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2006年4月21日 (金)

ヨコハマ ストーリー 第4回 「私の野毛山公園物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。


魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。
そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、「私の野毛山公園物語」

 横浜野毛の街から野毛坂を上り、横浜市立図書館の角を左に折れると、道の右手には木立に包まれた緑濃い一画がある。そこが野毛山公園だ。野毛山公園は日本庭園、西洋庭園、折衷庭園の三つ様式を持った公園として1926年(大正15年)に開園した。第二次大戦後、しばらく米軍に接収されていたが。1949年(昭和24年)日本庭園だった部分に動物園が、1951年(昭和26年)洋式庭園だった部分に児童遊園が造られ、整備を加えながら現在の野毛山公園になっている。
 野毛山公園には、横浜にゆかりのある人の記念碑が3つある。まず入ってすぐの散策路の傍らに著名な女流俳人「中村汀女」の句碑がある。高浜虚子に師事したホトトギス派の中村汀女は、日常を題材にしながらも叙情性に富んだ句を詠んだ人として知られている。
 中村汀女の句碑から歩を進めて、噴水のある広場の上側へと散策路を行くと、佐久間象山顕彰碑がある。幕末の松代藩士、佐久間象山は、横浜開港を推進した人物と言われ、開港百年を記念して1954年(昭和29年)この地に顕彰碑が建てられた。
 佐久間象山顕彰碑の傍らを過ぎて道路に戻り、動物園入り口横から吊り橋を渡ると野毛山配水池がある。そこに「近代水道発祥の地」の記念碑としてヘンリー・スペンサー・パーマーの胸像がある。パーマーは水道創設の際、技術指導を行ったイギリス人で、横浜水道創設百周年を記念して1987年(昭和62年)に胸像が建てられた。
 公園の開放的な雰囲気いっぱいのこの広場は、高台に位置している。周囲に視界が開けており、近くの展望台からは港方面の眺望が楽しめる絶好のロケーションである。今日、野毛山公園は市民のいこいの場所として、また観光の名所として多くの人々に愛されている。

 私の実家は西区宮川町。「野毛山公園は我が家の庭のようなもの」と言ったら少し大げさだろうか・・・でも本当に近い。公園の広場にはよく遊びに行ったし、高台の展望台から、はるか遠くに船や大きなクレーンなど、港の風景を楽しんだものだ。
 そして公園の外には二階建ての小さな放送局があった。それは1958年(昭和33年)に誕生したラジオステーションで、アメリカ軍のラジオ局WVTR現在のFENを意識した外国音楽が中心の放送局だった。
フランソワーズ、モレシャンさんのエレガントなフランス語には、遥かパリを感じ、ケン田島さんの格調高い英語にはイギリスやアメリカを感じたものだ。また流れてくるアメリカンポップス、ジャズ、カントリー、ハワイアン、シャンソン等、外国音楽の魅力にすっかり引き込まれてしまった。特に当時まだ誰も聴いたこともなく、全く知らなかった新しい音楽、ボサノバそしてモダンフォークミュージックを初めて耳にしたときの感動は大きく、当時の私の若い心を強く踊らせて止まなかった。
 私は日本人で、しかも生粋のハマッ子だが「音楽の国籍はどちら」と問われれば、すぐさま「外国籍」と言いたいくらいすっかり洋楽ファンになっていた。             
 大学時代、私には音楽仲間と言ってもよい五人の友人がいた。私達は、年数回に集まり、野毛山公園に行っておしゃべりしたり、歌ったりするのがきまりのようになっていた。仲間のうちの一人浩君は、私達女性のアイドルだった。彼の足はスラッと長く背も高くスマート。当時流行していたアイビーファッションがよく似合っていた。さらに憧れの、マーティンのフォークギターを持っていて、これがとても上手。おまけに新しいモダンフォークも知っていたので人気を独占しても不思議ではなかった。浩君には「花はどこへ行った」等モダンフォークを教えてもらい、芝生の上でみんなで歌い、楽しい時間を過ごした。
 そんな折、「花はどこへ行った」を作ったモダンフォークの神様的存在「ピートシーガー」が川崎でコンサートを行うという知らせが伝わってきた。私達は野毛山公園に集合してから聞きに行く事を約束していた。しかし約束の時間が過ぎても浩君は現れなかった。急病だった。みんなで一緒に行こうと決めていたので私達はコンサートをあきらめることにした。
 それからまもなくして浩君は外国に旅立ってしまった。以来みんなで会うことはなくなったが、彼はアメリカで音楽関係の仕事をしていると友達が教えてくれた。
 今でも野毛山公園のあたりを通ると、残念な一日もあったが、楽しかったたくさんのことを想い出す。しかし、もうあの時の歌声は聞こえてこない。さらに昔のラジオ局の跡は、アンテナらしきものだけが残され駐車場になっていて、昔胸を躍らせて聴いた音楽ももう聞こえこない。
 ボブディランが「時代は変わる」と歌ったように、間違いなく時代は、しかもどんどん早く変わっていってしまう。でも私達に想い出を残してくれた野毛山公園はこれからも市民の憩いの場であってほしいと願う。私の心の中にも、あの時代のことと共にずっと生き続けていくのだから。

今日の、「私の野毛山公園物語」いかがでしたか。
ヨコハマの魅力と由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」出演、小林節子 脚本、浮田周男でお送りしました。
なお、野毛山公園へは、JR線「桜木町駅」から歩いて約15分。京急線「日の出町駅」から歩いて約10分です。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年4月14日 (金)

横浜・明日への提言(2) ジャンク・フード その①

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横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)


前回述べた「技術の継承」ということでいえば、子どもの発育上好ましくないという理由でイギリス政府がジャンク・フードの広告を規制する動きを見せていると聞いて、私は思わぬところに原因を見出して強い衝撃を受けた。
 脂肪・カロリーの高いスナック菓子類、清涼飲料、糖分の高いアイスクリームなどをひっくるめて「ジャンク・フード」という。これらが子どもたちの肥満を助長し、従来は成人病に位置づけられた糖尿病、高血圧、心臓病、狭心症、身体能力低下などが、若者たちの心身を蝕む諸悪の根源として槍玉に挙がったというのである。まだ社会へ出ないうちから若年糖尿病などの思いもよらない事態で闘病生活を余儀なくされる、あるいは借金地獄に陥ってしまう――こういう気の毒な若い人たちが現実に激増している。技術の伝承どころか、世の中の食の構造改革から始めなければならなくなった。
健全な精神は健康な体に宿ると古くからいわれてきた。私たちは一日三食の暮らしを当たり前に繰り返しているが、問題は食事の取り方である。好き嫌いを基準にして明日なき食事とするか、人生を逞しく生き抜く健全な体をつくる不断の営みとするかで自分の人生の明暗が分かれるとしたら、だれであろうと「この一食」をなおざりにはできまい。だから、子どもが健康に育つうえで食の体験を無視するわけにはいかない。
この世で最も恐ろしいことは、危険を知らされないまま被害者にさせられることだ。
 飽食の時代とか飽食社会といわれている。平和な時代が高度成長をうながし、豊かな暮らしが飽食生活をもたらしたことは確かである。しかし、平和万歳、ゆたかな暮らし万歳を叫ぶ前に、わずかながらでも立ち止まって「ちょっと待てよ」と考え、テレビCMなどを用いて次々と仕掛けられるジャンク・フード攻勢によってもたらされる生命の危険に思いを致す必要がありはしまいか。
どうしたら身を危険から守ることができるか、次回は少し掘り下げて考えるとしよう。

ヨコハマ ストーリー 第3回「横浜ステーション物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。


魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。
ペリー艦隊が来航した時から、その歩みは始まりました。
そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。
そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく
「ヨコハマ・ストーリー」今日は、「横浜ステーション物語」

横浜駅は、現在の場所に移るまで、実に56年の歳月を要した。駅舎の流浪の旅は、1872年10月14日、横浜、新橋間の開通に始まる。当時の横浜駅は、今の桜木町駅の場所にあった。駅舎は、アメリカの建築家ブリジェンヌ氏が、設計し、前年の9月に完成している。
当初、横浜駅は、桜木町駅から大江橋を越えて関内方向に造られる予定だった。しかし、蒸気機関車による火事を危惧した住民の強い反対により、現在の桜木町までしか鉄道が造られなかった。
1889年に東海道線が全線開通したが、下り列車は神奈川駅から横浜駅に入り、そこで機関車をつけかえて同じ線路を通って保土ヶ谷駅に向かうルートしかなかった。
神奈川と保土ヶ谷を直接つなぐルートを設置するべく、現在の高島町付近から平沼橋付近に線路がひかれた。1901年には、その間に平沼駅が開設されたが、その名のとおり、駅周辺は湿地帯で土地の状況はよくなかった。
世界につながり、栄えつつある港の町、横浜にふさわしい駅舎をという要望にこたえ、1915年8月に、高島町にレンガ造りの駅舎が完成した。そこを横浜駅と名づけ、従来の横浜駅は、桜木町駅と改名された。さらに、この横浜駅も立地に問題があり移転を迫られ、1928年9月に、ようやく現在の横浜駅の位置に駅舎ができあがった。
ドイツ風の重厚なコンクリート造りは以来50年以上威厳を保ち続けた。

ある日曜日、夫は「久しぶりに友達に会うんだ」と言って出かけていった。定年を控え、最近、少し元気がなかったので、私は「いってらっしゃい」と明るく送り出した。夜になって、帰ってきた夫は、にこやかに笑いながら、友達との再会の話を聞かせてくれた。
桜木町駅に降り立つのは、16年ぶりになる。商社勤めの常で、海外暮らしが長かった。妻と娘を日本に残し、単身で渡った国は片手では足りない。電車から吐き出される人の群れ。乗り込む人の流れ。休日のホームは家族連れと恋人同士であふれていた。
今日は16年ぶりに友人に会う。待ち合わせは横浜美術館。16年前、友人と私は横浜博覧会の開催に奔走した。そして、その会の一施設として開館したのが横浜美術館だった。桜木町駅構内の壁に「エドモンド・モレルの肖像」がある。彼は1870年、横浜、新橋間の鉄道開設2年前、初代鉄道建築士の責任者に就任したことで知られている。
その実直な人柄は、伊藤博文も絶賛したらしい。彼も、異国の地での生活を精一杯やり遂げたのだ。滞在わずか一年半での病死は、その任務の過酷さを物語っている。今は、外人墓地に夫人とともに眠っているという。
駅を出て、ゆっくりと歩く。待ち合わせの時間までには余裕があった。春の陽は暖かく、ときおり優しい風に潮の香りがした。定年をひかえ、自らの心を見つめるゆとが
生まれた。先ばかりを見つめ、前ばかりを目指してきた自分の人生において、初めての「振り返る」という心の動き。とまどいや不安もあるが、そんな心の行方に身を任せてみたいという願望もあった。そんなとき、突然友人が会いたいと言ってきた。
彼は、行政側の現場担当者として、博覧会に携わった。がっしりした体は野球で鍛えたものだと笑った。その笑顔に救われた。運営にたどり着くまでの幾多の苦難も、彼の「まあ、なんとかなるでしょう」のひとことで乗り越えられたような気がする。彼は私より先に一線を退き、今は横浜郊外で、静かに暮らしていると人づてに聞いた。彼が「静かに暮らしている」様子はうまく想像できなかった。突然の再会の誘いは、パソコンだった。年賀状に書いておいたアドレスにメールがきた。
「たまには、ノスタルジーにひたってみましょう。郷愁に心をゆだねるには、横浜はいい街です」と彼は書いた。
整備された道を歩いていると、家族連れとすれ違った。小学二、三年の女の子が、右手に真っ赤な風船を持っていた。16年前、娘もあんな歳だったな、と思った。その娘が来月嫁に行くのだ。
階段を下りると、美術館が見えてきた。丹下健三設計による堂々としたたたずまい。ふと、こちらに向かってくる男性が見えた。がっしりした体躯は、いくぶんやせてしまったが、忘れられない笑顔があった。そして、その微笑みは「まあ、なんとかなるでしょう」と言っているように見えた。私は、年甲斐もなく、大きく手を振った。彼もまた、手を振りかえした。春の午後にできた二つの影が近づいた。
大きく手を振る夫の姿がはっきりと想像できた。私は、友達との再会のシーンを聞きながら、そっとつぶやいた。
「まあ、なんとかなりますよ」

今日の、「横浜ステーション物語」いかがでしたか。ヨコハマの魅力と由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」出演、小林節子、脚本、北阪昌人でお送りいたしました。また来週をお楽しみに・・・

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2006年4月 7日 (金)

ヨコハマ ストーリー 第2回「私の伊勢佐木町物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。
ペリー艦隊が来航した時から、その歩みは始まりました。
そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。
そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」 
今日は、「私の伊勢佐木町物語」

JR根岸線関内駅のところに、1870年明治3年日本で最初の「鉄の橋」吉田橋が架けられた。そして1907年、明治44年鉄筋コンクリートの橋に作り替えられ、当時我が国の最も近代的な橋の一つとして有名になった。
この橋を境に港側が関内、外側の関外が伊勢佐木地区と言われている。
現在の吉田橋からウェルカム・アーケードをくぐって真っ直ぐに延びる道に1978年、昭和53年、伊勢崎モールが作られ1丁目、2丁目に歩行者天国が誕生した。以来1丁目から6丁目にかけて四つのオブジェが制作されたり、近年アミューズメントパークも出来て老若男女が楽しめる魅力的な町となっている。
伊勢佐木町を語る上で大変ユニークな事と言えば、新旧の歌手・グループの歌と演奏活動がこの街を全国的に知られるようにしたことであろう。
古くは1960年代後半、青江三奈さんが歌って大ヒットした「伊勢佐木町ブルース」がこの街に歌の足跡を残したこと。
新しくはモールの路上ライブからスタートし、全国へ飛び立っていったフォークデュオ「ゆず」がストリートからスターへの新しい夢の道を作ったこと。
「伊勢佐木町ブルース」の歌碑と青江三奈さんの看板のある伊勢崎モール4丁目には年配の方々が・・・そして日曜夜のライブでモールを埋めつくすほど人を集めたデパート前のところには、今も若い「ゆずっ子」が記念撮影に訪れる光景を今も目にする。これからも伊勢佐木町は、若い人からお年寄りまで誰もが伊勢プラを楽しめる、そしてヨコハマの「下町感覚」をたっぷり味わうことが出来る街であり続けるだろう。
先日ニュースで、春の選抜高校野球に神奈川県の名門校が、45年ぶりに出場すると話題になった。偶然私はその高校で野球をやっていた宏之さんと知人であり、何しろ45年ぶりの甲子園だから、早速「おめでとう」と電話をした。そうしたら「OB仲間と甲子園に行くんだよ」とはしゃいでいた。

そう私達女子中学生3人組が宏之さん達と会ったのは伊勢崎モールの老舗の大きな本屋さんだった。宏之さん達は初めてこの街に来た様子で、きっと捜し物の場所がわからなかったのだろう、私達にスポーツ関連の本のある場所を聞いてきた。案内をしてあげて本はすぐに見つかった。そして私達が買い物を済ませ表通りに出ると、宏之さんたちが
「さっきはありがとう。」
「お茶でもおごるよ」
「ここ初めてだからいいお店教えてよ」と声をかけてきた。
私達は三人ということもあり、おまけに調子よいテンポで誘われたので一緒に行くことにした。
「どこがいいかしら」
「あそこはどうかしら」
あれこれ迷った末、私達のたまに行くお店で美人のおばあさんのいる甘味喫茶に彼ら三人を案内した。
「何にする?」
「みつまめ」「おしるこ」「アイスクリーム」
あれもいいし・・・これも食べたい。時間をかけてやっと注文が決まって私達は思わぬ3時のおやつに恵まれ、喜び合った。
「お前があんな球投げるからだろ・・・」
「なんて足が遅いんだ・・・」
「球をよく見て打てよ・・・」
といった会話から野球の選手達だとわかったのは、しばらくしてからだった。
そして最近はいいところまで勝ち上がるけど、惜しくも負けてしまう。しばらく甲子園から遠ざかっていて、悔しい思いをしていることが伺いしれた。
私達の地元には、野球の強い高校があり、その生徒達のことを街でよく見かけることがあったが、同じ野球部でも宏之さん達にはかなり違った印象を受けた。
間もなくして、店を出て伊勢プラしていたら夕方近くになっていた。
当時の伊勢佐木町は、かなり大人の街だったので、私達中学生は暗くならないうちに帰ることにした。宏之さん達は封切館、今で言うロードショー劇場で洋画を観ることに決めていた様子だった。
「次は頑張って」
「今度応援に行くから」
「オー」
「必ず来いよ」
と言い合いながらわかれた。
伊勢崎モールで彼らと知り合ったことがきっかけで試合は二回も見に行ったが。しかし彼らは、卒業するまで甲子園に行くことはなかった。
私が本格的に野球を観たのはあの時が初めてで、以来野球に興味を持ち好きになったのは間違いなく彼らからの影響だった。
後輩達が達成した45年ぶりの甲子園出場、おめでとうございました。

今日の、「私の伊勢佐木町物語」いかがでしたか。ヨコハマの魅力と由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」出演、小林節子、脚本、浮田周男でお送りいたしました。また来週をお楽しみに・

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2006年3月31日 (金)

横浜・明日への提言(1) 職人・芸術家・労働者、生き方の選択肢

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横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)


バブルがはじけてから日本の十数年間は景気の後退に悩み、あらゆる産業が元気をなくし、企業は必死の思いでリストラに活路を見出そうとしてきた。学卒にとって就職は狭き門となり、ニート、フリーターという生き方が生まれた。私らから見ればニートもフリーターも不運な時代に生まれた被害者なのだが、彼らは愚痴一つこぼすでもない。そういう意味では褒めてあげたい。
今また企業に元気が戻って学卒の採用が増え始め、時の歩みを合わせたかのように団塊の世代の一斉退職すなわち2007年問題が浮上した。各産業分野の技術を担い底あげしてきた世代が退場し、ぽっかり開いた空白域には技術も経験もない新人が入ってくる。
これからの時代のキーワードは、当然、技術の継承になるはずだ。
企業社会で団塊の世代が管理職になってから、これから起きる大問題を予感させる事故がたびたび起きていた。東海村原発のバケツリレー、自動車メーカーの欠陥隠しなど、日本の戦後の復興を担った戦前世代の経営者や技術者には考えられないような稚拙な事故や事件が多発した。戦前世代を戦後第一次世代とするならば、団塊は戦後第二世代、団塊以降は戦後第三世代ということになるが、どこかで継承がつまずいて、技術者の間に年齢を重ねるごとに蓄積されてきた「えもいわれぬ暗黙知」が途絶えつつある。すでに途絶えたという声すらある。
団塊の世代がいてもこのありさまだったのに、いなくなったら日本の産業、企業はどうなってしまうのか。
まして、日本は昨年から人口が減少に転じ、企業の間では人材の獲得に深刻な悩みがささやかれている。では、生産人口が減って就職環境がよくなるのかといえば、必ずしもそうとはいえない。一難去ってまた一難の企業は採用する人材の選別を厳しくし、足りないところは派遣社員やパート労働力で補う傾向を強めることだろう。ニート、フリーターには明日がないという現実は変らない。
そのことも問題だが、より以上に技術の継承は深刻な課題である。企業そのものが生き残りの岐路に立たされているのだ。どうすれば迫りくる危機を打開できるか。まず、団塊の世代まで継承されてきた「暗黙知」が何かを各自が再確認することではないか。
ハンチントンは「文明の衝突」で、世界に存在する文明を八種類か、または十三種類に分類しているが、日本の文化文明は他のいずれにも属さない独特のものであると断じている。日本人の価値観は世界中に類型がないというのである。
日本の工芸技術が近代西欧社会で最初に評価されたのが漆器である。漆で器にまくをつくるという発想は中国から伝来したものだが、古来からすぐれた木地挽の技術を伝承し良質の漆を産することから「漆工芸」は日本の独壇場になった。職人は工芸の幅を一気に広げて美しい色模様の貝殻を使って螺鈿を生み出し、その堅牢さに着目して兜に代わる陣笠を発明した。汎用品から芸術的な工芸品にいたるまで広く普及していく過程で、漆工芸は日本を代表する技術に磨き上げられた。日本製の漆器に最初に接した西洋人は「ジャパニング」の名で呼び、その技術の粋に酔い、舌を巻いたという。
ひるがえって、今、高く評価されている画家の作品、何十億何百億円で競売に掛けられている画家の作品、それらが制作された当時の評価はどうであったかというと、ゴッホのように存命中は一顧だにされなかった例もある。たまたま売れても、家族を養う生活費にはならなかったろう。売り物にもならないものに努力を傾注する営みを、合理主義者は嘲笑するかもしれない。しかし、作品にとって大切なのは、作品がつくられる背景となった時代、思想、文化、作者の全人格の投影である。それらが評価されるのが死後数十年後であったとしても、あるいは後世になって鑑識眼に優れた人間が現れたとしても、作品がなければ何も始まらないわけである。
私は港の仕事をしているが、そこには作品というものが存在しない。貨物の移動に伴う作業が労働のすべてである。しかし、作業に携わる人たちは身体と一体になった技術に磨きをかけ、努力の傾注においていかなる職人、芸術家にも劣らない。技術はかたちを取るとは限らないという見本である。
どういうかたちであれ、技術を磨き駆使する喜びを知れば、「暗黙知」の何たるかがみえてくる。知ることは愛することにつながり、いかに生きるかの答えが自然に出る。評価を得るのはそれからのことだ。
どうか、みなさん、世の中の不都合に屈しないで、あるいはまた合理性のみを価値の基準にしないで、人生の充足感につながるよう「生き方の選択肢」を増やし、評論家のわけ知り顔の机上の見通しに惑わされることなく、みずから築いた信念で確かな一歩を記していただきたい。

2006年3月28日 (火)

ヨコハマ ストーリー 第1回 私の大桟橋物語

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ヨコハマ ストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日6:45~出演:小林節子 )に放送された番組の脚本再録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
日本そして世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。
ペリー艦隊が来航したこの時からその歩みは始まりました。
そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。

そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」
第1回目の今日は、「私の大桟橋物語」

安政6年、1859年、現在の横浜港大桟橋のある海岸に二本の波止場が完成した。突貫工事で造られたこの150年前の波止場こそが現在の日本を代表する大桟橋へと発展していく第一歩だった。
それから50年後の明治43年、1910年、横浜と関わりの深かった明治の文豪、森鴎外は三田文学に「桟橋」という短い文章を載せている。

桟橋が長い長い。四筋の軌道が縦に斜に切っている鉄橋の梁「はり」に、長い桁と短い桁とが子供のおもちゃにする木琴のようにわたしてある。靴の踵や下駄の歯をかみそうな桁の隙間から、所々に白く日の光を反射している黒い波が見える。空は真っ青に晴れている。

これは100年前の大桟橋。どこかのどかな風景の描写であるが、埠頭が出来、横浜が世界への玄関口として国際舞台へ登場していくことを決定づけたまさに横浜の夜明けといってもいいようだ。
以来、何回もの改築、改修、拡張を経て平成14年、2002年には客船クルーズ時代にふさわしい、国際客船ターミナルを持つ 現在の横浜港大桟橋となっている。   

私が帰宅して部屋に入ると「ママ宅急便が届いてるわ。」と二階から娘の声がした。テーブルの上には荷物が置いてある。送り主を見ると友人の信子からのものだ。早速開くと手紙と共にさわやかな桜色のパッケージが現れた。
華やかな包装からお菓子だなとすぐ感じた。どんなお菓子かしらと中味もとても興味があったが、まず手紙を読むことにした。
その手紙には、昨年私の親族に不幸があって何かと多忙と推察したことや新年の挨拶も失礼したこと。おまけに寒中お見舞いも出し損ねてしまったが元気を出してと励ましの言葉が書かれていた。
お菓子は春らしいからと、またよく味わえば昔の事もいろいろ想い出すからと意味不明のことも書かれていた。
しかし信子の優しさが、最近ふさぎ込んでいた私の心にしっかりと届いた。そしてきれいな桜色の包装紙の贈り物は、間違いなく私の家にも遅い春が来たような気分にさせた。パッケージを開いてみると、山下町のレストランの洋菓子だとわかった。いつも行動に一工夫とアイデアのあるセンスのいい信子のこと、きっと何かあるんだわと感じつつ、ようやく春を意識出来る余裕が私にも生まれたのかしらと思っていたら二階から大きな声で「ママ、中は何なの」「お菓子よ。今お茶を入れるから」と答えた。

「お茶が入ったわよ」娘は猫と一緒に二階から下りてきて、じっと見つめてから「まあ美味しそう、二つもらっていい」と言うとお茶を持って自分の部屋に戻っていった。手を休める事が出来ない何かをしているみたいだ。猫はお菓子の匂いを少し気にしただけで自分のものではなさそうだと興味を示さずソファーに飛び乗って片隅の定位置で丸くなった。お菓子はゼリーの洋菓子だ。レストランのお菓子ということを想い出し説明書きを読むと、そのレストランは、昔私達がいったことがあるお店と同じ名前だった。しかも山下町。
信子と私と男友達二人。四人で横浜港にクイーン・エリザベスⅡが入っているというので見に行ったことがあった。
1975年、クイーン・エリザベスⅡが初めて日本に来た時に、私達は横浜に行き、あの素晴らしく大きな船を見てみんなで感動した。大桟橋で船をバックに何枚も写真を撮った。今でもその時の写真は持っている。そしてその帰りに立ち寄ったのがその名前のレストランだったのだ。そう、大桟橋通りを真っ直ぐに戻って大きな道を超えてすぐのところ。お腹の空いていた私達は、お酒を飲んで食事をし、色々なことをよくおしゃべりして最後にお茶を飲んだ。季節は春だったが、若かった私達の心は夏真っ盛りだった。
そのレストランは今もあるんだ。大桟橋とクイーン・エリザベスⅡとレストラン。大げさに言ってしまえば人生でたったの一日。信子は、たまたまその船を一緒に見に行った二人の男友達の一人、徹と結婚し一男一女に恵まれ幸せに人生を送っている。私とは今でも親友だ。そして今日「桜ゼリー」という洋菓子と共に冬だった私の心に明るい春を届けてくれた。身体も不思議に軽くなったみたいだ。五月には、大桟橋にクルーズの豪華客船も入ってくる。港まつりのパレードもある。信子を誘ってあのレストランにも行ってみよう。
私は立ち上がりカレンダーを確認し、信子に伝えようと電話のある方に向かった。ソファーの猫も目を大きくして私の変化を気にしていた。

ヨコハマの魅力と由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」
今日の、「私の大桟橋物語」いかがでしたか。出演、小林節子、脚本浮田周男でお送りいたしました。

なお、横浜大桟橋へは、みなとみらい線「日本大通り駅」から歩いて五分です。春の一日、大桟橋の豪華客船をはじめ、山下町の街並みを楽しんでみてはいかがでしょう。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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