00_weblog_default_js

  • // JavaScript Document

fyb_switch_to_sp_js

2006年7月28日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第18回 「国際劇場会館物語」

181

ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「横浜国際劇場会館物語」


横浜、野毛。今は場外馬券場「wins」になっている場所にかつて横浜ショービジネスの中心として観客を魅了し、数々の伝説を生んだ横浜国際劇場会館があった。
昭和23年。横浜国際劇場会館一周年記念特別興行。小唄勝太郎の前座で登場したのはわずか十歳の少女だった。スポットライトをあびた彼女は、笠置シヅ子の「セコハン娘」などを歌った。およそ2千人の観客は驚き、そして割れんばかりの拍手を送った。美空ひばり、表舞台登場の瞬間であった。このステージをきっかけに、美空ひばりは、横浜国際劇場会館と約半年間の専属契約を結んだ。また映画『悲しき口笛』は、野毛周辺が舞台になり、それにちなみ劇場跡地の道路をはさんだ向かい側に、シルクハットをかぶった美空ひばりのブロンズ像が建っている。この劇場は、階段状の客席に絨毯が敷かれた立派なホールで、観客が戦後の暗い世相を瞬時忘れることができる空間であった。

 「母が倒れた」という知らせを受けたのは、劇場での仕事が無事終った楽屋だった。マネージャーの北里さんが、落ち着いて話してくれた。私が司会をつとめるクラシックコンサートが始まる寸前に知らせが入ったのだが、北里さんは黙って舞台を見守り続けた。その判断に救われたかもしれない。
なぜなら、私は、モーツアルトの「レクイエム」の説明をしなくてはならなかったのだ。もし母のことを知ったら、不吉な想像をして、きっと声をつまらせてしまったことだろう。
 急いでタクシーに乗り、流れていく風景を見ながら母をひたすら案じた。
母は、劇場に足を運ぶのが大好きだった。昭和31年、美空ひばりが8年ぶりに横浜国際劇場会館に出演した姿を観たことが何よりの自慢で、私が生まれてからも芝居、リサイタルと劇場通いはやめなかった。私が、劇場と縁がある仕事をしているのも、少なからず母の影響なのだ。私が司会をつとめる舞台には、必ず足をはこんでくれた。
 病室の母は安定していた。パイプ椅子を広げて座ると母が目を覚ました。
「痛む?」と聞くと、「だいじょうぶ」と小さく言った。そして「コンサートは、うまくいった?」と聞かれ私は大きくうなずいた。母は、幸せそうに微笑んだ。
 「初めて、お芝居に連れていったときのことを思い出すわ。騒ぐことも退屈がることもなく、黙って、じっとお芝居を観ていた。今でもその横顔を覚えている。客席から舞台に立つあなたを見ると、ほんとうに幸せな気持ちになるの。そしてね、あなたを自慢に思ってるのよ」と母が言ったとき、不覚にも涙がこぼれた。

今日の「横浜国際劇場会館物語」いかがでしたか。出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

182


2006年7月21日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第17回 「私の磯子物語」

171

ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の磯子物語』。

(このストーリーの舞台、横浜プリンスホテルは平成18年6月末で閉館となりました。)
JR京浜東北線の南端だった桜木町駅からさらに南に向かって電車が走るようになったのは1964年、根岸線の桜木町・磯子間が開通したときからだ。これにより、根岸や磯子地域は急激に発展した。そして同時期から始まった根岸湾埋め立て工事で、工場が誘致され臨海工業地帯が作られていった。また磯子駅周辺には大型店舗を核とする商業地域と、海を見下ろす高層住宅地域が出現した。こうして、磯子区は1964年にはおよそ8万8千人だった人口が、今では16万2千人と一大ベッドタウンとして発展した。

 先日、新聞に面白い小さな記事を見つけた。横浜プリンスホテルのフラワープロムナードで「アガウェー・ショーウィー」という珍しい花が、まもなく開花しそうだという記事だ。「アガウェー・ショーウィー」は、英語名で「センチュリー・プラント」と呼ばれ、百年に一度花を咲かせ、枯れてしまうと生涯を終える神秘的な植物ということだ。実際には30年から50年に一度開花するそうだが、それでも開花まであまりの長い年月がかかるので「センチュリー・プラント」と名付けられたのだろうか。
私は興味をそそられ友達と出かけた。フラワープロムナードでは長く伸びた「アガウェー・ショーウィー」が黄緑色の花を咲かせていた。そばにいた方に聞いたところ、日本では龍舌蘭と呼ばれているメキシコが原産の花で、樹液からはテキーラなどのアルコールが作られるとのことだ。
 ここ横浜プリンスホテルは、地元の私たちは「磯子プリンスホテル」と言っていた。
ここのプールには懐かしい思い出がある。大学一年の女子の体育の必修科目が水泳だった。単位のためにはテストで25メートル以上泳がねばならない。子供の頃、本牧の海岸線にはバス停ごとに海水浴場があったくらいで、夏休みには家族や近所の友達とよく海に行った。しかし、私は浮き輪で遊んでいただけで、泳ぎは全くダメでカナヅチだった。
 横浜から通っていた同じ学部の同学年に泳げない女の子が一人いた。私たちはすぐ友達になり、水球部の一人の男子学生をバーベキューをごちそうするからと、コーチに頼み夏休みに4回くらい横浜プリンスホテルのプールで特訓した。
おかげで、二人とも何とか25メートルくらいは泳げるようになった。毎回プールから上がって、夕方3人で食べたバーベキューの味と楽しさは、若き日の夏の思い出となっている。この話にはオマケがある。秋になってテストの日、緊張からか焦りからか、電車を降りるとき棚に水着を入れたボストンバッグを忘れてしまった。その日のテストはついに受けられなかった。幸い後日、次のテストで何とか合格し無事単位がとれた。

 今日の、『私の磯子物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、浮田周男でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

172 173 174


2006年7月14日 (金)

横浜・明日への提言(8) 横浜ファッション(流儀)をつくろう

08

横浜エフエム放送株式会社 
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)

 
 歴史をひもとくと、日本の開国当時、欧米社会は礼節・儀礼・教養を重んじた。武家社会を根幹とする鎖国日本には、尊皇思想という精神的革命の風が起きていて、天皇を頂点にした精神的秩序が再構築されつつあった。すなわち、日本を欧米の侵略から守ったのは台場でも大砲でもなく、日本人の高度な礼節・儀礼・教養だった。
 安政3(1856)年、伊豆下田に着任した文官ハリスは交渉相手の下田奉行、日常接する住民の姿から滲み出る日本人の美風に圧倒され、英仏艦隊が到着する寸前まで誇りを持って文官外交を貫いた。日本が欧米の植民地にならなかった原因は実はそこにある。
 昭和20年8月15日、日本人が初めて知った敗戦のショック――日本を占領しにやってきたマッカーサーは、日本の伝統的な精神文化に惚れ直し、日本を南北に二分して好きなように支配しようと持ちかけたロシアに「ユー、ファイト(やるか)」とすごんで、その野望を砕いた。そのお陰で、日本人は衣食住に不自由しながら文化国家を唱え、あらゆるものに「文化」の名を冠して復興に立ち上がることができた。文化住宅、文化包丁、文化何々という具合に……。
 ところが、ソニーがトランジスタラジオを発明して世界中に売りまくってから、日本は高度経済成長の波に乗って、あらぬ方向へ走りだした。日本が「文化国家」をやめて「経済大国」を唱えると、学校教育は右へ倣えして世界に冠たる礼節・儀礼・教養を教えなくなった。国民的規範を教わらずに育った若者は糸の切れた凧みたいに方向定めず、経済オンリーの社会を野放図に漂い始めた。
 現在、教育基本法の改正が国会で議論され、愛国心がうんぬんされているようだが、私には見当違いなことをしているように思われてならない。愛国心は礼節・儀礼・教養を身に備えた結果である。G(義理)N(人情)O(恩返し)を古くさいという人間に愛国心が芽生えるとは思えない。GNOには平和、信頼、友愛、思いやりなどありとあらゆる精神的規範が含まれる。普遍の精神的資産が古びて廃れるはずもない。さりとて、私は日本を論じる立場にないから、せめてもミナト・ヨコハマだけでもおかしな風潮に毒されないように心がけてきた。だから、ミナト・ヨコハマには勝者もいなければ敗者もいない。最近10年の間に倒産した会社は皆無だし、すべてが中産階級のままでいる。
 みんなが中産階級でいられること、それがベストではないとしても、現実的にはベターだと私は信じている。日本人1億の8割が中産階級であった頃は世の中が明るかった。開港150周年を控えて、横浜の将来に必要なのは何かといえば、「横浜といえばGNO」とだれもが認めるような精神的規範を横浜市民が共有し、礼節・儀礼・教養を個人のファッション(流儀)にすることではないか。

ヨコハマ ストーリー  第16回 「私の映画館物語」

161

ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の映画館物語」

1911年のクリスマスの日、横浜長者町に日本最初の洋画専門映画館、オデヲン座が誕生した。オデヲン座は、常設の洋画封切館として東京まで名をはせる第一級の映画館になった。同館は、山下町の貿易商、平尾商会の試写館で、輸入フィルムをいち早く公開できた。
関東大震災で平尾商会が手をひいたあとを、六崎市之介が引き継いだ。まだ無声映画の時代、彼は伴奏音楽に着目した。弁士に合わせて六崎自身がクラリネットを演奏する管弦楽団を編成した。その質の高い伴奏は「活動映画ファン」を魅了した。また、映画のプログラム『オデヲン座ウィークリー』も充実させた。ファンは、この表紙と挿絵に凝った解説書を競って収集した。

私の家は、横浜、日の出町近くで、映画館をやっていた。映画好きの父の夢だった。母もその夢に自分の夢を重ねた。今では、笑い話だけれど、私が産まれる前、よく私の家に泥棒が入ったという。その理由が面白い。『心の旅路』という映画を上映していて、毎日、父と母がそれを観にいき家を空けていたからなのだ。
私の幼いころの思い出は映画館にある。当時の映画館には冷房の設備などない。暑さしのぎに氷の柱が置かれた。その氷の中に花が入っていたのを今も覚えている。
映画館のチケット収入だけでは、思うように儲からないので、母は売店を思いついた。PXと呼ばれる米軍専用の店から、ルートを使って品物を仕入れた。アイスクリーム、チョコレート。おせんにキャラメル以外の商品に皆、飛びついた。
映画が終ったあと、ドアが開いて観客があふれてくる瞬間。出てくる人は、どの顔もうれしそうで幸せそうだった。その光景は、物をつくったり毎日会社に行かなくても人を幸せにする仕事があることを教えてくれた。
私は映画が好きだ。あの暗闇の中で人は人生を生きる。笑い泣きながら、自分とは違う人生を味わう。光りあふれるロビーに出る瞬間、私は一生分の2時間を体験したことを知る。

今日の「私の映画館物語」はいかがでしたか?出演、小林 節子 脚本北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

162 163


2006年7月 7日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第15回「私の横浜ジャズ物語」

151

ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の横浜ジャズ物語』。

アメリカ生まれのジャズは、明治の終わりから大正にかけて日本に上陸したと言われる。西海岸から太平洋航路が開拓され、寄港する東洋の港町にジャズを誕生させた。 大戦中、敵性音楽だったジャズは禁じられたが、戦後、傷だらけの横浜の街に進駐軍のラジオからジャズが流れ始めた。同時に軍の施設やクラブなどでジャズの演奏が聴かれるようになった。日本人のバンドマンが仕事を求め、横浜駅前などに集まりバンドマーケットができた。また、日本のモダンジャズの原点といわれる伊勢佐木町「モカンボ」での「モカンボセッション」が行われるようになり、秋吉敏子、渡辺貞夫らが横浜から巣立った。横浜のこのような歴史的背景をもとに、1993年から横浜ジャズプロムナードが開催され、ジャズ文化を発信している。

ミニライブへの誘いの葉書が届いた。中年アマチュアバンドのライブだが「トシオを送る会」と書かれてあるのに引かれて行ってみる事にした。
トシオ君は40年近くにもなる古い仲間だ。高校時代、横浜の規律に厳しいミッション・スクールに通っていた私にとって、日曜日はいつもと違った気分になれる日だった。海岸教会での日曜日の礼拝。私たち賛美歌コーラスの仲間にとって唯一、ボーイフレンドとの出会いの場所だった。今思えば初々しいお付き合いだった。トシオ君もそのひとりだった。ジャズの専門誌「スウィング・ジャーナル」を片手に教会にやってくるトシオ君は、高校時代から先生に怒られながらも「ストーククラブ」や「ちぐさ」に通っていた筋金入りのジャズファン。大学に入ると、仲間を集めてジャズ研究会を作った。そして本格的なジャズボーカリストを目指すようになり、レコードデビューの話も聞くようになったが「上には上がいる」ということで、プロを断念して通信社の記者となった。
会場は関内の小さなビルの2階にあった。奥まったスペースにピアノ、ベース、ドラムが置いてある。アップライトのピアノの向こうにトシオ君がいた。
「お久しぶり。送る会ってどういう意味」
「ニューヨーク支局に転勤さ。今頃ジャズの本場に行ってもね。」
トシオ君がジャズを辞めた本当の理由は、生まれたばかりのお嬢さんが、難しい病気を患っていたということだ。地方廻りの仕事が多いミュージシャンでは、看護も生活も厳しい。「家族のため」サラリーマンを選んだ。それが真実だった。
この日のライブはいつになく賑やかで、アステアばりにリズミカルにタップを踏むトシオ君がとても粋だった。ラストナンバーはおきまりの「ニューヨーク・ニューヨーク」。
そのとき、花束を持ってお嬢さんの典子さんと奥様が登場、会場は一気に盛り上がった。再び大きな拍手の後、トシオ君はアンコールナンバー「マイ・ウェイ」を歌って「送る会」は幕を閉じた。

今日の、『私の横浜ジャズ物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、大多田純でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

152 153 154


2006年6月30日 (金)

横浜・明日への提言(7) G・N・O―波止場の掟

07

横浜エフエム放送株式会社 
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。) 


 これまでは、子どもすなわち日本の未来、横浜の将来の問題点を指摘したわけだが、大人を取り巻く卑近な問題にも言及しておこう。
 今日、何かというと経済原則、経済効果、競争原理という言葉が金科玉条のように語られる。まるで陰謀渦巻いた弱肉強食、下剋上の戦国時代の再来を見るようで、これもまた私にとっては実に嫌な言葉だ。
 私はFMヨコハマのほかにミナトの仕事に長いこと携わってきた。ミナトは波止場――悪い波を防ぐ場所。すなわち、G(義理)N(人情)O(恩返し)がミナト・ヨコハマの掟で、悪い波の防波堤でもある。市場経済というシングルイシューでしか考えない連中は胸を張って「いまやグローバリゼーションの時代、競争原理が世界的な潮流である」というが、「ここは日本だからノー」というのが私の返事である。
 ワットの蒸気機関の発明で始まった産業革命が欧米に広がり、大量生産による安価な製品の輸出市場開拓の必要性が高まり、植民地主義に一段と拍車がかかった。そのターゲットになったのが、アジアとアフリカだった。イギリス、フランスの砲艦外交の前にまずインド、インドシナが屈し、次に清国が標的になってアヘン戦争が起きた。イギリスが清国で、フランスがインドシナで足止めをくっている間に、ペリーの黒船艦隊を派遣したアメリカが一足先に日本を開国させた。しかし、日本の開国から横浜の開港までさらに五、六年の歳月を必要とした。清国、インドシナに砲艦外交を展開するイギリス、フランスに対し、アメリカは日本に対して文官外交で臨みあくまでも友好的に日本と貿易しようと考えたためである。ここが大事なところだ。
 日本が大東亜戦争から太平洋戦争に戦線を拡大させアメリカ・イギリス連合軍に負けたときも同じことが起きた。同盟国ヒトラー・ドイツは占領軍に直接統治され、東西分断の悲劇を招いたが、日本を占領したマッカーサーは「自分も皇室の財産もどうなってもよいから国民を守ってくれ」という昭和天皇の慈悲の心に圧倒され、天皇制解体の方針を覆して象徴天皇制として残し、政府の存在まで認めた。天皇を親以上に敬い日本人が家族のように一つにまとまっていた事実が、失われた古きよきアメリカに強烈なノスタルジーを抱くマッカーサーをノックアウトしたわけである。開国期と似ているといって、これほど似た歴史的事実はない。だから、私の提言は日本の未来、横浜の将来に必要なのは市場原理主義に毒された考え方ではなく、波止場の掟「GNO」を確固とした見識として守り抜けということである。

ヨコハマ ストーリー  第14回「私の本牧物語」

141

ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の本牧物語』。

横浜港の南東部にあたる本牧。古くからエキゾチックな文化が根付いた街として知られ、明治の中頃から早くも外国人相手の歓楽街として賑わいをみせた。
その後、三渓園が公開され、谷崎潤一郎が住むなど別荘地として発展したが、戦後はアメリカ軍の基地と宿舎が広い敷地を占めた。まさにフェンスの向こうのアメリカだった。一方で、外国文化に影響された、その独特の雰囲気から、歌謡曲や映画の舞台にもなり、音楽家の活動拠点ともなった。1982年にアメリカ軍から返還されたが、基地と交流のあった名残を小港付近のカフェや雑貨店に見ることができる。

 先日、大学のOB会横浜支部の会に出席した。横浜のミッション・スクールから、東京の大学へ入学した私は、当初男子学生と話をすることができなかった。それが、住まいが本牧近くという事から、男子学生の関心を引いた。当時の男の子達は、横浜、特に本牧には憧憬をもっていた。それはフェンスの向こう側に存在するアメリカというイメージだったのか、新しいファッション、音楽、ダンスのステップ、街全体が醸し出す不良っぽさだったのか。ともかく、「節子は、本牧通なのだろう」とおだてられ、大いに株を上げ、ちょっと背伸びをして、「リキシャルーム」や「ゴールデンカップ」に案内し自慢だった。
 OB会が始まった。開宴の挨拶はおなじみの大先輩。乾杯の音頭は、白髪混じりのかなりの年輩に見えるロマンスグレー氏。あまり見かけない方だった。
仲良しだった友子と昔話に花を咲かせていると、突然後ろから「お久しぶりです、先生」と声をかけられた。乾杯の音頭をとったロマンスグレー氏だった。
「先生?」私は驚いて、「年輩に見えた貴方に、先生と呼ばれる覚えはないわ」と、内心つぶやいた。学生時代、私は本牧で三人の高校生の英語の家庭教師をしていた。有名なヨットのセール屋さんと自動車会社の息子さん。その照れた笑顔に思い出した。目の前のロマンスグレー氏は、確かに拓也君だ。
 「先生のおかげで一浪させられましたが、後輩です」拓也君の、この小憎らしいもののいい方は不思議なほど変わっていない。私がロマンスグレー氏の先生だったなんて、ちょっとショックで、思わず「貴方に教えた覚えはないわ」と大声を出してしまった。これには友子も声をあげて大笑い。誘われて私も吹き出し、涙が出るほど笑ってしまった。
 OB会も終わり、外に出てみると、港からの潮の香りが、いっそう強く感じられた。盛り上がった私たちの勢いはとまらず、拓也くんも誘いカラオケへ。 「ブルーライト横浜」の大合唱となった。

今日の、『私の本牧物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、大多田純でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

142 143 144


2006年6月23日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第13回「横浜赤レンガ倉庫物語」 

131

ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したそのときから、歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「横浜赤レンガ倉庫物語」

近代港湾発祥の地、横浜新港埠頭は明治の技術の粋を集めて造られた。赤レンガ倉庫は、その上屋施設として1907年に着工され、補強材として鉄を用い、スプリンクラーを完備、荷役用にエレベーターがあるなど、当時の最新技術が導入されていた。
赤レンガ倉庫は、貿易の要として活躍した後、関東大震災をくぐりぬけ、戦後は米軍に接収され、事務所や食堂、倉庫などに利用された。そして倉庫としての役割を終えたあとも、横浜のシンボルとして静かにたたずんできた。
その貴重な歴史的資産を1992年、横浜市が国から取得。2002年4月に新たな文化・商業施設としてオープンした。

 日曜日の朝、横浜赤レンガ倉庫を訪れた。友人が、一緒にガラス工芸を習おうと誘ってきたのだ。先月一人娘が結婚して、なんとなく心に穴が開いたような寂しさを感じていた。友人なりの気遣いなのだろう。
 赤レンガ倉庫にある「横濱硝子」は、横浜で初めての吹き硝子工房。いろんな作家が創作に取り組んでいるという。「まったくの素人である私でも大丈夫よ」と友人は言っていた。緊張したせいか、約束の時間より早く着いてしまった。
倉庫は、まだひっそりとその入り口を閉ざしている。埠頭を歩くことにした。初夏の陽射しを跳ね返しながら、シーバスが水しぶきをあげている。犬を散歩させている夫婦が、ゆっくりと通り過ぎる。
 横濱硝子での体験教室。卓上酸素バーナーを使って硝子棒を溶かし、トンボ玉を作る。飴のように溶けていく硝子玉。赤、青、緑、黄色など、さまざまな原色が、混じり合い、形を変えていく。友人は、慣れた手つきでトンボ玉付きの携帯ストラップを作っていく。私は、光を反射した硝子の美しさに、ただ目を奪われている。
 ふと、娘の結婚式を思い出した。キラキラ光る娘の姿が浮かんだ。心が満ちていくような幸福感が私を包む。嫁いだ娘に、携帯ストラップを作って送ってみようと思った。

今日の「横浜赤レンガ倉庫物語」はいかがでしたか?
出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

132 133 134


2006年6月16日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第12回 「山下公園物語」

121

ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の山下公園物語』。

  横浜で最も有名な公園「山下公園」。1930年に日本初の臨海公園として関東大震災きっかけに誕生した。復興事業として波打ち際に捨てられていた焦土や市内の瓦礫、焼け跡のレンガなどが埋め立てに利用された。1935年には復興記念横浜大博覧会が開かれた。今で言うパビリオンが立ち並び、およそ323万人を集め賑わった。1990年には東側がリニューアル整備された。バルセロナのグエル公園を思わせるカスケードのある楽しい階段や幾何学的な滝や水路などが作られ、新しい魅力が加わった。

 「お母さん、何か飲み物買ってくる」と言って娘は私と荷物をベンチに残して走っていった。二人で元町で買い物をして山下公園でひと休み。そこに主人が合流して夕食を食べる。こんな過ごし方が月に一度の習慣になったのはいつからだろう。私は横浜市の花である薔薇が咲き誇るこの季節の山下公園がことのほか好きだ。
 いつもの海に面したベンチに座って娘を待つ。そんな慣れ親しんだシーンもあと数回。「この秋に結婚したい」と、ボーイフレンドを連れてきた時は私も主人も驚きを隠せなかった。わがままいっぱいの娘が、誰かのために生きたいと思うようになったのかと、喜びと不安で複雑な気持ちになった。
走っていく娘の後ろ姿を見ていると、なぜか母の事を思い出した。その昔、母と二人でこの公園に来たのは桜の季節。
 母は海を見ながら「昔、私もおばあちゃんとここに来たことがあるのよ」と話し始めた。祖母は常に祖父をたて親を敬うことを重んじていた。そして祖父が起きる前に薄化粧を済ませ、どんなに帰りが遅くなっても、必ず起きて待っている・・・そんな人だったのだ。関東大震災そして戦争。その都度全てを失いながらも家族を愛し守ってきた人。この山下公園で『何があっても旦那様を敬い、家族を愛し、守れる強さを持つのよ』と母に言ったそうだ。母は私にそこまで話すと黙ってしまった。その言葉は嫁いでいく私へのメッセージだったのだろう。
 汽笛が鳴り我に返った時、主人が声をかけ隣りに座った。そういえば二人が出会った頃もこの公園に薔薇を見に来て、他愛もない話をしたことがあった。
「あの子が嫁いで二人になっても、また一緒に来ましょうね。」と言うと、何も言わずに主人が微笑んだ。「お父さーん!」娘が駆け寄ってきて「今日は何を食べるの」といつもの元気な声で言った。

今日の、『私の山下公園物語』いかがでしたか。 出演、小林節子 脚本、浮田周男でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

122 123 124


2006年6月14日 (水)

横浜・明日への提言(6) 便利社会の落とし穴 その③

06

横浜エフエム放送株式会社 
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。
 

 戦前に生まれた私は軍国少年として育ち、戦争中は空襲で生命の危険と隣り合わせながら学校工場で働き、軍事教練で鍛え抜かれた。教科書はあっても開く機会が少なかった。
「欲しがりません、勝つまでは」で、食うものもろくに与えられなかった。しかし、今日の便利社会、飽食の時代を見てきて、うらやましいと感じたことは一度もないと断言できる。
 私は終戦の20年8月15日を14歳で迎えたとき、昼過ぎから翌日の朝遅くまで熟睡し、「戦争が終わるということは空襲がないことなんだ。安心して眠れるということなんだな」と実感した。生まれて初めて平和な社会を迎えて、それからというもの私は好きな野球にのめり込んだ。
 野球をやるといっても、校庭は空襲で焼け落ちた校舎の残骸などで埋めつくされてすぐには使えなかったから、瓦礫の山を取り除きながらの練習だった。食うものもなく空腹で喉が渇く。グランドともいえない校庭の片隅にぽつんと立つ蛇口に口をつけて飲む水が、甘露水のようにうまかった。ついでに空腹をみたすために腹ががぶがぶになるまで水を飲んだ。歩くと体を伝って腹から「チャポン、チャポン」と音が聞こえてきた。
 今日の若者、子どもたちが経験する便利社会、飽食の時代とは180度異なる青春時代を私たち戦前世代は送った。機械も道具も不足し何をやるにも不便で、自分で工夫しないと何も始められなかった。しかし、自由や民主主義という言葉が胸の中できらきらと輝いていて、やりたいことがいっぱい詰まっていた。同年代の友達と目標を示し合い、熱く語りながら充実した日々を無我夢中で送った。香華に満ちてまさにあれが青春だった。
 天井が抜けたような自由を謳歌する今日の便利社会と比べて、結果にみるこの違いは何だろうか。
 戦後61年を経過する間に、日本はどん底から経済大国にのし上がり、そして、沈没の危機に直面している。日本の将来はいかにあるべきかを判断する材料がすべて出揃ったといってよい。そろそろ、戦前・戦中・戦後の本当の意味での検証をすべきではないか。その検証をしないと何も始まらないのだ。
 科学文明はここ半世紀の間に人類が数千年をかけて築いた歩みをはるかに越える勢いで進歩したという。現代人は科学文明のスピードに見合うだけの進化を遂げただろうか。そうでないとすると。人間は機械文明のドレイになってしまう。私が「便利社会万歳」としない理由がそこにある。