ヨコハマ ストーリー 第34回 「私の氷川丸物語」
魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の氷川丸物語」
横浜港、山下公園に係留されている氷川丸は、1930年に竣工、ただちにシアトルに向けて処女航海の途についた。この大型船は、一等船室など随所に1925年のパリ万国博で発表されたばかりのアール・デコ様式のインテリアが取り入れられている。
オーシャンライナー全盛期の優美な船のフォルムと、一流シェフの料理をはじめとする最高のサービス。氷川丸は「北太平洋の女王」と呼ばれた。1932年には、喜劇王チャーリー・チャップリンが、1937年には、イギリス皇帝ジョージ6世の戴冠式に出席された秩父宮ご夫妻が乗船された。太平洋戦争中は、病院船として使命を果たし、戦後は太平洋を横断する唯一の大型客船としてシアトル航路に復帰した。戦前戦後を通じて北太平洋を238回横断し、延べ2万5千人余りの乗客を運んだ氷川丸は、1960年現役生活を引退し、「横浜開港100周年記念事業」の一環として、翌年、生まれ故郷の横浜港に係留された。
波の音がした。横浜の港にもさざ波は立つのだと、あらためて知った。潮風に交じった冬の気配。カモメの影が、山下公園の木々に小さく陰影をつけた。友人の葬儀は、ひっそりとしたものだった。告別式の弔辞は賛辞といたわりに満ちていた。でも、空が高すぎるせいだろうか。海が青すぎるからだろうか。ふいにせつなさが、こみあげてきた。
気がつくと、大きな鎖でつながれた氷川丸の前にいた。
桟橋入り口のボードウォークでは鼓笛隊が演奏している。生誕75周年と書かれた看板が見えた。まるで「偉大なひと」みたいな客船なのだ、と思った。せっかくだからと誰にともなくつぶやいて、チケットを買った。考えてみれば、この豪華客船に乗るのは、ずいぶん久しぶりだ。小さな男の子が、私の足元を走り抜けていった。船の油の匂いが、なんだか懐かしかった。
船旅が夢を運び、人々の思いを届けていた時代の香りが、壁や床に残っていた。「氷川丸の生涯」という展示パネルに目が留まった。その航海は、波乱に満ちていた。戦争中、南太平洋海域で病院船として海を渡り、終戦後も、多くの同胞を家族が待つ日本に送り届けた。その後は、フルブライト交換留学生や「宝塚歌劇団」を乗せて話題になった。
1960年8月、横浜。氷川丸最後の航海。デッキと桟橋の間に紙テープが乱れ飛ぶ、という説明つきの写真があった。たくさんの紙テープは、まるで大きなケーキに飾られた無数のロウソクのように、船を囲んでいた。
写真が、よく見えなくなった。泣いてしまった。涙が、最後の航海をにじませた。亡くなった友人も、75歳だったと思い出した。見えない紙テープを、投げてみた。それは、豪華客船に向けて、一直線に飛んでいった。そして、汽笛の音が聴こえた。
今日の「私の氷川丸物語」いかがでしたか?出演、小林節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・