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2006年9月14日 (木)

横浜・明日への提言(12)スキンシップ・デモクラシー

12

横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)
 
 前回紹介した銃器・薬物水際排除推進協議会は官民が一体となって仲よくやってきた。各省庁の出先機関と港湾関係団体が横一列に並んで一つの目的を達成しようとする姿は、これぞスキンシップ・デモクラシーといえるものだ。保安委員会のほうもスキンシップ・デモクラシーでうまくいっている。前々回提言を試みた「ミナト・ヨコハマ特別市」もこうした横浜独特の人間関係を土台に発想したものだ。
 FMヨコハマ生みの親といってもいい故・秦野章元法務大臣は、「民主主義の中の独裁がデモクラシーの理想だ」といった。自由・平等は民主主義でしか実現しない。秩序を保つには独裁のほうが断然すぐれているが、歯止めが利かなくなる欠点がある。だが、民主主義の中でよい意味での独裁が実現できれば両者が並び立つ。私も同感だ。ただし、私が考えるのはスキンシップ・デモクラシーを土台にした独裁である。横浜港の保安委員会がうまくいっているのはスキンシップ・デモクラシーが浸透しているからだと思う。
 350万都市ではスキンシップ・デモクラシーは物理的に不可能である。したがって、独裁もあり得ない。しからばどうしたらよいか。都市分割も一つの方法論だろう。平成の大合併が進むときだけに、逆の発想がきらりと光る。都市分割が無理だとしても、市長選挙とは別に地元のシンクタンクを集め、あらかじめ「提言集団」をつくるのも一つの選択肢として考えられる。だれが市長になっても困らないという骨組みをつくっておけば、悪い意味での独裁に「待った」をかけられる。選挙のたびに候補者選びで悩まないで済む。こちらのほうが横並びの人間関係になじんできた横浜の肌に合うかもしれない。
 ところで、横浜はシンポジウムが多いところだ。毎日のようにあっちでもこっちでもシンポジウムが開かれる。やれともいわないのに開かれるし、やれとけしかける者もいない。だから、よい提言が行なわれても内輪の賛同だけで終わってしまう。
 問題は提言集団の質、提言の取捨選択である。当然それらに対する質的淘汰の仕組みが必要になる。これができたら「横浜はじめて物語」の一つになる。よそが考えつかないうちにやってこそ「初めて」といえる。遅すぎるといってもよいくらいに、やるときにきているのではないか。

2006年9月 8日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第24回 「私の元町仲通り物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の元町仲通り物語」

横浜港の開港で、外国人居留地から移り住んだ人々が造った「元町」は欧米人のショッピング街だった。
その華やかな店を支えた職人の工場、そして彼らの住居があった場所、それが元町からひとつ山手側に入った「仲通り」。表通りの賑やかさとは、何処か違った静かな空気。この通りには、今も個性的な店やレストランが並んでいる。
昨年末、仲通りを中心に、代官坂、汐汲坂など、約130の商店主らが商店街振興組合『元町クラフトマンシップ・ストリート』を結成した。物づくりの伝統を今に生かし、作り手が売り手になる「製販一体」を目指す。お客と直接相談しながら商品を作るという、作り手と買い手との距離の近さも、仲通りの伝統のひとつかもしれない。

 元町、仲通りに、女学校時代の友人を訪ねた。彼女は、山手の学校を出たあと、しばらく横浜を離れていたが、何年か前に、また戻ってきたのだという。今は、仲通りで、工房を持っている。彫金のアクセサリーや花器は、とても評判がいいらしい。
 みなとみらい線、元町・中華街駅から、ウチキパンを右に折れると仲通りだ。「香炉庵」の先に伸びているが代官坂。「霧笛楼」を左に見ながらしばらく行くと、汐汲坂がある。風に秋の匂いが混じってきたように思う。この季節には、職人の街が良く似合う。
 目指す工房を見つけるより前に、カンカンカンと銀板を叩く音が聞こえた。
彫金の工房を営む友人は、満面の笑みで迎えてくれた。その少女のような笑顔を見ていたら、こちらまで嬉しくなった。
 彼女の作品は、どれも素晴らしかった。力強い直線が作り出す大胆なデザインの花器があったかと思うと、奇跡的な繊細さが紡いだアクセサリーもあった。伝統工芸日本金工展などで多くの賞をもらったという。
 「店にいて、お客さんと話すと、アイデアが生まれてくるのよ。自分の中にあるものなんて、たかがしれてるでしょ。まわりの人から、ヒントをもらって形にするの」と彼女は言った。女学校時代のおとなしい印象はどこかに消えていた。
 「自分でつくったものを、そのまま売る。素敵なことよ」という言葉が、胸に残った。
ここに移り住むまでの彼女の人生は、わからない。でも、無心で銀板を叩く姿を見ていると、彼女の生きてきた全てが、作品に昇華されているように感じた。カンカンカンという音が、秋の空に心地よく響き渡った。

今日の「私の元町仲通り物語」いかがでしたか?出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・


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2006年9月 1日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第23回 「私の横浜スタジアム物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の横浜スタジアム物語」

JR根岸線の関内駅南口のすぐそばに横浜スタジアムはある。その歴史は古く、1896年に、旧制第一高等学校と横浜在住米国人チームによる日本初の国際野球が行われたことから「日本野球発祥の地」といわれている。
その後1929年に関東大震災復興記念事業の一環として硬式野球場「横浜公園球場」として整備され、1934年にはゲーリックやベーブ・ルースらを擁する大リーグ選抜軍との親善試合も行なわれ。しかし、第2次大戦後はアメリカ軍に接収され、名前も「ゲーリック球場」と改称された。1948年には、日本プロ野球初のナイターが実施され、1955年、球場の改修に伴い「横浜公園平和野球場」と再度改称。そして、1978年3月に横浜スタジアムが誕生した。
スタジアムの両翼ポール下の外野フェンスネットには1934年のアメリカ大リーグ来日を記念して,ライト側にルー・ゲーリック、レフト側にベーブ・ルースのメモリアルレリーフが飾られている

 スポーツに関心が薄いからだろうか。テレビでプロ野球中継をみていると、試合よりもバックネット裏のお客さんたちの様子が気にかかる。携帯電話を片手にVサインを送っている人がいる。ほほえましい光景だが、友人の恵子は、いい歳をしていまもその常連。
 ところで、こんな話を耳にした事はないだろうか。T・K氏は横浜スタジアムの前身横浜公園球場をベースに、戦前ノンプロの選手として活躍した。戦争が始まり野球は敵性スポーツだということでチームは解散することになる。最後のキャッチボールを終えての解散式。「戦争が終わったら、平和になったら、互いに元気だったら、この球場のバックネット裏に集まろう」と16人のメンバーはバックネット裏の誓いを立てて別れた。
 戦争が終わり、横浜は、まさにゴーストタウンと化し、わずかに残った建物も進駐軍に接収された。横浜公園球場も同様で、「ゲーリック球場」と名前が変わる。当然、T・K氏らチームメートのバックネット裏の誓いは果たされることはなく、元気な姿で酒を飲み交わしたチームメートはわずかに5名だったという。
T・K氏の晩年、テレビカメラがバックネット裏を映すようになると、「どうもバックネット裏が気になってしょうがない」が口癖だった。
 テーブルの上の携帯電話がなった。恵子からだった。「見ている、今、甲子園」 嗚呼、ミーハーおばさん恵子は今日も懲りずにバックネット裏に陣取る。

きょうの、「私の横浜スタジアム物語」いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、大多田純でお送りしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年8月31日 (木)

横浜・明日への提言(11) キーワードは「横浜はじめて物語」

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横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)

 350万都市、人口ナンバーツーというだけでは、横浜は張り子の虎も同然だ。ひとひねりも、ふたひねりも工夫を凝らさなければ、横浜は東京のベッドタウンで埋もれてしまう。
 人口ナンバーワンの東京の強みは首都機能を持つことだ。ほかにもナンバーワンの勲章がたんさんある。人口ナンバーツーの横浜はどうか。ナンバーワン、ナンバーツーと胸を張れるものがいくつあるだろうか。質問されても具体的には答えられない浜っ子がほとんどではないだろうか。
 活路を見出すキーワードは「横浜はじめて物語」である。よそがやらないことを真っ先に始める、あるいは取り入れる。
 150年弱の歴史しかない横浜市だが、開港当時はガス灯、ビール、パン、アイスクリームなど、「横浜はじめて物語」がたくさんあった。開港によって町が生まれて、ほかに何もなかったから「日本で初めて」の物が始まった。今の横浜も「これぞ横浜」といえるものが少ないのだから開港当時とあまり変わらない。
 よそにないものをつくるにはどうしたらよいか。
 たとえば、横浜ならではの組織として銃器・薬物水際排除推進協議会がある。税関、県警が中心となった組織だが、よそのミナトにはない。普通だと大蔵省の出先だった税関がえばるのだが、上も下もなく20年も仲よく協力してやってきた。ニューヨークの9・11テロがあってから政府のお声がかりで「保安委員会」が生まれたとき、すでに同じことをやっていた横浜は看板を一枚増やしただけで済んだ。他都市の委員長は地元官庁のトップが委員長だが、横浜だけは港湾業界の私が委員長になった。銃器・薬物水際排除推進協議会の会長だったからすんなり決まったのである。横浜は民間主導が早くから根づいていた。人間関係が独特でユニークだから民間主導が生まれたわけで、これも「横浜はじめて物語」の一つといってよいだろう。
 何かというと物を考えがちだが、横浜ならではの人間関係を生かせばほかにも「横浜はじめて物語」に育つ機会はあるのではないか。そうした観点から発想し議論し試行錯誤を積み重ねていけば、いろんな「横浜はじめて物語」が生まれるはずである。

2006年8月25日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第22回 「私の横浜夏物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の横浜夏物語』。

 若き日の横浜の夏の思い出といえば、大学一年の時、体育の単位取得のため横浜プリンスホテルのプールで水泳の特訓をしたこと。
 その当時からの仲間と、久しぶりに横浜で会って今年の夏を締めくくろうということになった。みなとみらい線日本大通り駅で待ち合わせ、街へ繰り出した。
山下公園からみなと大通りと歩き回り、馬車道では「馬の水飲み場」を発見。午後も一時半を過ぎたので、大桟橋通りの「カルテ・デリ」で腹ごしらえを、と行ってみた。昔、よく行ったそのお店はもう無く、仕方なく元町に行くことにした。
 元町は週末で賑わっていた。お昼は、昔来たことのある肉料理の店「シィエル・ブルー」した。テキサス風の古い店内は、今も昔の面影を残し、あまり変わっていなかった。男性達はビールも注文。さっきの「馬の水飲み場」ではないが、暑い中ビールにありつけた喜びも手伝って、話は大いに盛り上がった。
 食後は元町を歩き回った。子供のころは、まだ元町では買い物は出来なかったが、ハマトラが大ブームになる少し前には、もう働いていたので、キタムラやフクゾウに行くことができるようになっていた。
 夕食は、中華街関帝廟通りにある小さな北京料理の店「蓬莱閣」。ビールを注文して、メニューとの格闘が始まった。
その時、一人の中年男性と若者三人のグループが入ってきた。白髪まじりの中年男性は、ビールを素早く注文したかと思うと、メニューも見ずに次々と料理とデザートまで一気に注文した。あっという間の出来事だった。
 仲間の一人が、その男性に「よく来るんですか、この店には」と語りかけた。
「ああ、年に一回くらいかな」
「昔からですか」
「25年くらいかな、30年になるかな」
「どちらから」
「東京に決まってるよ」
 短いフレーズで余計な事は言わない。江戸っ子だな、と思った。そうこうしていたら、その男性が、自分たちは注文しないのに「餃子、頼まないの?」と聞いてきた。私たちは水餃子を注文した。
 女主人と、その息子だと思われる店員が、初めて微笑んだ。最後にその男性が「シュガーシャックに、よかったら一緒にどう?」と誘ってくれた。シュガー・シャックはソウルバーだ。でも私たち「スターダストに行くの」と答えたら、「いいね」と一言いった。
JR東神奈川駅まで電車でそして、タクシーでみずほ埠頭方向へ。米軍施設のある橋の手前で降りる。
 スターダストに入ると、カウンターにどっしりと座っている猫に迎えられて中に入った。飲み物を注文して飲み始めると、猫はもうカウンターの上で丸くなって寝始めていました。キャッシュ・アンド・デリバリー方式、古いジュークボックスから流れる音楽も懐かしい。変わったのは外国人、アメリカ人がいなくなったことくらいだ。
 
今日の、『私の横浜夏物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、浮田周男でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・


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2006年8月18日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第21回 「横浜ホテル物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「横浜ホテル物語」

 みなとみらいに、屹立する高層ホテルは、それぞれ個性的だ。帆船をイメージしたヨコハマ グランドインターコンチネンタル ホテル。バルコニーで潮風を感じることができるパン パシフィックホテル横浜。そして何よりその名のとおり、ランドマークとしてそびえたつ横浜ロイヤルパークホテル。
横浜ランドマークタワーは、造船所のドック跡地に建設された。現在、イベントスペース等に利用されている『ドックヤードガーデン』は、日本に現存する最古のドックヤード「第2号ドック」を残したものだ。このドックは、1896年に竣工し、1973年に使用を中止するまでの70数年間、港湾施設として、重要な役割を果たしてきた。そして1993年、横浜ランドマークタワーの開業とともに、ドックヤードガーデンとしてオープンし、1997年12月に、国から重要文化財の指定を受けた。離れた海岸線を懐かしむように、ドックには今日も潮風が舞っている。

 夏の日差しはまだ健在だった。港を横切るタンカーが、かげろうのように見える。短い夏休みにホテルを予約した。友人は「少し贅沢じゃない?」と言ったけれど、ランドマークタワーにあるホテルにした。部屋もとびきり見晴らしのいいタイプを選んだ。
 このホテルには、地上256メートルの65階に、お茶室があった。私と友人は、以前からその天空のお茶室が気に入っていて、何度かお点前を体験したことがある。晴れた日には富士山も見えるその場所で「いつかこのホテルに二人で泊まって、命の洗濯をしましょうよ」と私を誘ったのは、友人の方だった。
待ち合わせの時間より早く着いたので、ドックヤードガーデンに行こうと、階段を下りたときだった。突然の風に帽子を飛ばされた。帽子は弧を描き宙を舞った。ひとりの青年がその帽子を追いかけてくれた。階段を駆け下りドックヤードガーデンに落ちた帽子を青年はつかまえた。
 青年は、人懐こい笑顔で、私に帽子を差し出す。「ありがとうございます」と言うと「ここは昔、船のドックだったから海風が懐かしがって、ときどき遊びにくるんです」と笑った。足早に仕事に戻っていく青年の後姿が、くっきりとした夏の陰をつくりながら小さくなっていった。
 友人とのディナーは、68階のフレンチにした。相模湾でとれた新鮮な旬の魚が、横浜ポーセリンのお皿に盛られてくる。デザートが、ワゴンで運ばれてきた。そのワゴンを押すパティシエの顔に見覚えがあった。彼は、再び人懐こい笑顔で「ああ、どうも」と言った。
「昼間はありがとうございました」と私が頭を下げると、友人は、わけがわからず私たちの顔を見比べた。
「僕は、小さいころ、誕生日をホテルでしてもらったことがあるんです。ケーキに花火をつけてくれたのが嬉しくて。そのときの喜びが忘れられなくて、いつかホテルのレストランで働きたいって思い続けてきたんです」。ケーキも美味しかったけれど彼の笑顔を見ていたら、すでに命の洗濯は完了したように思った。ベイブリッジの青い灯りが、ケーキの上の花火のように浮かんで見えた。

今日の「私の横浜ホテル物語」はいかがでしたか?出演、小林 節子 脚本北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年8月14日 (月)

横浜・明日への提言(10)横浜府ミナト・ヨコハマ特別市

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横浜エフエム放送株式会社 
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)
 
 横浜が2年後に開港150周年を迎えるといっても、現在75歳の私が知らない開港後の歴史は半分にすぎない。千何百年もの歴史を持つ京都に比べたら、歴史も伝統もないに等しい。江戸・東京でさえ開府500年の歴史を持つ。裏返せば歴史が浅いことが横浜という街の個性であり、これからどのような伝統でもつくっていけるというよそにはない魅力でもある。
 花のお江戸・東京流にいえば、横浜はこれからなのである。過去を振り返る以上に、将来に目を向けなければいけない段階にある。それなのに、「開港50周年では開港記念会館をつくった、開港100周年にはマリンタワーを建設した、開港150周年にはミナトに自由の女神像を建てたらどうか」という50年、100年前の発想のままでは進歩がないし、自由の女神像がイベントの目玉では全市的な盛り上がりは期待できそうもない。
 しからば、どうすればよいか。
 歴史が浅いというのは京都や城下町に比べての話である。ミナト・ヨコハマにはジャック、クィーン、キングと呼ばれる開港記念会館、横浜税関、県庁旧庁舎をはじめ、赤レンガ倉庫、黄土色のタイル壁の港湾関係のビル、街並みでいえば中華街、馬車道、日本大通り、山下公園、横浜公園を含めた関内、そして元町、伊勢佐木町などなど――歴史建造物や伝統ある街並みがたくさんある。街角に立つだけで目に見えない独特の風が吹く。
 マイホームと東京を往復するだけで、「みなとみらい」と聞いても横浜のどこだかわからないような人が集まる出来立てのホヤホヤの街とは同日に論じられない。田園都市線沿線をはじめ、そういう新しい街に住む「横浜東京都民」に開港150周年を呼びかけ、議論を持ちかけても参加は望めそうにない。
 しかし、370万都市横浜を「府」に昇格させ、いくつかの特別市に分割すると議論を吹っかけたら、どういうことになるだろうか。ミナト・ヨコハマを独立させて「横浜府ミナト・ヨコハマ特別市」にし、港湾総局を中核に行政を行い、スキンシップ・デモクラシーを確立する。ミナト・ヨコハマ特別市の行政範囲は「この指とまれ」で決める。
「嫌ならあとは自分たちで考えろ」
 恐らく横浜府は結果として三つか四つの特別市に分かれるのではないか。
 このくらい乱暴で爆弾的なテーマを突きつければ、部外者でいられる横浜市民はまず一人もいなくなるだろうし、賛否両論沸騰して開港150周年イベントの幕開けにふさわしい全市的な議論になるのは間違いない。
 イベントをどう立ち上げるかを考えるのはそれからでも遅くはない。

2006年8月11日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第20回 「私の写真館物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本の抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の写真館物語」

1861年、横浜市中区野毛町に、日本で最初の写真館ができた。『全楽堂』という小さな写真館を開業したのは下岡蓮杖だった。彼は、下田から画家を目指して上京したが、当銀板写真に出会って衝撃を受けた。その迫力に圧倒された蓮杖は、写真技術を取得するため、奮闘する。浦賀奉行所、アメリカ領事館、さまざまな場所を渡り歩き、辿り着いたのが横浜。イギリス人の職業写真家、ジョン・ウイルソンに写真機材を譲り受け技術を会得、ついに念願の写真館開業にこぎつけた。写真技師を志して、実に18年の年月が流れていた。

 昔は、住んでいる街に必ずひとつは、小さな写真館があったような気がする。私が幼いころ住んでいた野毛の町にも写真館があった。店の前に飾られたいくつかの写真。七五三、入学式、結婚式。人生のお祝い事には、みんな写真館にいって嬉しい時間を封印した。
 ある日、父に手をひかれて写真館に行った。父は「遠くに住んでいるおじいさんに、写真をおくってあげよう」と話しながら私の頭をなでた。店に入ると白髪頭のおじさんが、じろっと私を見た。不思議な色をした壁の前に立派な椅子があった。おじさんは、その椅子に座わるように言った。父が見守る中、私は写真に撮られた。笑ってといわれても、どんなふうに笑えばいいのかわからなかった。そのときの写真が、まさか写真館の表に飾られることになるとは思いもしなかった。
 町の小さな写真館に飾られた私の写真。はにかんだように、ぎこちなく微笑んだ顔。店が通学路にあったので、写真はクラス中の知るところとり、私はクラスの男の子からずいぶんひやかされた。私は写真嫌いになった。店の前をさけ学校へも遠回りしていくようになった。母に、あの写真をはずすように言ってと頼んだ。でも私の写真は飾られたままだった。写真のことをみんなが何も言わなくなる頃、気がつくと店のウインドウからはずされていた。
 先日、久しぶりに実家に帰った。母が面白いものが出てきたわよと言った。見ると、写真館に飾られていたあの写真だ。きちんと額におさまっている。
「お父さんはね、この写真が、とっても気に入っていたのよ。写真屋さんがね、表からこの写真をはずそうとするのを何度もとめたくらい」と母は言った。困ったような笑顔の私。そのセピア色の幼い自分を見ながら、当時のことが次々と思い出された。写真館のかびくさいような匂い。フカフカとした椅子の感触。そして、父の大きな手のぬくもり。「これ、もらってもいい?」と私は母に笑顔で言った。

 今日の「私の写真館物語」いかがでしたか?出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年8月 4日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第19回 「私の根岸森林公園物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の根岸森林公園物語』。

1867年、日本で初めて競馬が行われた根岸競馬場。その跡地に開かれた根岸森林公園。根岸競馬場は戦争で閉鎖、戦後は米軍に接収された。ゴルフ場やモータープールになっていたが、1969年に一部が返還され、1977年に公園としてオープンした。
この公園の魅力はなだらかな丘と、横浜スタジアムが五個分という敷地いっぱいに広がる芝生。多くの樹木による四季折々の景観も素晴らしい。隣接する根岸競馬記念公苑には、馬の博物館、ポニーセンターがあり世界でも珍しい馬だけの総合博物館である。根岸競馬場の歴史や、暮らしの中の馬文化など豊富な資料が揃っている。

 本棚を整理していたら、妙なものをみつけた。古ぼけた5年運用日記。17歳の時に、突然、思いたって書き始めたのだ。最後までやり遂げないと気の済まない性格だが、不思議なことに、その5年の運用日記は4年8ヶ月と13日で終わっている。
 ページをめくっていくと一枚の写真が出てきた。父と私が左右に分かれ、一頭の馬の手綱をとっている。父の愛馬・ヤマフジが、大井競馬場で優勝した時のスナップだ。
 父は競馬が好きで、周りの反対をも押し切って馬主になったことがある。だが、馬主生活はそう長くは続かなかった。馬のオーナーとしての経済的な負担はかなりのものだったのだろう。愛馬ヤマフジ優勝のスナップは、私達にとっても古き良き時代のひとこまだ。
 父は根岸森林公園を散歩するのが好きだった。丘の上には、古いレンガ造りの館がそびえている。開設以来立ち続ける競馬場跡の観覧スタンド。
昭和16年、ここで四歳馬のレースが行われ、優勝したのがセントライト。セントライトは、東京と京都でも勝って日本初の三冠馬となった。
「もし戦争がなかったら、ここでクラシックレースをやっていたんだ」父は残念そうに、よくそう言っていた。
 もし、戦争がなかったらで、ふと思い出した。日記が4年と8ヶ月あまりで終わっているのは、私にとっての淡い、切ない恋の戦いの終戦。「青春って、純で無邪気で、ムキになってしまうものだったじゃない。」とスナップ写真の中の二十歳の私が微笑みかけてきた。

今日の、『私の根岸森林公園物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、大多田純でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年7月31日 (月)

横浜・明日への提言(9) 横浜の将来像を議論しよう

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横浜エフエム放送株式会社 
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)


 かつて獅子文六が随筆で次のようなことをいった。
 横浜というところは船の出入りが忙しいせいか、あんなに殺風景な街は見たことがない。食い物一つろくなものがない。あれだけ船の出入りが激しかったら、わびだのさびだのといってる暇はないだろう。城下町と違ってお城のない街はさびしいものだ……。
 こんな内容だったと思う。
 作家は主観で書くから、獅子文六がどう書こうと問題ではない。比較論的にいえば、城下町にはそれぞれに根ざした封建的な遺風というようなものがあり、そこから何となく脱し切れない空気があって街全体を包み込んでいる。よそから来た人間にとっては、お城のある宿場町が日常とは別次元の魅力として映る。泊まるとしてもせいぜい三日か四日だから魅力的な面が強く印象に残る。けれども、城下町の人々はよそから来た彼らを観光客、通行人としてしかみなさない。
 横浜は伝統にしばられないから、自由に街をつくってきた。城下町のように武家屋敷町、宿場町、職人町などの強制的な区割がなされなかったから、大震災、戦災で建てては焼けの繰り返しで、伝統を感じさせる街並みが残らなかった。獅子文六の目には、だから殺風景に見えたのだろう。
 しかし、開放的で自由を愛する気風までは焼けなかった。
「今日、横浜に引っ越した。今日から俺は浜っ子だ」
「オッケー」
 これで通ってしまう。だから、秋田弁、関西弁の浜っ子が大勢いる。
 しかしながら、開放的で自由を愛する気風といっても、弊害がないわけではない。横浜はやたらとイベントが多い街で、「そんなのやめろ」という人間もいない代わり、「やれ、やれっ」と威勢よく声援を送る者も、加勢する者も出てこない。要するに自分がすることには熱心に取り組むが他人がすることには無関心で、大きく一つにまとまってやろうという気構えが欠けているわけだ。おまけに人口が370万人に迫ろうとする日本で2番目の大都市である。そういう横浜で「開港150周年」を全市的なイベントに立ち上げるのは至難のわざだろうが、考えようによっては現実にする絶好のチャンスでもある。
 しからば、どうすればよいか。
 いっそのこと何をするか無理に決める前に、横浜の将来像を真剣に議論し、せめて方向づけをすることから始めたらどうだろうか。