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ヨコハマ ストーリー Feed

2007年3月23日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第52回 「私の横浜桜物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の横浜桜物語」

桜前線の本州上陸は、なぜか横浜から始まることが多い。西洋文化が最初に花開いた場所だからだろうか。横浜の桜は、春の到来を真っ先に告げてくれる。
そして、桜の名所は数多い。鶴見区の県立三ツ池公園は、三つの池の周りを約千本、35種類の桜が華やかに飾り、「日本の桜の名所100選」に選ばれている。広大な敷地からなる三渓園の桜も有名だ。園内の茶店では、桜の葉を細かくきざんでつくったサクラ・アイスが堪能できる。本牧通りから三渓園正門まで約500メートル続く本牧桜道の並木も、ぜひ歩いてみたいスポットだ。
元町公園では、ひっそりとした雰囲気の園内に約百本の桜が咲いている。もとは外国人向けに造られたモダンな洋館に、寄り添うようにたたずむ桜の木。それは、港町横浜ならではの風景だ。ここには、横浜気象台が、開花した日を決める桜があることで知られている。
そのほか、港の見える丘公園の妖艶な夜桜。野毛山公園のソメイヨシノ。大岡川沿いの川面に映る桜。港南区の桜道などなど。開花が早いとされている今年の桜。どこに出かけようかと考えたときから、春はそこにいる。

 また、春がやってきた。桜が持つ華やかさと哀しさは、何処からくるのだろうか。咲く姿。散る姿。そのどちらもが美しいものを、桜以外に、私は知らない。
 今年は、にぎやかな桜ではなく、ひっそりと咲く桜を見たいと思った。有名な桜の名所が点在する横浜市中区本牧。その中でも、比較的静かに桜が鑑賞できる「本牧臨海公園」にいくことにした。ここには、キリスト、釈迦、ソクラテス、聖徳太子などといった古今東西の8人の聖人の像が配された「八聖殿」がある。その周りに桜があった。桜祭りも、夜桜のライトアップもない。でも、ここにも桜の香りは満ちていた。
 本牧臨海公園で桜を見る前に、キリストの像を見た。そして「羊飼いへのお告げ」という絵を思い出した。キリストの誕生を、天使は誰よりも先に、羊飼いに告げた。ちょうどそのころ、3人の偉い博士たちが、キリストがいつ生まれるかを予知して、神の子を訪ねようとしていた。天使は、そんな身分の高い博士ではなく、真っ先に羊飼いに伝えた。羊飼いは、そのころ社会的に貧しく身分も低かった。その彼らに、神は最も重要なことを先に知らせたのだ。
 私は、このエピソードが好きだ。いちばん嬉しい知らせは、いちばん大切なひとに知らせるということ。神にとって大切な人は誰だったかがわかる。
 臨海公園の桜は、まだ五分咲きにも満たなかった。でも、いちばん日当たりのいい場所に、しっかりと咲いた木を見つけた。その優しい桃色は、私の心に、春を灯した。この喜びを誰に告げようか。そう思ったとき、何人かの顔が浮かんだ。そのことが、また、うれしかった。
 今年もまた、春がやってきた。そのあたりまえのことが、あたりまえではなく思えて、心に華が咲いた。

今日の「私の横浜桜物語」はいかがでしたか?出演、小林節子 脚本、北阪昌人でお送りしました。
桜咲く去年の春から紡いできたストーリーも、今回が最終回になりました。また、いつの日か、新しい物語に出逢えますように。

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2007年3月16日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第51回 「私の横浜開港資料館物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の横浜開港資料館」

「横浜開港資料館」は大桟橋の付け根にある。日本の近代はここから始まった。
1854年日米和親条約締結。現在も資料館の中庭にある「玉楠の木」が、ペリーの上陸から、条約の締結を見守った。横浜港の開港はその5年後のこと。
なぜ、横浜だったのだろうか。アメリカは当時の首都であった江戸で条約を結ぶ事を望んだ。江戸に外国の軍艦が入港という事態に幕府は慌て、交渉の結果横浜村という妥協点をみつける。現在の横浜から想像もできないが、19世紀の前半横浜村は半農半漁のわずか87軒という小さな村に過ぎなかった。日米和親条約の横浜応接所と開港後の横浜居留地として脚光を浴びた横浜村。やがて大都市横浜へと発展する。

 小学3年生の姪の知美にねだられて「横浜開港資料館」に行ってきた。好奇心の人一倍強い知美は、幼い頃から素朴な疑問を私たち大人に投げかけてくる。「どうして空は青いの、海もなんで青いの」には、連れ合いがおもわず「子供電話相談室にきいてみようか」などと言いだしたこともある。今回の「横浜開港資料館」見学も、きっかけは、なぜ横浜が開港の場所になったのかだった。
 資料館で充分に時間をかけて百数十年前の横浜の古き時代を存分にトリップした知美は満足した様子。帰り道、「中華街に寄っておそばでもたべようか」と誘うと、姪のいつもの調子がでてきた。
 「叔母ちゃん、でも変だよね、日本は鎖国をしていたのでしょう。アメリカ人と開港の話しはどうしたの、英語はできたの」食い気よりも好奇心。考えてみればその昔、私自身も7歳か8歳の頃の父に同じような疑問を投げかけたことがあった。
 父の答えは意外なものだった。鎖国中とはいえ、江戸初期には南蛮学が、中期には蘭学、幕末には英学、仏学、独学という洋学が存在していたという話しではない。父は幼い私に向かって「しっかりとした日本語だ」といった。
 アメリカに対して主張すべき内容が整理されていれば、表現する手段、洋学、英語の出来、不出来は問題でない。「キチットした日本語がポイントだったのだ、節子も国語、日本語はしっかり勉強しろよ」といわれた。
 最近、数学者藤原正彦さんのベストセラー「国家の品格」を読んだ。藤原さんは真の国際人に外国語は関係ないという。明治の初め、多くの日本人が海外に留学したが、彼らの多くは西欧のエチケットを知らない、世界史、世界地理も知らない、福沢諭吉や新渡戸稲造、内村鑑三などは例外だが、多くの留学生は肝心の英語さえままならなかった。しかし尊敬、賞賛されて帰ってきた。
 その理由は、日本の古典をきちんと読んでいたこと、漢籍、漢文をよく読み、そして武士道精神をしっかりと身につけていた、この3つで尊敬されて帰ってきたというのである。
 何処かで「このニュアンス、聴いたような・・・」感じ。・・・と突然「叔母ちゃんさっきの答えは」とラーメンと汗だくになって格闘している知美が攻めてきた。私は一瞬たじろぐ。そして、「しっかりとした日本語だったのよ、知美も国語勉強しなさいよ」  「エッ、日本語!?」姪の知美は唖然としてなにも返してこなかった。

今日の「私の横浜開港資料館物語」いかがでしたか?出演、小林節子 脚本、二羽信宏でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに。


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2007年3月 9日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第50回 「私のみなとみらい21物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、「私のみなとみらい21物語」。

港町・横浜の新しい顔として発展めざましい「みなとみらい21」。かつて造船所などがあったこの地域の再開発が計画されたのは1965年のこと。造船所の跡地と埋め立てた土地を併せて開発し、関内・伊勢佐木町と横浜駅周辺を一体化することで横浜を再生することを目的とした事業だ。
1981年に一般公募で「みなとみらい21」と名称が決定し、83年に事業は着工された。横浜ベイブリッジが開通した89年には横浜市制100周年、開港130周年を記念した「横浜博覧会」が開催された。以後、開発が本格化し1991年にパシフィコ横浜、93年に横浜ランドマークタワー、97年にはクイーンズスクエア横浜などが開業し横浜のシンボルとなっている。2004年にはみなとみらい線も開通し都心からのアクセスが充実。21世紀にふさわしい未来型都市を目指して現在も開発が進められている。

 九州に暮らす大学時代の友人と久しぶりに会うことになった。待ち合わせ場所は彼女が宿泊しているヨコハマ・グランド・インターコンチネンタル・ホテル。ラウンジに入るとすでに彼女とご主人は座っており、手を振って合図を送ってきた。
 「随分久しぶりね。何年ぶりかしら?」
 「そうね、卓也が大学に入学して以来だから、丸4年ぶりだわ。」
彼女は大学卒業後、地元・九州に戻り就職。結婚後、3人の子宝に恵まれた。卓也君は一番下の子で、彼の大学の卒業式に出席するため旅行を兼ねて横浜を訪れたのだ。
 「私、ずっとここに泊まってみたかったの。テレビや雑誌で横浜が紹介されると、必ずヨット型のこのホテルが映るでしょ?卒業式の会場とも近いからと言って主人を何とか口説いたの。」友人がそう話すと、隣のご主人は苦笑いを浮かべた。
卓也君の卒業式は、すぐ近くのパシフィコ横浜国立大ホールで明日行われるという。ここ数年、神奈川にある多くの大学が入学式や卒業式の会場として使用しているようだ。しばらく話したあと、私は彼女を連れみなとみらい21を案内することにした。
 私は、4年ぶりという彼女に、まず横浜赤レンガ倉庫やGENTO横浜などこの4年の間にオープンした施設を案内した。GENTO横浜の「横浜はじめて物語」で開港当時のレトロな雰囲気を楽しんでから、ジャックモールそして横浜美術館の前を通り、横浜ランドマークタワーへ。館内に入ると、袴姿の若い女性のグループを見かけた。彼女たちは今日卒業式を迎えたようだった。
 「明日は卓也君の番ね」と話しかけると「ええ。でも、明日の卒業式は私たち夫婦の卒業式でもあるの。末っ子のあの子が卒業して社会に出ると、親の役目は終了でしょ?これで私たちも子供から卒業なのかなぁって・・・。いろいろ大変だったけど、ちょっぴり寂しいわ」友人は微笑みながらそう言った。
 「そっか・・・。卒業おめでとう」
 「ありがとう。これからは夫婦の時間を大切にしていきたいわ。実は今度夫婦で温泉旅行に行くの。子供たちからのプレゼントよ。それが私たちの卒業証書じゃないかしら?」彼女は卒業式を迎えた袴姿の女子大生のように清清しく微笑んだ。
 
今日の「私のみなとみらい21物語」いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、二羽信宏でおおくりいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また、来週をお楽しみに。


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2007年3月 2日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第49回 「私の横浜ビール物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の横浜ビール物語」

横浜開港6年目の1864年のこと。ウィリアム・コープランドというアメリカ人が、横浜にやってきた。彼の夢はビール醸造所をつくることだった。ノルウエーに生まれて5年がかりでビールの醸造を学び、さらにアメリカに渡ってビールを研究した彼は、アメリカに帰化したのち日本にやってきた。横浜に住んで6年。1870年に、ついに念願の日本で初めてのビール醸造所スプリングバレー・ブルワリーを、天沼の豊富な湧き水を利用できる横浜山手の居留地区123番(現在の中区千代崎1丁目25番)に建設した。
日本人はこの工場でできたビールを『天沼ビアザケ』と呼んだ。その醸造所は1884年に閉鎖されたが、翌年にはジャパンブルワリーとして再建された。そして1888年にキリンビールというブランドが生まれる。のちに麒麟麦酒株式会社がこれを引継ぎ、関東大震災までの半世紀にわたりビール産業の歴史を刻み続けた。工場のあった「キリン園」跡地には、麒麟麦酒開源記念碑が立っている。

 キリンビール横浜工場ビアビレッジで、「ビール五千年の旅」探求プロジェクトがあると聞き取材に出かけた。
 ビールの起源は思ったより古い。古代メソポタミアではシュメール人が麦からビールをつくりはじめたという。その様子はモニュマンブルーの粘土板に残されている。まず麦芽を作り、砕いて水とこねる。軽く焼いてパンをつくり、それをほぐして温水を加える。おかゆのようにすると麦芽アミラーゼの働きで糖分が増え、酵母が増殖して発酵しビールになる。その上澄み液を細い管で飲んだのが最初とされている。
 こうしたビールづくりはシュメールからバビロニア、エジプトに伝わった。当時のビールは、医薬品としても使われていたらしい。もっと驚いたことに、あの巨大ピラミッドを建設した何万という人々に、パンとビールが支給されていたというのだ。
映画や小説に登場する古代エジプトのイメージは、国王が国民を従え、むちをうって、自分の大きな墓を作らせていたというものだった。
 しかし、ピラミッドを作った人々が住んでいた町の跡を調べると意外な姿が見えてきたという。実は人々は喜んで働いていたのだ。普通の農民や職人がまるで会社にいくように、規則正しく通っていた名残がみつかった。食事や休暇もキチンととり、医者にも恵まれ、出勤簿までつけていたという。
 とはいっても、王族と一般庶民との食べ物は違った。王様がフルコースなら、庶民は、にんにくと大根がメインだった。しかし王様と庶民が、共通して楽しんだものがビールだった。
 全てのエジプト人が、1日の始まりと1日の終わりにビールを飲む。そんな姿を想像していたら「1888年のビールを再現したものがあります!」と係りのひとが持ってきてくれた。口を近づけると麦芽の香り。まるで自分がピラミッドの前に立っているかのように、ゆっくり喉を潤した。

今日の「私の横浜ビール物語」いかがでしたか?出演、小林節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2007年2月23日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第48回 「私の神奈川スケートリンク物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。
そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。
そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」 今日は、「私の神奈川スケートリンク物語」。

東急東横線・反町駅。JR東神奈川駅。京浜急行・仲木戸駅、神奈川駅。それぞれの駅から徒歩5分ほどの場所にある神奈川スケートリンク。オープンしたのは昭和26年、今年で55周年を迎える。屋内スケートリンクとしては日本で最も古い。54m×27mのメインリンクと、27m×6mの初心者用サブリンクの2つがあり、滑走料金は幼児・小学生が800円から大人の1200円まで4段階で、スケート靴は400円で借りられる。入場後は料金は加算されず、閉館時間まですべることが出来るのも人気の一つだ。
閉館時間後は、アイスホッケー、フィギュアスケート、カーリングなど部活動や各団体の練習場としても使われ、ここから神奈川県を代表する数多くの選手が生まれている。

 反町に暮らす幼なじみのお宅を訪ねた。子どもの頃の懐かしい話題で盛り上がっていると、お嫁さんが「お母さんたちにもそんな頃があったんですね」と熱いお茶を注いでくれながら語りかけてきた。
 「あの頃、私たちはオテンバでね、男の子とケンカしても負けなかったんだから。そういえば、我が家のオテンバ娘はまだ帰ってこないの?」と友人。
「ケイ子なら神奈川スケートリンクに行ってますよ。あの子、ミキティやマオちゃんにすっかり夢中になっちゃって」
 ケイ子ちゃんは友人のお孫さんで、小学3年生。家からほど近い神奈川スケートリンクのフィギュアスケート教室にこの冬から通い始めたという。
 「ねえ、ケイ子のフィギュアスケート姿、見に行ってみない?」
 友人の誘いに、ケイ子ちゃんに久しぶりに逢いたかった私は二つ返事で応えた。
神奈川スケートリンクは、何年ぶりだろうか。若いカップルに混じって、割とお年を召した方々も楽しそうに滑っている光景に少し驚いた。
 フィギュアスケート教室はサブリンクで開かれていた。私たちは、彼女に見つからないように様子を見守ることにした。子どもたちが一人ひとりコーチの前をすべってポーズを決めている。ケイ子ちゃんに順番が回ってきた。彼女は両手を広げ颯爽と滑るが、ターンに失敗して尻餅。すぐに立ち上がってもう一度挑戦。今度はきれいにターンを決めた。コーチに頭を撫でて誉められケイ子ちゃんも嬉しそうに微笑んだ。
 練習が終了して、彼女は私たちに気がついた。私は「ケイ子ちゃん上手ね、誰のようになりたいの?」と訊くと、「私、浅田真央ちゃんみたいに滑りたいの。オリンピックにも出るの。」と目をキラキラさせて答えてくれた。今はスケートが楽しくて仕方がないようで「じゃあ、おばあちゃんたち、また後でね。」と言うと友達が滑っている場所へ戻っていった。
 私たちはしばらく彼女が楽しそうに滑る様子を見ていたが、友人がついにこう切り出した。「ねぇ、私たちも久しぶりに滑らない?あの子のキラキラした目を見てたら、何でも出来るって思っていた子どもの頃を思い出しちゃって。」
 私は躊躇したが、結局彼女の勢いに押し切られ、滑るはめになってしまった。
 孫に手を振りながら友人は「私もフィギュア教室に通おうかしら。8年後には孫と一緒にオリンピックに出たいわ」と言う。私たちは一瞬顔を見合わせ、しばらく笑いが止まらなかった。

今日の、『私の神奈川スケートリンク物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、二羽信宏がお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

2007年2月16日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第47回 「私の日本新聞博物館物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の日本新聞博物館物語」


横浜には日本で最初が多い。1870年「横浜毎日新聞」発行、日刊新聞も横浜から。日本新聞博物館はその日刊新聞発祥の地横浜に2000年に開設された。新聞のことなら何でもわかる新聞専門の博物館でニュースパークとも言う。この博物館は横浜の歴史的な建造物である旧横浜商工奨励館を改築、改装した横浜情報文化センターの中にある。新聞の歴史、新聞社の仕組みや情報の大切さなどを学んだり、自分だけの新聞や広告をつくったり、子供からお年寄りまで楽しめる仕掛けがいっぱいで、自然と新聞について詳しくなれる。
新聞ライブラリーには日本新聞協会に加わっている各社の発行する日刊新聞が創刊号から収集、保管されていて調査や研究に使用できるのはもちろんのこと、自分の誕生日や記念日などの新聞をコピーすることができる。

 お蕎麦屋さんで手にした週刊誌を読んでいくうちに何かおかしな感じがした。
タレントのロマンスなのだが、週刊誌の表紙を見ると1年前のものだった。おかしな感じは当たりまえだ。その二人はもう離婚している。
 日本新聞博物館は創刊号からの新聞を読むことができる。少し前のことだが、取材でお邪魔した時に自分の誕生日の新聞を調べてみた。大昔の新聞を読んでいるようだった。物の値段が違う。広告も。レトロなどといえば格好言いが、古いこと,古いこと。「私はそんな古くないぞー」と新聞に向かって怒ってみる。
 同行したディレクターは、「帝銀事件知ってますか、僕は事件の翌日に生まれたんです」といい歳をしてはしゃいでいた。時間が経って、時差をつけて情報と出くわすのは、実は面白い。
 日本新聞博物館を訪ねた数日後、山下公園の陽だまりのベンチに座りウツラウツラしながら新聞を読んでいる。なにかおかしな感じがした。2月なのに「三ツ沢公園の桜満開、フレッシュマン花見の陣取りにおおわらわ。プロ野球、ベイスターズ開幕から6連勝」思わず日付を見ると4月10日。
 あれ、去年の新聞?!、と、もう一度日付を見る。2006年4月10日、どうみても今年のものだった。どうやら私は宝物を手に入れたようだ。それからが忙しかった。誰もが考えるように、ギャンブルの結果、競馬も競輪も結果を、未来の新聞は教えてくれる。連れ合いは、「生きてて良かった」などと大げさにいい、恥ずかしげもなく「新聞は俺のもの」と本性剥き出しで私から奪い取る。連れ合いのカッコ悪さをみる。
 ―――と。「フウーッー」とたんに夢から醒める。
 新聞も時間が経ってある程度結果が解った時点で読みなおすと面白いものだ。間違いの多いことにも気付く。何はともあれ、どう考えても未来の新聞なんてありはしない。何でも教えてくれる日本新聞博物館だって。

 今日の「私の日本新聞博物館物語」いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、大多田純でおおくりいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに。


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2007年2月 9日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第46回 「私の総持寺物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。
そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の總持寺物語」

曹洞宗総本山「總持寺」はJR京浜東北線か京急線の鶴見駅から歩いてすぐのところにある。石原裕次郎の菩提寺としても有名なこの寺は、他にも元総理大臣の芦田均、元横綱の前田山、そして画家の前田青沌など著名人の墓が多い。総持寺の正式名称は、「諸嶽山総持寺」。その開創は、675年もの昔にさかのぼる。もとは石川県能登半島にあり、1万3千余りの寺院を擁する大本山だったが1898年4月13日の夜、本堂の一部より出火。火はまたたくまに全山に広がり、慈雲閣、伝燈院を残し伽藍の多くを焼失した。それから7年後の明治38年5月、本山の貫主となった石川素童禅師は、本山の復興は現代的使命との自覚にもとづいて、寺院を横浜鶴見の丘に移した。
現在の総持寺は、前に東京湾と房総半島を望み、後ろに富士の霊峰をしたがえた景勝の地にある。わが国の海の玄関、横浜に位置するところから、国際的な禅の道場としての役割も担っている。

 曹洞宗の総本山が、横浜のそれも街中にある。それが妙に不思議に思えて、訪ねてみることにした。鶴見駅から歩いて数分。参道はゆるやかな登り道。奥に進むと、霊験を感じさせる本堂や、なぜか真新しい拝殿が見えてくる。手入れの行き届いた境内、特に渡り廊下が磨き上げられているのを見ると、心が浄化されるような気持ちになる。
 一番奥は後醍醐天皇の御霊殿。1322年のこと、総持寺をまかせられていた宝山禅師のもとに、後醍醐天皇の使者、臨済宗の和尚がやってくる。和尚は後醍醐天皇から託された十種の質問を禅師にゆだねた。その返答が帝の心に深く響き、同年8月28日に、総持寺は曹洞宗、曹洞出世の道場として認められ、紫の法服を着用することが許されたという。そういえば、この禅師には、面白いエピソードがあった。夢の話だ。
 日本海に突き出た能登半島の一角に諸嶽観音堂という霊験あらたかな観音を祀った御堂があった。その住職である律師が1321年の4月18日の夜、夢を見た。枕元に観音様が現れて「酒井の永光寺に宝山という徳の高い僧がいる。すぐ呼んで、この寺をその禅師に譲りなさい」と言った。
不思議なことに、その五日後の23日の明け方、やはり能登の永光寺で座禅をしていた宝山禅師本人も、まったく同じようなお告げを聞いた。観音様は、「諸嶽観音堂にいきなさい」と言った。宝山禅師はかねてから、諸嶽観音堂を禅の寺にしたいと考えていたので、寺におもむき住職となった。
 禅師と律師は夢で通じ合った。律師は夢のお告げだけで山を譲り、山をおりた。禅師は夢のお告げだけで山に出向き、一生をささげる覚悟を持った。宝山禅師は、寺の名を仏が満ち満ち保たれている総ての中心という意味をこめて、総て持っている寺と書いて「総持寺」と名づけた。

今日の「私の總持寺物語」はいかがでしたか?出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2007年2月 2日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第45回 「私の六角橋商店街物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の六角橋商店街物語』。

東急東横線・白楽駅前の六角橋商店街。表通りから一つ裏にはアーケードに覆われた仲見世通りがある。人がすれ違うのも大変なこの通りは、まさに昭和の下町風情が今なお残っている。通りは肉屋、魚屋、八百屋といった定番商店から、時計屋、鉄道模型などの専門店、そしてラーメン、オデン、カフェなどの飲食店まで、180店舗近くが軒を連ねる。近くには神奈川大学があり、お年寄りから若者まで通りを行き交う人々の年齢層は幅広い。六角橋商店街は今も残る昭和下町情緒のおかげで、テレビや映画のロケ地に選ばれることも多く、最近思わぬ注目を集めている。

 白楽に住んでいる大学時代の友達、正を久しぶりに訪ねた。落ち合った白楽駅は神奈川大学の学生さんだろうか?若者たちの姿が目に付き、六角橋商店街も活気が感じられる。
 昨年2月、仲見世通りの一角で18店舗を焼く火災が起きた。仲見世通りの狭い路地をいくと、現場はいまだにビニールシートがかけられていた。ビニールシートの前には食料品が並べられ商売をしているのに驚いた。そのたくましい姿にかつての昭和の風情を見たような気がした。
 仲見世通りの中ほどにある[喫茶・はら]にむかう。正と私の白楽でのおきまりのコース。途中アクセサリー店や南国風のカフェなど、新しい店もいくつか見受けられた。新しい店も不思議に通りの雰囲気に溶け込んでいる。
 「喫茶・はら」は座席が12席しかない小さな喫茶店。いつも黒いエプロンのマスターが一人で切り盛りしている。マスターは60代半ばで戦後間もない頃から六角橋に暮らし、20数年前からこの場所で喫茶店を経営しているという。 マスターと昔話に花を咲かせた。しばらくして一人の男性が店に入ってきた。
 「おじさん、お久しぶりです!」とマスターにニコニコしながら話しかける。
彼は元・神奈川大学の学生で、15年ぶりに六角橋を訪れたという。学生時代にこの店に通い、よくマスターの作る焼きそばを食べていたそうだ。15年前と変わらないという店の雰囲気にとっても嬉しそうだ。彼は当時自分の暮らしていた下宿屋が無くなっていたこと、通った銭湯はまだ残っていたことなど、マスターと私たちに語りかける。
 そんなことを話していると、今度は若者が二人入ってきた。そして開口一番「おじさん、卒業決まったよ!」。2人は神奈川大学の4年生でこの店の常連。卒業が決まりマスターに報告しにきたのだ。卒業後は一人は故郷の大阪へ、もう一人は千葉の企業に行くとのこと。
 それを聞いた男性は「じゃあ、今日は先輩がおごってやるから、何でも注文していいぞ」と若者たちに語りかける。
 「ありがとうございます!」
 「その代わり、卒業して横浜に来ることがあったら、必ずこの店に寄るんだぞ」と男性は付け加えた。六角橋商店街。古き良き時代からの商店街に息づく優しがいまも残っている。

今日の、『私の六角橋商店街物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、二羽信宏でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2007年1月26日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第44回 「私の大倉山物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の大倉山物語」 

東急東横線大倉山駅は、かつて地名から太尾駅と呼ばれていた。1932年3月に渋谷・桜木町間の東横線全線開通の際に現在の大倉山駅に変更された。
1928年6月のある日、後に大倉山と呼ばれる太尾村の小高い丘に二人の男が立っていた。一人は東京横浜電鉄常務五島慶太。もう一人は西洋の紙の取り扱いで資産を増やした大倉洋紙店の社長大倉邦彦。大倉は持っていたステッキをぐるっとまわして「だいたい、このくらいの土地がほしい」と言った。そうして五島慶太から買った土地が7,500坪。二人は、ともに明治15年生まれの46歳だった。
その丘からは西南に富士山、東南に横浜港、北には国会議事堂が見えた。日本の象徴と近代西洋文明の窓口そして首都。それらを一望できるその丘は、東西文明の融合を目指した大倉邦彦にとって理想の地だったに違いない。彼は常に教育の大切さを説き、個人の成長の上に会社の発展があり、国家の繁栄があると語った。彼はこの大倉山をひとつの地球と見立て、文化の種を植え続けけた。

 大倉山記念館でのコンサートの司会をすることになった。風は冬の肌触りだったが空気には春の予感がひそめいていた。東横線に並行して続く坂道を登ると大倉山公園の入り口。そこから三十数段の階段をあがると、目の前にギリシャ神殿風の建物が見えた。これが、大倉山記念館だ。この記念館は実業家で東洋大学学長も勤めた大倉邦彦が、古今東西の精神文化研究のために昭和7年に建設した。その造りは重厚でゴージャス。古典主義様式建築の天才と言われた建築家長野宇平治のモニュメントだ。
 記念館の横を通り抜け、大倉山梅林に向かった。梅が見たかった。
 東横線開通直後に乗客誘致のため植えられたたくさんの梅。当時は白梅を中心に14種類1,000本を越えていたが、第二次大戦中に燃料用の薪として伐採されてしまった。そして戦後昭和25年頃から再び梅祭りが復活したという。現在は25種類、約180本の梅が植えられている。
 まだ満開には早かったが、八重野梅や寒紅梅は少し花をつけていた。この梅林で本数が多いのは大きな実をつける「白加賀」。中国伝来で花が緑色がかった「緑がく梅」が春を呼び込むかのようにつぼみをふくらませていた。私は、「思いのまま」という梅が好きだ。白とピンクの花を思いのままに咲かせる。
 大倉山をつくった大倉邦彦は「ひとは信仰心を持たなければならない」と説いた。彼の言う信仰心とは「宇宙全体の中で、使命を持って生まれ、そして生かされている自分を自覚すること」だった。彼は宗教や宗派にとらわれてはいけない、修行の手段は違ってもおおもとは一緒だと語ったという。
 梅を見ながら、そんなことを考えていたら、今日のコンサートの演奏者にばったり会った。
 彼は、まぶしそうに梅を見て「毎年、同じように見えるけれど、ひとつとして去年と同じ花はないんですよね」と言った。柔らかな風が、つぼみをかすかに揺らした。

今日の「私の大倉山物語」はいかがでしたか?出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2007年1月19日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第43回 「私の横浜中華街春節物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。
今日は「私の横浜中華街春節物語」 【2007年の春節は2月18日(日)です】

横浜中華街では春節にむけて「春節燈花」が始まっている。春節とは中国のお正月。旧暦の一月一日に祝う中国では最も盛大な祝日だ。「春節燈花」とは、春節を祝って行う中華街のイルミネーションのこと。歩道整備でゆとりある歩行空間と魅力的な装いに生まれ変わった中華街に、空に浮かぶ雲の形のイルミネーションを施すとともに、中華街全域に電飾と提灯を飾っている。
横浜中華街で春節の行事が始まったのは1986年。中華街発展会は、中華街は食事を楽しむ場所であるとともに、文化を伝える場所でもあると考えた。横浜生まれの中国人が多くなった今、伝統を守っていくことの大切さは計り知れない。また街全体がひとつになってお祭りを開催することの意味は、年々大きくなる。

 毎年、春節の時期には中華街を訪れる。春節の別名は「過年」。中国では『年』は、頭に角が生えた恐ろしい怪物だという伝説がある。大晦日になると、深い海の底からこの『年』という名の怪物が這い上がってきて、村に繰り出し家畜や人を食べてしまう。だから、大晦日には村人たちは家畜を追い老人と子どもを連れて山に逃げた。
 ある年、もうすぐやってくる大晦日に備えて、村人たちが準備をしていると、村に汚い身なりのおじいさんがやってきた。おじいさんは、お腹をすかせていたが村人は、彼にご飯をあげる暇もなかった。でも、ある優しいおばあさんが可哀想に思い、にぎり飯を作って上げてこう言った。「もうすぐ『年』という名の怪物がやってくるから、早く逃げなさい」。おじいさんは、にっこり笑って、逃げるどころか「おばあさんの家に泊めてください。そうしたら、その『年』をやっつけますから」と言った。おばあさんは、そんな簡単にいくわけがないと思が、おじいさんの姿をもう一度よく見ると、どこか気位が高くかくしゃくとしていて、頼もしい感じもしてきた。でも、やはり無理だと思い「バカな真似はおよしなさい」と言ったが、おじいさんはただ微笑んでいるばかりだった。
 誰もいない村におじいさんだけがいた。大晦日の夜は更け深夜になった。そして、『年』という名の怪物がやってきた。怪物は、いつもと違う雰囲気にとまどった。おばあさんの家の門には赤い紙が貼ってあり、家の中は煌々と灯りがともっていた。ビクビクしながら『年』は、おばあさんの家に近づいた。『年』が庭に入るなりバンバンとけたたましい音がした。そこへ、赤いマントをまとったおじいさんが現れて「あははは」と大声で笑った。『年』は、心底驚いてあわてて逃げ出した。
 戻った村人たちは、すっかり無事な村を見て驚いた。おばあさんは、おじいさんを探したが見つからなかった。ただ自分の家の門に赤い紙が貼られ、ろうそくが燃えていた。バンバンと音がするので行ってみると、竹が火に燃えてはぜていた。以来、どこの家でも大晦日になると、縁起のいい文句を書いた赤い紙を貼り、爆竹を鳴らし、夜中まで灯りを灯しておくようになったという。
 春節は、この『年』という名の怪物が無事に過ぎたお祝いなのである。

今日の「私の横浜中華街春節物語」いかがでしたか?出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・


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