ヨコハマ ストーリー 第23回 「私の横浜スタジアム物語」
魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の横浜スタジアム物語」
JR根岸線の関内駅南口のすぐそばに横浜スタジアムはある。その歴史は古く、1896年に、旧制第一高等学校と横浜在住米国人チームによる日本初の国際野球が行われたことから「日本野球発祥の地」といわれている。
その後1929年に関東大震災復興記念事業の一環として硬式野球場「横浜公園球場」として整備され、1934年にはゲーリックやベーブ・ルースらを擁する大リーグ選抜軍との親善試合も行なわれ。しかし、第2次大戦後はアメリカ軍に接収され、名前も「ゲーリック球場」と改称された。1948年には、日本プロ野球初のナイターが実施され、1955年、球場の改修に伴い「横浜公園平和野球場」と再度改称。そして、1978年3月に横浜スタジアムが誕生した。
スタジアムの両翼ポール下の外野フェンスネットには1934年のアメリカ大リーグ来日を記念して,ライト側にルー・ゲーリック、レフト側にベーブ・ルースのメモリアルレリーフが飾られている
スポーツに関心が薄いからだろうか。テレビでプロ野球中継をみていると、試合よりもバックネット裏のお客さんたちの様子が気にかかる。携帯電話を片手にVサインを送っている人がいる。ほほえましい光景だが、友人の恵子は、いい歳をしていまもその常連。
ところで、こんな話を耳にした事はないだろうか。T・K氏は横浜スタジアムの前身横浜公園球場をベースに、戦前ノンプロの選手として活躍した。戦争が始まり野球は敵性スポーツだということでチームは解散することになる。最後のキャッチボールを終えての解散式。「戦争が終わったら、平和になったら、互いに元気だったら、この球場のバックネット裏に集まろう」と16人のメンバーはバックネット裏の誓いを立てて別れた。
戦争が終わり、横浜は、まさにゴーストタウンと化し、わずかに残った建物も進駐軍に接収された。横浜公園球場も同様で、「ゲーリック球場」と名前が変わる。当然、T・K氏らチームメートのバックネット裏の誓いは果たされることはなく、元気な姿で酒を飲み交わしたチームメートはわずかに5名だったという。
T・K氏の晩年、テレビカメラがバックネット裏を映すようになると、「どうもバックネット裏が気になってしょうがない」が口癖だった。
テーブルの上の携帯電話がなった。恵子からだった。「見ている、今、甲子園」 嗚呼、ミーハーおばさん恵子は今日も懲りずにバックネット裏に陣取る。
きょうの、「私の横浜スタジアム物語」いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、大多田純でお送りしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・