年後、居留地外国人による『婦女弄鞠社』、すなわち、レディース・ローンテニス・アンド・クロッケー・クラブという女性のテニス団体によって管理運営されることになった。イギリスで始まったばかりのテニスが、1876年横浜に上陸。山手公園で初めて試合が行われたのである。
テニスは、いち早く横浜の女学校に取り入れられた。1870年に創設されたフェリス女学院は、早くから洋式の体操を授業に取り入れ、明治末には、ラケットを持った女学生の写真が残っている。当時のテニスコートは、長さは現在と一緒だが、幅が90cm広かった。テニスに興じる外国人を見て、地元の日本人は、「しゃもじ」と噂したと言われている。

 1918年、横浜に住む三人の詩人が詩集『海港』を刊行した。海の港と書いて海港。彼らは、横浜をこよなく愛した。その三人のひとり、柳沢健は、三木露風を中心とする大正浪漫主義を代表する象徴派の詩人であった。彼は、当時の横浜をこう歌った。
 「窓から覗けば、赤い建物はグランドホテル。山の上の風景は、仏蘭西人コンシェール館の薄霞。静かな雨、白い海鳥。ジャバの紅茶。カピタン室の空気の重さ、軽さ」
 その柳沢健の詩に、山手公園のテニスを詠んだ『ローンテニス』がある。
 「深き緑と、もつるる微風と、踊れるものよ、湧きたつものよ。足には軽き白靴を、手にはボールを、うかがい、うかがいて、彼女の肩を。ボールは強く、右手に響く。微風よ、微風よ、さざめき立てよ」。
 北原白秋の歌に、横浜の公園でテニスボールを追う外国人女性を歌った作品がある。
 「やわらかに、ローンテニスの球光る 公園に来て今日も思える」
 歌集『桐の花』に収められたこの歌は、彼の実体験に基づいている。彼は、そのころ、激しくもせつない恋をしていた。文学好きの人妻、松下俊子との恋。粗暴な夫から逃れたい思いの俊子と深い仲になった白秋だが、夫から訴えられる。仲を裂かれた後、俊子が、横浜の外国人相手のチャブヤで荒んだ生活をしているという噂を聞きつけた白秋は、彼女を探して、横浜山手を歩き回わった。
 歩き疲れた白秋は、公園のベンチで休んだ。そのとき、ヒマラヤスギ越しに、華やかな女性の姿が見えた。彼女たちはテニスをしていた。その美しさ、伸びやかさは、白秋の心に元気を与えた。それからしばらくして、彼は彼女を見つけ出す。
 当時の人たちに、テニスはどう見えたのか。そんなヒントが作品に垣間見られる。そして、ボールを打つあの音は、今も、変わらない。

 今日の「私の山手公園テニス物語」いかがでしたか?出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・



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