ヨコハマ ストーリー 第27回 「私の横浜ジャズ・プロムナード物語」
魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の横浜ジャズ・プロムナード物語」
(今年の『横浜ジャズ・プロムナード』は10月7日~8日です)
秋の横浜の風物詩ともなった横浜ジャズプロムナード。日本最大級といわれるこのジャズフェスティバルは、参加することに意義ありとオリンピックモードで様々なジャンルのアーティストが集まってくるのが特徴だ。
「一にミュージシャン、二にお客さんがモットーの、世界で唯一、シャリコマ
でないフェスティバルです」電話越しのプロデューサーの心地よい声。格好の良いフレーズ。職業柄、人の声には敏感だ。総じて声の良い男の人をあまり信用しないという癖がある。
「フェスティバルも人生と同じで,一つ一つ積み重ねて、ジグソーパズルのようなものですね」
「ジグソーパズル?」たたみ掛けるような科白に、妙に好奇心がくすぐられてお会いできる日が楽しみとなった。
野毛で会ったジャズプロムナードのプロデューサー柴田さんは、シャークスキンの裾の長いスーツにスラックスはトップ、まさに横浜している。
「ジグソーパズルは気障でしたか」とハスキーな声で話し始めた。柴田さんは横浜で有名な鉄鋼所の3代目だった。工場の5階をホールにして高木東六,ジョージ大塚、綾戸千絵等クラシック、ジャズの大御所を招いて無料コンサートを開く、自らもスティックを握りドラムを叩く、そのライフスタイルはマスコミがこぞってとりあげるほどだった。
柴田さんは幼いとき大病をしている。病室で父親から何か欲しいものはと言われ、外国映画でみたジグソーパズルをねだると、しばらくして枕元に木の箱が届いた。当時ジグソーパズルは日本にはなく、輸入物で高価な時代。まさかと思い開けてみるとモナリザがいたのには驚いたが、同時に助からないのかと幼心に死を感じたという。
翌年、年の離れた弟が生まれる。「俺の代わりの3代目」。小学二年生の心は痛んだ。
合計2年にも及ぶ闘病生活。病室のベッドの脇でモナリザが微笑んでくれた。
「学校に戻ったのですが周りが幼く見えましてね」同級生が二歳年下なのだからそれはうなずける。ジャズ,クラッシックを手始めに、歌舞伎に落語、中学時代には哲学,宗教に懲り、学生時代には,ラジオに出たり、雑誌に書いたり、その筆鋒鋭いジャズ論は一部のファンの間で話題にもなった。
いつの間にかモナリザはバラバラになっていたが気にもとめなかった。
卒業後、鉄鋼所の三代目としても順調だったが、平成十年、鉄鋼所が倒産した。さすがに激しく落ち込み、自分さえいなければと死をも考えた。
野毛の大道芸芝居の仲間、作家の山崎洋子さんからの「野毛に出ていらしゃいよ」という一本の電話に救われた。芝居やジャズプロムナードの仲間たちが待っていた。うれしかった。
ある日、気がつけば柴田さんは、ひとりモナリザのジグソーに向かっていた。ワンピース,ワンピース組み込むごとに、小学生時代の闘病生活を思い出す。次第にモナリザが「いつでもやりなおしはきくのよ」と微笑みかけてきた。
今日の「私の横浜ジャズプロムナード物語」いかがでしたか?出演、小林節子
脚本、大多田純でお送り致しました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・。