ヨコハマ ストーリー 第44回 「私の大倉山物語」
魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の大倉山物語」
東急東横線大倉山駅は、かつて地名から太尾駅と呼ばれていた。1932年3月に渋谷・桜木町間の東横線全線開通の際に現在の大倉山駅に変更された。
1928年6月のある日、後に大倉山と呼ばれる太尾村の小高い丘に二人の男が立っていた。一人は東京横浜電鉄常務五島慶太。もう一人は西洋の紙の取り扱いで資産を増やした大倉洋紙店の社長大倉邦彦。大倉は持っていたステッキをぐるっとまわして「だいたい、このくらいの土地がほしい」と言った。そうして五島慶太から買った土地が7,500坪。二人は、ともに明治15年生まれの46歳だった。
その丘からは西南に富士山、東南に横浜港、北には国会議事堂が見えた。日本の象徴と近代西洋文明の窓口そして首都。それらを一望できるその丘は、東西文明の融合を目指した大倉邦彦にとって理想の地だったに違いない。彼は常に教育の大切さを説き、個人の成長の上に会社の発展があり、国家の繁栄があると語った。彼はこの大倉山をひとつの地球と見立て、文化の種を植え続けけた。
大倉山記念館でのコンサートの司会をすることになった。風は冬の肌触りだったが空気には春の予感がひそめいていた。東横線に並行して続く坂道を登ると大倉山公園の入り口。そこから三十数段の階段をあがると、目の前にギリシャ神殿風の建物が見えた。これが、大倉山記念館だ。この記念館は実業家で東洋大学学長も勤めた大倉邦彦が、古今東西の精神文化研究のために昭和7年に建設した。その造りは重厚でゴージャス。古典主義様式建築の天才と言われた建築家長野宇平治のモニュメントだ。
記念館の横を通り抜け、大倉山梅林に向かった。梅が見たかった。
東横線開通直後に乗客誘致のため植えられたたくさんの梅。当時は白梅を中心に14種類1,000本を越えていたが、第二次大戦中に燃料用の薪として伐採されてしまった。そして戦後昭和25年頃から再び梅祭りが復活したという。現在は25種類、約180本の梅が植えられている。
まだ満開には早かったが、八重野梅や寒紅梅は少し花をつけていた。この梅林で本数が多いのは大きな実をつける「白加賀」。中国伝来で花が緑色がかった「緑がく梅」が春を呼び込むかのようにつぼみをふくらませていた。私は、「思いのまま」という梅が好きだ。白とピンクの花を思いのままに咲かせる。
大倉山をつくった大倉邦彦は「ひとは信仰心を持たなければならない」と説いた。彼の言う信仰心とは「宇宙全体の中で、使命を持って生まれ、そして生かされている自分を自覚すること」だった。彼は宗教や宗派にとらわれてはいけない、修行の手段は違ってもおおもとは一緒だと語ったという。
梅を見ながら、そんなことを考えていたら、今日のコンサートの演奏者にばったり会った。
彼は、まぶしそうに梅を見て「毎年、同じように見えるけれど、ひとつとして去年と同じ花はないんですよね」と言った。柔らかな風が、つぼみをかすかに揺らした。
今日の「私の大倉山物語」はいかがでしたか?出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・