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2006年9月

2006年9月29日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第27回 「私の横浜ジャズ・プロムナード物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の横浜ジャズ・プロムナード物語」
(今年の『横浜ジャズ・プロムナード』は10月7日~8日です)

 秋の横浜の風物詩ともなった横浜ジャズプロムナード。日本最大級といわれるこのジャズフェスティバルは、参加することに意義ありとオリンピックモードで様々なジャンルのアーティストが集まってくるのが特徴だ。
 「一にミュージシャン、二にお客さんがモットーの、世界で唯一、シャリコマ
でないフェスティバルです」電話越しのプロデューサーの心地よい声。格好の良いフレーズ。職業柄、人の声には敏感だ。総じて声の良い男の人をあまり信用しないという癖がある。
 「フェスティバルも人生と同じで,一つ一つ積み重ねて、ジグソーパズルのようなものですね」
 「ジグソーパズル?」たたみ掛けるような科白に、妙に好奇心がくすぐられてお会いできる日が楽しみとなった。
 野毛で会ったジャズプロムナードのプロデューサー柴田さんは、シャークスキンの裾の長いスーツにスラックスはトップ、まさに横浜している。
 「ジグソーパズルは気障でしたか」とハスキーな声で話し始めた。柴田さんは横浜で有名な鉄鋼所の3代目だった。工場の5階をホールにして高木東六,ジョージ大塚、綾戸千絵等クラシック、ジャズの大御所を招いて無料コンサートを開く、自らもスティックを握りドラムを叩く、そのライフスタイルはマスコミがこぞってとりあげるほどだった。
 柴田さんは幼いとき大病をしている。病室で父親から何か欲しいものはと言われ、外国映画でみたジグソーパズルをねだると、しばらくして枕元に木の箱が届いた。当時ジグソーパズルは日本にはなく、輸入物で高価な時代。まさかと思い開けてみるとモナリザがいたのには驚いたが、同時に助からないのかと幼心に死を感じたという。
 翌年、年の離れた弟が生まれる。「俺の代わりの3代目」。小学二年生の心は痛んだ。
 合計2年にも及ぶ闘病生活。病室のベッドの脇でモナリザが微笑んでくれた。
「学校に戻ったのですが周りが幼く見えましてね」同級生が二歳年下なのだからそれはうなずける。ジャズ,クラッシックを手始めに、歌舞伎に落語、中学時代には哲学,宗教に懲り、学生時代には,ラジオに出たり、雑誌に書いたり、その筆鋒鋭いジャズ論は一部のファンの間で話題にもなった。
 いつの間にかモナリザはバラバラになっていたが気にもとめなかった。
卒業後、鉄鋼所の三代目としても順調だったが、平成十年、鉄鋼所が倒産した。さすがに激しく落ち込み、自分さえいなければと死をも考えた。
 野毛の大道芸芝居の仲間、作家の山崎洋子さんからの「野毛に出ていらしゃいよ」という一本の電話に救われた。芝居やジャズプロムナードの仲間たちが待っていた。うれしかった。
 ある日、気がつけば柴田さんは、ひとりモナリザのジグソーに向かっていた。ワンピース,ワンピース組み込むごとに、小学生時代の闘病生活を思い出す。次第にモナリザが「いつでもやりなおしはきくのよ」と微笑みかけてきた。

今日の「私の横浜ジャズプロムナード物語」いかがでしたか?出演、小林節子
脚本、大多田純でお送り致しました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・。

横浜・明日への提言(13)登竜門と檜舞台

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横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。) 


 選挙の声を聞くたびに思うことは、どういうわけか横浜にはこれはという人物がいないということだ。こうした傾向は政治家に限らない。文化・芸術・科学に視野を広げれば一層お寒い現状である。こうしたシチュエーションは横浜だけというよりかは「全般に地方は」と置き換えていうべきだろう。
 卓越した才能はみな若いうちから東京へ流出してしまう。
 すなわち、人材の東京集中――要因はそこにある。いないのではなく、いなくなってしまう。これこそ由々しき問題だ。
 では、どうすれば、人材の流出を防ぐことができるのか。
 というよりも、なぜ、東京に人材が集中するのかということだ。東京は京都などに比べれば歴史的に新しく、文化財の蓄積でもはるかに及ばない。だから、歴史・伝統の問題ではない。
 科学文明は最近百年の間に人類の歴史数億年をしのぐ長足の進歩をとげて、あとは再び遅々とした歩みに戻るという。この百年の歴史にかぎれば東京がすべてにおいて檜舞台であった。歴史の長さではるかに勝る京都がぽっと出の東京に及ばない原因がそこにある。ましてや、歴史も伝統もはるかに新しい横浜においておやである。
 檜舞台で活躍するには、当然、登竜門がある。経済的に裏打ちされた各分野の各種新人賞、育成機能の確かさ、これこそ卓越した若き才能が東京をめざす最大の原因であった。次から次へと新しい人材を掘り起こし、檜舞台に登壇させ、スポットライトを当ててきた。
 さらに檜舞台で活躍する俊秀中の俊秀には最高の栄誉とされる各種の賞が用意されている。東京に集まった人材が東京に留まるゆえんであろう。東京の底力の根源はそこにあった。
 しかし、バブル崩壊で経済的な裏づけが怪しくなってから、東京は登竜門、檜舞台とも制度疲労を起こし、名のみの華やかさに陥った。形骸化が進んだのである。
 東京の文化的ピンチは横浜のチャンスだ。
 タイミング的にも横浜は開港150年という歴史的節目を迎える。それにふさわしい登竜門を設け、真の人材が横浜に志を抱くような仕掛けを考えることのほうが、お決まりの地方分権論議などよりはるかに現実的でインパクトがある。

2006年9月22日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第26回 「横浜はじめて物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「横浜はじめて物語」


幕末から明治時代初期にかけて押し寄せた文明開化の波。その波をいちばん最初に受け入れた横浜には、「日本で初めて」がたくさんある。
たとえばアイスクリーム。1869年5月9日に、馬車道で売られたのが、第一号で、当時は「あいすくりん」と言ったそうだ。
我が国初の西洋理髪店も1869年に開業。欧米風「ザンギリ頭」は、文明開化の一翼を担うこととなった。山下公園にある「西洋理髪発祥の地」の記念碑には「ZANGIRI」と書いてある。
新聞の発祥も、横浜だ。1864年6月28日ジョセフ・ヒコが横浜で手書きの新聞を創刊、翌年5月には、「海外新聞」と名前を変えて定期的に刊行するようになった。日本で初めての日刊紙も、横浜で発行された。1870年、横浜出版社から創刊された「横浜毎日新聞」は、以来16年間、日々の出来事を伝え続けた。中華街近くの歩道に、ひっそりと「日刊新聞発祥の地」の記念碑がある。

 先日友人に誘われて、ウォーキングに参加した。
テーマは「横浜はじめて物語」。文明開化の先駆けだった横浜には「日本で初めて」がたくさんある。パンに牛乳、ビールにマッチ。新聞、アイスクリーム。
ウォーキングの幹事から「次は山手公園に行きます。山手公園には3つの『初めて』があります。日本最初の洋式公園であり、日本のテニスの発祥地であること、そして最後は、日本でヒマラヤスギが最初に植えられた場所だということです」と説明があった。山手本通りをゆっくり歩く。秋の風は、どこかせつなさを運んでくる。古い洋館を眺めていたらふと思い出した。この山手公園に通じる道は、私の「初めて」につながっていた。
 女学校を卒業して、しばらくしてからのことだった。私は、男性とこの道を歩いていた。男の人と二人きりで会うのは初めてだった。彼は山下公園でも、港の見える丘公園でもなく、なぜか山手公園に行きたいと言った。
テニス部の彼にとって、山手公園は特別の場所だったのだろう。横浜は、私のほうが詳しかったが、必死に道をたどる彼のひたむきさが嬉しくてついていくことにした。
外人墓地からフェリス女学院を右手に見て、少し先にカトリック山手教会が姿を現す。その信号の左の脇道を下れば、山手公園だ。でも、彼は道に迷ってしまった。さっきまでの余裕が消えた彼は気の毒なくらいあわててしまった。風にせつない香りが交じっていたような気がする。
 「あれ、おっかしいなあ」と彼が言った。その言い方がおかしくて、私は笑ってしまった。彼も笑った。そのときの二人の間に流れた空気が懐かしい。
ウォーキングの一行は、迷うことなく山手公園を目指した。立ち止まった私に、友人が、「どうしたの?」とまぶしそうな目をして聞いた。「ううん、なんでもない」と私は歩き始めた。

今日の「横浜はじめて物語」いかがでしたか?出演、小林節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年9月15日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第25回 「私の称名寺物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。
そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の称名寺物語』

中世は湊町、江戸時代は観光地だった金沢八景は、中国の僧、心越が景観の素晴らしさから、その名を付けたと言われている。
八景の一つ、鐘の音の美しさから、称名晩鐘として知られている称名寺は、鎌倉時代、金沢北条氏の菩提寺として、北条実時が母の供養のため建立した寺院である。
1333年、鎌倉幕府が滅びると、称名寺は実時が建てた中国の書籍や古文書・絵画を納めた文庫、金沢文庫を受け継ぐことになった。以来、時代の風雪を乗りきり、1930年金沢文庫は神奈川県の重要な中世歴史博物館として再興された。そして1990年現在の場所に移り、運営されている。

 私の知人の近藤さんから「おかげさまで娘が10月に入籍することになりました。式は来年5月です。」という知らせがあった。近藤さんは化粧品関係の仕事をしており15年程前、横浜でイベントの司会をした時に知り合い住まいが近くという縁で親しくなった。
 10年前になると思うが、「娘が将来、小林さんのような仕事をしたい、と言っているのです。どうしたらいいのでしょうか。」という相談を受けた。そのことで3人で会ったのが称名寺の庭園だった。
 蝉が、けたたましく鳴いていた真夏の称名寺の庭園は、緑に囲まれているとはいえ大変な暑さで、いたたまれずトンネルをくぐり、金沢文庫に逃げ込んで涼をとった事が頭をよぎった。どんなアドバイスをしたのか、すっかり忘れてしまった位、暑い夏の日だった。
 「娘さんも私にお礼が言いたい」「私もお祝いを」ということで、三人でふたたび称名寺で会った。初秋の夕方とはいえ、台風の去った後で、猛烈な残暑の日だった。
 私たちは以前と同じように金沢文庫に入った。ちょうど開館75周年記念の催し物企画展が開催されていて、昔の金沢八景の絵地図などを観賞する機会に恵まれた。帰り道、以前も3人で行った鰻屋さん「鰻松」で食事をした。この店のタレは明治時代の製法を今も受け継いでいるのがご自慢である。
話が一段落したところで、「あの時はいいアドバイスが出来なくてごめんなさい」と言うと、娘さんは、「アナウンサーを志したのですが、その道はあきらめ、裏方の仕事でがんばっています。今の方が私に合っていると思います。」と言ってくれたのでホっとした。お祝いに来年の式では「司会をやらせて」と私が言うと、びっくりしたような表情でとても喜んでくれた。
 私たちは「鰻松」を出て、金沢八景駅へ向かった。駅前には猫のいる八百屋さん、八百春が昔のままあった。猫は野菜の間に座って、夕暮れの街をのんびり眺めていた。

今日の、『私の称名寺物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、浮田周男でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年9月14日 (木)

横浜・明日への提言(12)スキンシップ・デモクラシー

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横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)
 
 前回紹介した銃器・薬物水際排除推進協議会は官民が一体となって仲よくやってきた。各省庁の出先機関と港湾関係団体が横一列に並んで一つの目的を達成しようとする姿は、これぞスキンシップ・デモクラシーといえるものだ。保安委員会のほうもスキンシップ・デモクラシーでうまくいっている。前々回提言を試みた「ミナト・ヨコハマ特別市」もこうした横浜独特の人間関係を土台に発想したものだ。
 FMヨコハマ生みの親といってもいい故・秦野章元法務大臣は、「民主主義の中の独裁がデモクラシーの理想だ」といった。自由・平等は民主主義でしか実現しない。秩序を保つには独裁のほうが断然すぐれているが、歯止めが利かなくなる欠点がある。だが、民主主義の中でよい意味での独裁が実現できれば両者が並び立つ。私も同感だ。ただし、私が考えるのはスキンシップ・デモクラシーを土台にした独裁である。横浜港の保安委員会がうまくいっているのはスキンシップ・デモクラシーが浸透しているからだと思う。
 350万都市ではスキンシップ・デモクラシーは物理的に不可能である。したがって、独裁もあり得ない。しからばどうしたらよいか。都市分割も一つの方法論だろう。平成の大合併が進むときだけに、逆の発想がきらりと光る。都市分割が無理だとしても、市長選挙とは別に地元のシンクタンクを集め、あらかじめ「提言集団」をつくるのも一つの選択肢として考えられる。だれが市長になっても困らないという骨組みをつくっておけば、悪い意味での独裁に「待った」をかけられる。選挙のたびに候補者選びで悩まないで済む。こちらのほうが横並びの人間関係になじんできた横浜の肌に合うかもしれない。
 ところで、横浜はシンポジウムが多いところだ。毎日のようにあっちでもこっちでもシンポジウムが開かれる。やれともいわないのに開かれるし、やれとけしかける者もいない。だから、よい提言が行なわれても内輪の賛同だけで終わってしまう。
 問題は提言集団の質、提言の取捨選択である。当然それらに対する質的淘汰の仕組みが必要になる。これができたら「横浜はじめて物語」の一つになる。よそが考えつかないうちにやってこそ「初めて」といえる。遅すぎるといってもよいくらいに、やるときにきているのではないか。

2006年9月 8日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第24回 「私の元町仲通り物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の元町仲通り物語」

横浜港の開港で、外国人居留地から移り住んだ人々が造った「元町」は欧米人のショッピング街だった。
その華やかな店を支えた職人の工場、そして彼らの住居があった場所、それが元町からひとつ山手側に入った「仲通り」。表通りの賑やかさとは、何処か違った静かな空気。この通りには、今も個性的な店やレストランが並んでいる。
昨年末、仲通りを中心に、代官坂、汐汲坂など、約130の商店主らが商店街振興組合『元町クラフトマンシップ・ストリート』を結成した。物づくりの伝統を今に生かし、作り手が売り手になる「製販一体」を目指す。お客と直接相談しながら商品を作るという、作り手と買い手との距離の近さも、仲通りの伝統のひとつかもしれない。

 元町、仲通りに、女学校時代の友人を訪ねた。彼女は、山手の学校を出たあと、しばらく横浜を離れていたが、何年か前に、また戻ってきたのだという。今は、仲通りで、工房を持っている。彫金のアクセサリーや花器は、とても評判がいいらしい。
 みなとみらい線、元町・中華街駅から、ウチキパンを右に折れると仲通りだ。「香炉庵」の先に伸びているが代官坂。「霧笛楼」を左に見ながらしばらく行くと、汐汲坂がある。風に秋の匂いが混じってきたように思う。この季節には、職人の街が良く似合う。
 目指す工房を見つけるより前に、カンカンカンと銀板を叩く音が聞こえた。
彫金の工房を営む友人は、満面の笑みで迎えてくれた。その少女のような笑顔を見ていたら、こちらまで嬉しくなった。
 彼女の作品は、どれも素晴らしかった。力強い直線が作り出す大胆なデザインの花器があったかと思うと、奇跡的な繊細さが紡いだアクセサリーもあった。伝統工芸日本金工展などで多くの賞をもらったという。
 「店にいて、お客さんと話すと、アイデアが生まれてくるのよ。自分の中にあるものなんて、たかがしれてるでしょ。まわりの人から、ヒントをもらって形にするの」と彼女は言った。女学校時代のおとなしい印象はどこかに消えていた。
 「自分でつくったものを、そのまま売る。素敵なことよ」という言葉が、胸に残った。
ここに移り住むまでの彼女の人生は、わからない。でも、無心で銀板を叩く姿を見ていると、彼女の生きてきた全てが、作品に昇華されているように感じた。カンカンカンという音が、秋の空に心地よく響き渡った。

今日の「私の元町仲通り物語」いかがでしたか?出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・


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2006年9月 1日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第23回 「私の横浜スタジアム物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の横浜スタジアム物語」

JR根岸線の関内駅南口のすぐそばに横浜スタジアムはある。その歴史は古く、1896年に、旧制第一高等学校と横浜在住米国人チームによる日本初の国際野球が行われたことから「日本野球発祥の地」といわれている。
その後1929年に関東大震災復興記念事業の一環として硬式野球場「横浜公園球場」として整備され、1934年にはゲーリックやベーブ・ルースらを擁する大リーグ選抜軍との親善試合も行なわれ。しかし、第2次大戦後はアメリカ軍に接収され、名前も「ゲーリック球場」と改称された。1948年には、日本プロ野球初のナイターが実施され、1955年、球場の改修に伴い「横浜公園平和野球場」と再度改称。そして、1978年3月に横浜スタジアムが誕生した。
スタジアムの両翼ポール下の外野フェンスネットには1934年のアメリカ大リーグ来日を記念して,ライト側にルー・ゲーリック、レフト側にベーブ・ルースのメモリアルレリーフが飾られている

 スポーツに関心が薄いからだろうか。テレビでプロ野球中継をみていると、試合よりもバックネット裏のお客さんたちの様子が気にかかる。携帯電話を片手にVサインを送っている人がいる。ほほえましい光景だが、友人の恵子は、いい歳をしていまもその常連。
 ところで、こんな話を耳にした事はないだろうか。T・K氏は横浜スタジアムの前身横浜公園球場をベースに、戦前ノンプロの選手として活躍した。戦争が始まり野球は敵性スポーツだということでチームは解散することになる。最後のキャッチボールを終えての解散式。「戦争が終わったら、平和になったら、互いに元気だったら、この球場のバックネット裏に集まろう」と16人のメンバーはバックネット裏の誓いを立てて別れた。
 戦争が終わり、横浜は、まさにゴーストタウンと化し、わずかに残った建物も進駐軍に接収された。横浜公園球場も同様で、「ゲーリック球場」と名前が変わる。当然、T・K氏らチームメートのバックネット裏の誓いは果たされることはなく、元気な姿で酒を飲み交わしたチームメートはわずかに5名だったという。
T・K氏の晩年、テレビカメラがバックネット裏を映すようになると、「どうもバックネット裏が気になってしょうがない」が口癖だった。
 テーブルの上の携帯電話がなった。恵子からだった。「見ている、今、甲子園」 嗚呼、ミーハーおばさん恵子は今日も懲りずにバックネット裏に陣取る。

きょうの、「私の横浜スタジアム物語」いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、大多田純でお送りしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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