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2007年3月

2007年3月31日 (土)

横浜・明日への提言(25) 擬似家族とサイコロジカル・コスチューム

25

横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)

 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)はいろいろな日本人と会って聞いた意見やものの考え方を集約し著書の中で次のようなことを述べた。日本人の意見はサイコロジカル・コスチューム(精神的な衣装)なのだ。一つの団体に入るとみんな同じ着物をまとう。
 私はなるほどと感心した。日本人が精神的なユニフォームを拠りどころにしてきたのは事実だ。帰属意識を明快に持ち、個人の理屈よりも人間関係を大事にした。日本という大きな単位で見ると、個性的で多様なユニフォームが無数に存在し、それらを着た人々が互いに切磋琢磨するという構図がきちんと出来上がっていて、よい人間関係に守られながら政党や企業の間で競争が行われた。あくまでも政党間、企業間の競争であった。だから世の中は潤いを失わないで、しかも活気があった。政党にしても、企業にしても、よい人間関係を築くという基本で一致していたから、よそにライバルが存在しても励みにこそなれストレスにつぶされることなどなかった。組織にあたたかい血が通い安心して帰属できたからである。
 ところが、企業は経済のグローバル化を口実にしてコスト削減第一主義に走って国籍を捨て、競争原理に切り換えて体質そのものを変質させてしまった。昨日まで擬似家族のように助け合って一つの目的を遂げてきた仲間がいつの間にかライバルに変わってしまったのだから、社員にしてみればそれこそ腹背に敵を受けたようなものだ。職場は殺伐とし、何を拠りどころにすればよいのかわからないのだから、当然、帰属意識は薄れ、やがては失われるだろう。
 そういう社会では個人の意見やものの考え方、金銭的な目的が価値観の基本にとって代わり、組織の末端まで自分の収入を増やすことが唯一の尺度になって、サイコロジカル・コスチュームが失われてしまう。これが日本沈没のメカニズムだ。
 たとえば、選挙でいえば浮動票が過半数を占める現実が、現代社会に生きる日本人の帰属意識の喪失を物語っている。企業にしてもコンプライアンス(法令遵守)などの言葉は使わないでも、サイコロジカル・コスチュームには不文律としてきちんと含まれていた。自分からそれをなくしておいて、慌ててコンプライアンスの確立を謳うのが現在の企業社会である。
 日本沈没のメカニズムがわかれば復活の道筋は明らかである。時計の針を逆にまわしてかつてのような擬似家族を復活させ、サイコロジカル・コスチュームを取り戻せばよい。擬似家族的な組織は日本固有のもので、外国は真似たくてもどうにもならなかった。だから、あの手この手でつぶしにかかったといえなくもない。
 日本はもちろんのこと横浜の課題は擬似家族的な組織とサイコロジカル・コスチュームの復活にある。横浜市民は360万人もいるのだからユニフォームの色もかたちも多彩であって当然だが、可能なかぎり集約していく議論が必要だろう。その過程で市民は数多く有意義な経験をするに違いない。

2007年3月23日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第52回 「私の横浜桜物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の横浜桜物語」

桜前線の本州上陸は、なぜか横浜から始まることが多い。西洋文化が最初に花開いた場所だからだろうか。横浜の桜は、春の到来を真っ先に告げてくれる。
そして、桜の名所は数多い。鶴見区の県立三ツ池公園は、三つの池の周りを約千本、35種類の桜が華やかに飾り、「日本の桜の名所100選」に選ばれている。広大な敷地からなる三渓園の桜も有名だ。園内の茶店では、桜の葉を細かくきざんでつくったサクラ・アイスが堪能できる。本牧通りから三渓園正門まで約500メートル続く本牧桜道の並木も、ぜひ歩いてみたいスポットだ。
元町公園では、ひっそりとした雰囲気の園内に約百本の桜が咲いている。もとは外国人向けに造られたモダンな洋館に、寄り添うようにたたずむ桜の木。それは、港町横浜ならではの風景だ。ここには、横浜気象台が、開花した日を決める桜があることで知られている。
そのほか、港の見える丘公園の妖艶な夜桜。野毛山公園のソメイヨシノ。大岡川沿いの川面に映る桜。港南区の桜道などなど。開花が早いとされている今年の桜。どこに出かけようかと考えたときから、春はそこにいる。

 また、春がやってきた。桜が持つ華やかさと哀しさは、何処からくるのだろうか。咲く姿。散る姿。そのどちらもが美しいものを、桜以外に、私は知らない。
 今年は、にぎやかな桜ではなく、ひっそりと咲く桜を見たいと思った。有名な桜の名所が点在する横浜市中区本牧。その中でも、比較的静かに桜が鑑賞できる「本牧臨海公園」にいくことにした。ここには、キリスト、釈迦、ソクラテス、聖徳太子などといった古今東西の8人の聖人の像が配された「八聖殿」がある。その周りに桜があった。桜祭りも、夜桜のライトアップもない。でも、ここにも桜の香りは満ちていた。
 本牧臨海公園で桜を見る前に、キリストの像を見た。そして「羊飼いへのお告げ」という絵を思い出した。キリストの誕生を、天使は誰よりも先に、羊飼いに告げた。ちょうどそのころ、3人の偉い博士たちが、キリストがいつ生まれるかを予知して、神の子を訪ねようとしていた。天使は、そんな身分の高い博士ではなく、真っ先に羊飼いに伝えた。羊飼いは、そのころ社会的に貧しく身分も低かった。その彼らに、神は最も重要なことを先に知らせたのだ。
 私は、このエピソードが好きだ。いちばん嬉しい知らせは、いちばん大切なひとに知らせるということ。神にとって大切な人は誰だったかがわかる。
 臨海公園の桜は、まだ五分咲きにも満たなかった。でも、いちばん日当たりのいい場所に、しっかりと咲いた木を見つけた。その優しい桃色は、私の心に、春を灯した。この喜びを誰に告げようか。そう思ったとき、何人かの顔が浮かんだ。そのことが、また、うれしかった。
 今年もまた、春がやってきた。そのあたりまえのことが、あたりまえではなく思えて、心に華が咲いた。

今日の「私の横浜桜物語」はいかがでしたか?出演、小林節子 脚本、北阪昌人でお送りしました。
桜咲く去年の春から紡いできたストーリーも、今回が最終回になりました。また、いつの日か、新しい物語に出逢えますように。

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2007年3月16日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第51回 「私の横浜開港資料館物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の横浜開港資料館」

「横浜開港資料館」は大桟橋の付け根にある。日本の近代はここから始まった。
1854年日米和親条約締結。現在も資料館の中庭にある「玉楠の木」が、ペリーの上陸から、条約の締結を見守った。横浜港の開港はその5年後のこと。
なぜ、横浜だったのだろうか。アメリカは当時の首都であった江戸で条約を結ぶ事を望んだ。江戸に外国の軍艦が入港という事態に幕府は慌て、交渉の結果横浜村という妥協点をみつける。現在の横浜から想像もできないが、19世紀の前半横浜村は半農半漁のわずか87軒という小さな村に過ぎなかった。日米和親条約の横浜応接所と開港後の横浜居留地として脚光を浴びた横浜村。やがて大都市横浜へと発展する。

 小学3年生の姪の知美にねだられて「横浜開港資料館」に行ってきた。好奇心の人一倍強い知美は、幼い頃から素朴な疑問を私たち大人に投げかけてくる。「どうして空は青いの、海もなんで青いの」には、連れ合いがおもわず「子供電話相談室にきいてみようか」などと言いだしたこともある。今回の「横浜開港資料館」見学も、きっかけは、なぜ横浜が開港の場所になったのかだった。
 資料館で充分に時間をかけて百数十年前の横浜の古き時代を存分にトリップした知美は満足した様子。帰り道、「中華街に寄っておそばでもたべようか」と誘うと、姪のいつもの調子がでてきた。
 「叔母ちゃん、でも変だよね、日本は鎖国をしていたのでしょう。アメリカ人と開港の話しはどうしたの、英語はできたの」食い気よりも好奇心。考えてみればその昔、私自身も7歳か8歳の頃の父に同じような疑問を投げかけたことがあった。
 父の答えは意外なものだった。鎖国中とはいえ、江戸初期には南蛮学が、中期には蘭学、幕末には英学、仏学、独学という洋学が存在していたという話しではない。父は幼い私に向かって「しっかりとした日本語だ」といった。
 アメリカに対して主張すべき内容が整理されていれば、表現する手段、洋学、英語の出来、不出来は問題でない。「キチットした日本語がポイントだったのだ、節子も国語、日本語はしっかり勉強しろよ」といわれた。
 最近、数学者藤原正彦さんのベストセラー「国家の品格」を読んだ。藤原さんは真の国際人に外国語は関係ないという。明治の初め、多くの日本人が海外に留学したが、彼らの多くは西欧のエチケットを知らない、世界史、世界地理も知らない、福沢諭吉や新渡戸稲造、内村鑑三などは例外だが、多くの留学生は肝心の英語さえままならなかった。しかし尊敬、賞賛されて帰ってきた。
 その理由は、日本の古典をきちんと読んでいたこと、漢籍、漢文をよく読み、そして武士道精神をしっかりと身につけていた、この3つで尊敬されて帰ってきたというのである。
 何処かで「このニュアンス、聴いたような・・・」感じ。・・・と突然「叔母ちゃんさっきの答えは」とラーメンと汗だくになって格闘している知美が攻めてきた。私は一瞬たじろぐ。そして、「しっかりとした日本語だったのよ、知美も国語勉強しなさいよ」  「エッ、日本語!?」姪の知美は唖然としてなにも返してこなかった。

今日の「私の横浜開港資料館物語」いかがでしたか?出演、小林節子 脚本、二羽信宏でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに。


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2007年3月14日 (水)

横浜・明日への提言(24) だからGNO、やっぱりGNO

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横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)

 日本の安全神話は過去のものになったと聞く。犯罪の間口が国際的になり手口も巧妙化、件数が激増した結果、検挙率が大幅に低下したのは事実である。
 故秦野章元警視総監・法相からの又聞きだが、戦争中の日本は犯罪発生件数が皆無に等しかったそうだ。理由は「隣組」が周囲に目を配っていて、それが犯罪の抑止力になったのだという。
 日本の安全神話復活には、戦前の隣組に代わる国民的防犯意識の高まりのほかに、もう一つ欠かせない条件がある。日本は未曾有の法治国家になったが、逆に犯罪が増え、巧妙化した。法律の網をどんなに張りめぐらせても、警察・検察、裁判所が忙しくなる一方で、安全神話復活にはなかなか結びつかない。高度化しすぎた法治国家にはこのような落とし穴がある。
 思い返せば、秦野さんはこんなこともいった。
 「戦後になって犯罪が多発したのは、社会的な規範が弱まったからだ。犯罪を摘発する側も菩提心が薄れた。法律には文学もある」
 犯罪を未然に防ぐうえで国民の日常生活を律する規範つまり義理と恩返しの精神がどれほど大切か、取り締まる側は法律の条文だけでなく法の精神すなわち人情が大事だ、と私はそのように理解する。 
 社会的規制力とは道徳に裏打ちされた常識、コモンセンス、つまり、義理(G)、人情(N)、恩返し(O)である。人情をかけられれば義理が生じ、恩返しをしたくなる。私はこれを「分別の連鎖」と呼んでいる。人情をかけてくれた人に恩返しをしようとしてもいつまでも入超状態で埒が明かないから、やがて世の中という不特定多数に仕向けるようになる。結果として志操の正しい人が育ち、社会的規範がしっかりする。だから、日本の安全神話を復活させるもう一つの決め手は、やっぱりGNOだ。
 逆に「負の連鎖」がある。法治国家が行き過ぎて法律が複雑多様になると、犯罪を取り締まる側は条文を覚えるのに追われ、適用するのが精一杯で法の精神をどこかに置き忘れてしまう。犯罪者は取り締まる側が次第に機械的になっていく世の中の仕組みを逆恨みして、更生どころか報復を企てる。いわゆる悪の恩返しである。世の中、社会はどうなるか。これが、私のいう「負の連鎖」だ。
 今の日本の世の中の仕組みはどちらだろうか。
 子どものいじめ問題、非行、犯罪の横行は、世の中の仕組みを敏感に感じ取った結果である。大人、子どもの区別なく多発する犯罪・違反をなくすには病理学的な批評・解説も必要には違いないが、臨床学的な手立てが何よりものをいう。だから、秦野さんは「評論」(病理学的所見)といわないで「法律には文学もある」といったのだろう。
 ミナト・ヨコハマといえばGNO、単語にして三つ、これをすべてに当て嵌めてやってきたから仲間うちで犯罪は皆無に等しい。掟は押しつけられるのではなくみずから律して心に持つものだから簡単明瞭であることが望ましい。だからGNO、やっぱりGNOなのである。GNOを横浜全体に広め、日本全国に拡大する。そういう精神的・道徳的・国民的構造改革運動が必要な時代になった。

2007年3月 9日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第50回 「私のみなとみらい21物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、「私のみなとみらい21物語」。

港町・横浜の新しい顔として発展めざましい「みなとみらい21」。かつて造船所などがあったこの地域の再開発が計画されたのは1965年のこと。造船所の跡地と埋め立てた土地を併せて開発し、関内・伊勢佐木町と横浜駅周辺を一体化することで横浜を再生することを目的とした事業だ。
1981年に一般公募で「みなとみらい21」と名称が決定し、83年に事業は着工された。横浜ベイブリッジが開通した89年には横浜市制100周年、開港130周年を記念した「横浜博覧会」が開催された。以後、開発が本格化し1991年にパシフィコ横浜、93年に横浜ランドマークタワー、97年にはクイーンズスクエア横浜などが開業し横浜のシンボルとなっている。2004年にはみなとみらい線も開通し都心からのアクセスが充実。21世紀にふさわしい未来型都市を目指して現在も開発が進められている。

 九州に暮らす大学時代の友人と久しぶりに会うことになった。待ち合わせ場所は彼女が宿泊しているヨコハマ・グランド・インターコンチネンタル・ホテル。ラウンジに入るとすでに彼女とご主人は座っており、手を振って合図を送ってきた。
 「随分久しぶりね。何年ぶりかしら?」
 「そうね、卓也が大学に入学して以来だから、丸4年ぶりだわ。」
彼女は大学卒業後、地元・九州に戻り就職。結婚後、3人の子宝に恵まれた。卓也君は一番下の子で、彼の大学の卒業式に出席するため旅行を兼ねて横浜を訪れたのだ。
 「私、ずっとここに泊まってみたかったの。テレビや雑誌で横浜が紹介されると、必ずヨット型のこのホテルが映るでしょ?卒業式の会場とも近いからと言って主人を何とか口説いたの。」友人がそう話すと、隣のご主人は苦笑いを浮かべた。
卓也君の卒業式は、すぐ近くのパシフィコ横浜国立大ホールで明日行われるという。ここ数年、神奈川にある多くの大学が入学式や卒業式の会場として使用しているようだ。しばらく話したあと、私は彼女を連れみなとみらい21を案内することにした。
 私は、4年ぶりという彼女に、まず横浜赤レンガ倉庫やGENTO横浜などこの4年の間にオープンした施設を案内した。GENTO横浜の「横浜はじめて物語」で開港当時のレトロな雰囲気を楽しんでから、ジャックモールそして横浜美術館の前を通り、横浜ランドマークタワーへ。館内に入ると、袴姿の若い女性のグループを見かけた。彼女たちは今日卒業式を迎えたようだった。
 「明日は卓也君の番ね」と話しかけると「ええ。でも、明日の卒業式は私たち夫婦の卒業式でもあるの。末っ子のあの子が卒業して社会に出ると、親の役目は終了でしょ?これで私たちも子供から卒業なのかなぁって・・・。いろいろ大変だったけど、ちょっぴり寂しいわ」友人は微笑みながらそう言った。
 「そっか・・・。卒業おめでとう」
 「ありがとう。これからは夫婦の時間を大切にしていきたいわ。実は今度夫婦で温泉旅行に行くの。子供たちからのプレゼントよ。それが私たちの卒業証書じゃないかしら?」彼女は卒業式を迎えた袴姿の女子大生のように清清しく微笑んだ。
 
今日の「私のみなとみらい21物語」いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、二羽信宏でおおくりいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また、来週をお楽しみに。


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2007年3月 2日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第49回 「私の横浜ビール物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の横浜ビール物語」

横浜開港6年目の1864年のこと。ウィリアム・コープランドというアメリカ人が、横浜にやってきた。彼の夢はビール醸造所をつくることだった。ノルウエーに生まれて5年がかりでビールの醸造を学び、さらにアメリカに渡ってビールを研究した彼は、アメリカに帰化したのち日本にやってきた。横浜に住んで6年。1870年に、ついに念願の日本で初めてのビール醸造所スプリングバレー・ブルワリーを、天沼の豊富な湧き水を利用できる横浜山手の居留地区123番(現在の中区千代崎1丁目25番)に建設した。
日本人はこの工場でできたビールを『天沼ビアザケ』と呼んだ。その醸造所は1884年に閉鎖されたが、翌年にはジャパンブルワリーとして再建された。そして1888年にキリンビールというブランドが生まれる。のちに麒麟麦酒株式会社がこれを引継ぎ、関東大震災までの半世紀にわたりビール産業の歴史を刻み続けた。工場のあった「キリン園」跡地には、麒麟麦酒開源記念碑が立っている。

 キリンビール横浜工場ビアビレッジで、「ビール五千年の旅」探求プロジェクトがあると聞き取材に出かけた。
 ビールの起源は思ったより古い。古代メソポタミアではシュメール人が麦からビールをつくりはじめたという。その様子はモニュマンブルーの粘土板に残されている。まず麦芽を作り、砕いて水とこねる。軽く焼いてパンをつくり、それをほぐして温水を加える。おかゆのようにすると麦芽アミラーゼの働きで糖分が増え、酵母が増殖して発酵しビールになる。その上澄み液を細い管で飲んだのが最初とされている。
 こうしたビールづくりはシュメールからバビロニア、エジプトに伝わった。当時のビールは、医薬品としても使われていたらしい。もっと驚いたことに、あの巨大ピラミッドを建設した何万という人々に、パンとビールが支給されていたというのだ。
映画や小説に登場する古代エジプトのイメージは、国王が国民を従え、むちをうって、自分の大きな墓を作らせていたというものだった。
 しかし、ピラミッドを作った人々が住んでいた町の跡を調べると意外な姿が見えてきたという。実は人々は喜んで働いていたのだ。普通の農民や職人がまるで会社にいくように、規則正しく通っていた名残がみつかった。食事や休暇もキチンととり、医者にも恵まれ、出勤簿までつけていたという。
 とはいっても、王族と一般庶民との食べ物は違った。王様がフルコースなら、庶民は、にんにくと大根がメインだった。しかし王様と庶民が、共通して楽しんだものがビールだった。
 全てのエジプト人が、1日の始まりと1日の終わりにビールを飲む。そんな姿を想像していたら「1888年のビールを再現したものがあります!」と係りのひとが持ってきてくれた。口を近づけると麦芽の香り。まるで自分がピラミッドの前に立っているかのように、ゆっくり喉を潤した。

今日の「私の横浜ビール物語」いかがでしたか?出演、小林節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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