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2006年10月

2006年10月31日 (火)

横浜・明日への提言(15) アンチ情報化社会人間

15

横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)  
 
 高度情報化社会がもてはやされてから十年以上の歳月が流れ、インターネット、光ファイバー通信、携帯電話の多機能化など、確かにハード面ではめざましい発達を遂げた。しかし、情報システムをつくるのも使うのも人間である。つくる人間はわずかで賢いには違いないが、使う人間は圧倒的多数で必ずしも賢いとは限らない。高度情報化システムに見合う人間の智恵、分別、心構えが育たなければ、弊害が便利さを上回り世の中はおかしくなってしまうだろう。
 高度情報化社会の雄インターネットは革命的にビジネスチャンスをもたらす一方で、犯罪の手段としても重宝され、頻繁に使用されている。警察は対応に追われ通しである。他方、新聞・テレビのマスコミはお茶の間に広く浸透し、そのステイタスは量り知れない。テレビや新聞にコマーシャルを出稿するとどんな企業でも信用されてしまう。宣伝にとどまらず信用付与機能まで持つようになった。だから私は、FMヨコハマのリスナーでもある若い人たちを不幸にしたくないという思いで、今もってサラ金のコマーシャルを認めない。正しい尺度で取捨選択することを怠り、安易に情報を垂れ流し、便利に慣れて暮らしていけば、社会の形骸化、人間力の退化・空疎化はとどまることを知らなくなってしまう。
 常に反対を手当せよ――が、私の考え方の一つだ。東海道を何日もかけて歩いて旅をした江戸時代の人の身体能力は今日の人の比ではない。事件や盗難など犯罪に対する用心にも知恵を絞った。犯罪に対して丸腰同然の現代人とはまるで別次元のレベルにある。知恵と力が備わっての自己責任である。
 すなわち、高度情報化社会を強く正しく賢く生きるには、現代人が「アンチ高度情報化社会人間」になる必要がある。文明の程度を無視すれば次代の難問、不足の事態に対処する能力は間違いなく江戸時代の人間のほうが上である。日頃から不便に慣れ、結果として人間的な資質・能力が磨かれたのだろう。
いずれにせよ、強く正しく賢い人間が高度情報化システムを操ってこそ本当の意味での恩恵が生まれるということだけは確かなようだ。

2006年10月27日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第31回 「山手本通り物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の山手本通り物語」

外国人の居留地だったこともあり、教会やミッションスクールが多い横浜、山手本通りは古い洋館が特徴的だ。緑に囲まれた西洋建築の粋は、貴重な文化財であり、市民や観光客をいざなう憩いの場所にもなっている。
「歴史を生かしたまちづくり」を掲げた横浜市は、関東大震災から昭和初期にかけて建てられた外国人の住居を修復し、移築した。
山手本通りには、七つの洋館が整備され、一般公開されている。品格のある家具や調度がイギリスの伝統を伝える『横浜市イギリス館』、吹き抜けのホールが心を開放してくれる『山手111番館』、元町公園の自然が一望できる広い窓が嬉しい『エリスマン館』、白地に緑の窓枠が映える外観とサンルームが有名な『ブラフ18番館』など、それぞれに特徴を持つ洋館は、時代や国境を越えた趣きと文化の香りに満ちている。こうした洋館では、アマチュアやプロの演奏家によるコンサートが企画されている。異国情緒が漂う緑あふれる山手本通りで、クラシックを楽しむ贅沢は、市民のみならず訪れる人々の心に響いている。

 山手本通りを歩くのは久しぶりだ。文化財としても貴重な洋館が立ち並ぶその通りは、緑の香りがする。今日は、友人に誘われてクラシックコンサートに出かけてきた。
 その友人は、この通りの近くにあるインターナショナル・スクールに勤めている。イギリス人の彼は、コンサート活動に積極的で「通りだけでなく、この地域のために、文化的なことをやりたい」と常々言っていた。さまざまな国で教鞭をとってきた彼の経験と熱意は、人々を動かした。エリスマン邸や学校の講堂で、プロの演奏家と生徒たちによる演奏会を開催。生徒に、芸術を通した地域との交流活動を教えている。
 クラシックコンサートがあるのは、エリスマン邸。現存する戦前の山手外国人住居の中では最大規模を誇る建物だ。まだ時間があったので、邸内の喫茶室に入った。大きな窓の向こうには元町公園。色づき始めた木々の葉と、深い緑のコントラストに目を奪われる。私の姿を見つけて、その友人が近づいてきた。
「今日の演目のバッハは、9歳で母親を、翌年には父親も亡くしました。わずか十歳で孤児となったバッハの少年時代は、決して幸せなものではありませんでした」と彼は、教師の顔になって話し始めた。「でも彼は、運命にめげず、音楽に対する愛情で自分を支えていきました。月の明かりで楽譜を写し、町に流れる教会の音楽で自分の耳を鍛えました」。「この街にいつも音楽があふれているように頑張ります」と彼は言い残して席を立った。
 演奏会を前に、私の心にはもう音楽が鳴り響いていた。それは人を和ませて優しい気持ちにさせる至福の魔法だった。

 今日の「私の山手本通り物語」はいかがでしたか?出演、小林節子脚本、北阪昌人がお送りいたしました。
「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年10月20日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第30回 「横浜美術館めぐり物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、
物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「横浜美術館めぐり物語」

横浜には、特徴的な美術館が二つある。ひとつは1989年開設の横浜美術館。19世紀後半以降の美術作品を中心に、ダリ、ミロ、ピカソ、セザンヌ等。そして幕末、明治以来の横浜にゆかりの深い作家の作品が幅広く集められている。写真伝来の地として、写真コレクションも充実している。「みる」「つくる」「まなぶ」の連携を基本方針にする美術館らしく、ワークショップや実技指導など、市民の芸術活動の基点になっている。もうひとつは、そごう美術館。1985年9月に開店したそごう横浜店6階のこの美術館は、百貨店としては日本で初めて博物館法に基づく登録を行い、本格的な美術館として開設された。その企画展覧会には定評があり、専門家や海外からも高い評価を受けている。

 秋風に誘われて、美術の香りに触れたくなった。
横浜美術館で気になる展覧会をやっていた。リ・ウファンという韓国の作家の作品展だ。「余白の芸術」と名づけられたポスターに心ひかれた。日本の現代芸術に多大な影響を与えたという今年69歳になる作家に興味を持った。
 みなとみらいも、秋の装いに包まれていた。空は高く青い。
 美術館に入るときの、独特の緊張感が好きだ。大きな期待とかすかな不安。静まりかえった館内にもれるひそやかな声。そこに繰り広げられる初めて見る空間が私をいざなう。
 「余白の芸術」と題された、リ・ウファンの展覧会は、素晴らしかった。これを彫刻とよんでいいのだろうか。そのオブジェは、大きな石とただの板があるばかり。まるで、なにもないことを知らしめるような空間の演出。壁のキャンバスには、わずかな筆の跡があるだけ。シンプルで、何もない空間のすがすがしさが心地よかった。リ・ファンは、「作らない」で「作ること」を課題にしてきたという。真の芸術とは、見ている人に広がりを見せられる作品だけだと彼は考えたのだろう。手を加えるのは、ほんの少しだけ。あとには、ただ余白が広がっている。その余白から人々は何かを感じる。壊しては創る。ものをたくさん溜め込む。その先には何があるのだろう、と作品は問いかける。
 私は、余白を持っているだろうか。余白を楽しむゆとりがあるだろうか。そんな思いを抱きながら、美術館をあとにした。

今日の「私の横浜美術館めぐり物語」いかがでしたか?出演、小林節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。
「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

2006年10月13日 (金)

横浜・明日への提言(14) 東京ジャック

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横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)
 
 前回は東京への人材集中構造が質的に崩壊しつつあることに触れた。東京は首都機能を持つだけに経済的には依然として中央としての活力をまだ保っている。というよりも、構造改革で地方が疲弊した分、東京の突出ぶりが際立ってきた。しかし、政治・文化・人情などの精神的な面ではアメリカナイズが進み、東京そのものがシングルイシューの思考停止状態に陥っている。経済効果、勝ち組・負け組、再チャレンジといった言葉が意味するように、経済オンリーのシングルイシュー化現象のため江戸の文化も人情も影が薄くなってしまった。幽霊の正体見たり枯れ尾花である。
 このときに横浜は何をすべきか。
 世の中は経済だけで成り立つわけではない。政治もあり、文化もスポーツもあって、歴史が営まれる。だから、浜っ子が日本史本流に身を投ずる気概を持つ――東京ジャックが、今回の横浜への提言である。
 病は気からといわれるように、文化的な発想においても、スポーツにおいても、気概が果たす役割は実に大きい。商店街野球から高校・大学・社会人野球に至るまでアマ野球を結集した神奈川県野球協議会を立ち上げたのも、私の東京ジャックの試みの一つである。東京ジャックを思考の糸口にすれば新しい視点も発想も自在に生まれるはずだ。
 しかしながら、首都機能を持たない横浜が経済面で東京ジャックを試みるのは現実的ではない。だから、経済的なことは当面保留にしておいて、政治・文化・スポーツの分野で東京ジャックに着手しよう。その方策はこれからも提言するが、これまで述べたいくつかの提言も「東京ジャック」の気概から発している。
 ところで、東京が失った精神文化を地方が際立たせるのが東京ジャックである。箱ものだけつくって 中身は東京から借りる従来のやり方では「地方文化」は育たない。「東京ジャック」を合い言葉に地方がその気概で政治・文化・スポーツの振興に取り組むことが「地方の時代」の本当の意味での第一歩だろう。
 横浜が全国に先駆けて東京ジャックの旗振り役になる。これもまた大事な「横浜はじめて物語」の切り口の一つである。

ヨコハマ ストーリー  第29回 「横浜百貨店物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の横浜百貨店物語』。

その昔。と言っても戦後のことだが「買い物に横浜に行く」と言えば、伊勢佐木町へ行くことを意味していた。当時伊勢佐木町にはデパートとして野沢屋、松屋、松喜屋があり、特に野沢屋、松屋へは横浜駅から買い物客用の送迎バスが出ていた。伊勢佐木町は横浜のショッピングの中心であり、最も華やかな情報の交流場所だった。しかし、1959年に横浜駅西口に横浜高島屋がオープン。輸入高級ブランドを揃えたオシャレなデパートとして浜っ子の話題をさらった。続いて1973年、今年の5月に閉店したが、横浜三越が開店。1982年、横浜岡田屋モアーズが装いを新たにスタート。また相鉄ジョイナスも大きなスペースを展開した。
一方、東口には、東口再開発のリーダー役を担って、横浜そごうが1985年にオープン。売り場面積世界最大級、大人の迷子が続出という逸話が残るほどの広さで、美術館や市や県の公共施設なども入り、さながら一つの町といった形容がふさわしい。さらに、横浜ルミネ、ポルタも加わっている。日本を代表する巨大ターミナル・横浜駅東西の周りは百貨店を中心に日本有数のショッピングゾーンとしてこれからも発展し続けることだろう。

 私の父は、今はもう大変な高齢だが、若い頃は結構オシャレで自慢のひとつだった。父は映画館を経営しており、映画も大好きで、特に外国映画とそのヒーロー達から自然にファッションを学んだことも確かだった。
 映画にインスパイアーされたのか、ブラっと馬車道や元町へ出かけて、普段かぶれないような帽子を買ってきて「またそんなの」と母に叱られ、気落ちしている父の姿を見ることがよくあった。そんなアイテムの一つに、ちょっとハデな上着があった。父は気に入っているものの、めったに外に着て出ることはなかった。
 ある休みの日、突然父が買い物に行くと言い出した。母と私は、私たちにも何か買ってくれるものと確信して、3人で横浜高島屋に行った。父はあのハデな上着を珍しくはおって颯爽と家を出た。電車の中の父は、他の人よりかなりカッコよく見えた。デパートに着いて、父は紳士服売り場のフロアーに直行した。少し地味なブレザーが欲しかった様子だった。種類は少なかったがあれこれ試着した。これが延々と続き、さすがの店員さんも苛だってきたようだったが、父は真剣そのものだった。しばらくして父は、ニヤっと大きく微笑んで、母と私を呼んだ。
 私は「ようやく決まった」と胸をなでおろしたが、母は「何なの、それ、あなたの上着じゃない」とビックリ叫ぶように言った。しばし唖然とした沈黙があった後、私と母と店員さんは、どっと大声で笑ってしまった。父のバツの悪そうな真っ赤な顔は一生忘れることはできない。今でも、あのときのことを話すと、父は「そんなこと、あったっけ」と、とぼけてしまう。きっと亡き母も天国で大笑いしていると思う。

今日の、『私の横浜百貨店物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本 浮田周男でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年10月 6日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第28回 「横浜文学散歩物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の横浜文学散歩」

横浜と文学の結びつきは強い。山手にある神奈川近代文学館には、明治以降に活躍した、夏目漱石、芥川龍之介、三島由紀夫など神奈川にゆかりのある文豪たちの初版本、直筆原稿、書簡資料などが展示されている。
その文学館のほど近くに、横浜出身の国民的作家の記念館がある。大正から昭和にかけて活躍し、『鞍馬天狗』で人気作家になった大佛次郎。
彼は、横浜を愛し、たびたび山手を舞台に小説を書いた。『霧笛』、『帰郷』、『夜の真珠』。大佛次郎記念館では、それらの名作の直筆原稿を見ることができる。大佛次郎は、昭和6年から、ホテルニューグランドの318号室を仕事場にした。港が見えるその部屋をこよなく愛した。一日の仕事を終えると、必ず、ホテル一階のバーに足を運んだ。飲むお酒は決まっていた。フランス産のリキュール「アメール・ピコン」。また、彼の猫好きは有名だ。大佛次郎記念館には、彼が所蔵した猫の置物がたくさん展示されている。特に、高さ55センチの猫は、再現された書斎の中で、独特の存在感をかもしだしている。

 ホテルニューグランドのラウンジでカプチーノを飲んでいた。低くクラシックが流れている。窓の向こうに猫が一匹、歩いていた。その悠然とした歩みを見ていたら、顔に笑みが広がった。 電話を終えた友人が戻ってきた。彼女とは久しぶりに会った。彼女は今日中に、福岡に帰らなくてはならない。
 「ねえ、少し時間ができたので、散歩したいのだけれど、どこか素敵な場所、知ってる?」と彼女が聞くので、秋だから、文学の香りに包まれてみましょうと、私は答えた。
 私たちは、秋風を感じながら、山手を目指した。港の見える丘公園の噴水。円形花壇には、コスモスが揺れていた。
 「あの建物は何?」と友人が聞いた。赤レンガの瀟洒なつくり。大佛次郎記念館よ、と私がいうと「行ってみたい」と彼女は、私より早く建物に入った。
 友人は、大作家の直筆原稿よりも、猫の置物に目を輝かせた。彼女の猫好きは知っていた。先ごろ、ご主人に先立たれた彼女は、今、猫と暮らしている。
 「猫は、もの心のつく頃から僕の傍にいた。これから先もそうだろう。僕が死ぬ時も、この可憐な動物は僕の傍にいるに違いない」大佛次郎は『黙っている猫』という作品で、そう書いている。
 彼の妻も大の猫好きだったから、どんどん増えていく。これ以上増えてはいけないと、彼は妻に「15匹を超えたら、猫にこの家を譲って、出て行くよ」と脅かした。あるとき、なんだかいつもより猫の数が多いので、彼は数えてみた。すると、16匹いた。妻につめよった。
 「おい、一匹、多いから、俺は家を出るぞ」。妻は、落ち着き払って、こう答えた。
 「それは、お客様です。ご飯を食べたらお帰りになります」
 そんなエピソードに友人と二人、笑った。
 書斎に置かれた陶器の猫は、その大きさと凛としたたたずまいで、私たちの目をひいた。突然、「私も、がんばらなくちゃね」と友人がいった。古い書物の匂いをかぎながら、私は小さくうなずいた。

今日の「私の横浜文学散歩」はいかがでしたか?出演、小林節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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