横浜・明日への提言(88) 情報提供元年にしよう
代表取締役社長 藤木幸夫
(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長、株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)
今年の年頭所感は今年を「情報提供元年」にしようという提案である。情報公開は国民や市民から請求があった場合、文書などの情報を公開するという消極的なもので、いわゆる揚げ足取り的に用いられやすく、それが国民・市民に多用されたら間違いなく国家・地方自治体の組織機構はマヒするだろう。それに対して情報公開は高度のノウハウを必要とするが、提供した情報が活用されればそれに比例して世の中の認識が深まる利点がある。
どういうことかというと、終戦直後、連合軍占領下の内閣総理大臣幣原喜重郎は戦前から親英米派であったことから憲法九条の成立に大きな役割を果たしたように誤解されてきたが、ある事実を知って私は認識が一変した。事実はどうであったかというと幣原喜重郎はみずから中心になって日本独自の憲法草案を起草したのだが、GHQに大鉈を振われ、遂には憲法九条を受け容れなければならなくなったとき、内閣全員が悔しさのあまり男泣きに泣いたというのである。憲法九条成立時の総理だから大きく役割を果たしたように誤って伝えられたのだと思うが、真実はまるで逆であった。
事実を事実として伝えるか、事実をもとにした解釈を伝えるか、大いに考えさせられたのが、小泉内閣で金融経済政策担当大臣を務めた竹中平蔵慶応大学教授(元参議院議員)が大臣在任中頻繁にアメリカ詣でを繰り返したこと、それを本人が認めたという小さな囲み記事がある大新聞の紙面に載ったときであった。具体的な回数と個々の目的が明記されていたら事実報道になったのだろうが、頻繁という表現は取材した記者の解釈だからうっかり引用できない。つまり役に立たない。恐らく記者は抽象的な表現でも竹中氏が何か事あるごとにアメリカ本社へ報告に行って今後のおうかがいを立てるアメリカ日本支社総務部長的役割を果たした、読者はそう理解できるはずだと勝手に解釈したのかも知れない。
まず事実を伝える。そこから入るのが基本で、解釈論から入ると落としどころが見つからないまま泥沼にはまってしまう。その典型例が日本の歴史の記述で、従来から百人いたら百人の勝手な解釈論で論争が行われてきた。だから、歴史の記述が事実からどんどん遊離していってしまう。聞くところによると、今、日本史に必要なのは事実が提示されたら即解釈するのではなく、前後の事実との合理的整合性をも含めた検証、その方法論の確立だという。
確かに事実は解釈より重い。幣原喜重郎以下内閣全員が泣いた事実を知っただけで、私の憲法観は一新された。しかし、憲法改正は手続き的にむずかしい面があるから、せめて政府には国会の審議で実現可能な国産「教育三法」すなわち改正法などではない学校教育法、地方教育行政法、教育職員免許法を誕生させて欲しいと望むようになった。
どうぞ、本年もよろしく。