ヨコハマ ストーリー 第42回 「私の外国人墓地物語」
魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の横浜外国人墓地物語」
JR石川町駅から地蔵坂を上り山手本通りへ、港の見える丘公園をめざして左へ進む。フェリス女学院、山手聖公会、山手資料館をすぎると左手に横浜外国人墓地がある。
この墓地には、1854年にペリー艦隊で事故死したウイリアムズ水兵を埋葬したことから始まり、生麦事件のリチャードソン、鉄道事業の祖エドモンド・モレル、ポンチ絵の巨匠ワーグマンなど40を超える国の4000を超える人々が眠っている。墓地の入り口の横には外国人墓地資料館があり、日本の近代化に貢献した外国人たちのパネルの展示や墓地の歴史、横浜の歴史を紹介されている。
元町の「喜久家」はいつもの待ち合わせ場所。
「お待たせ」「参りましょうか」
そういって叔母とマリアンヌの眠る横浜外国人墓地を訪ねたのはついこの間のことだった。終生、独身だった叔母は日本人離れした美しい人で、私を我が子のように可愛がってくれた。元町で会って外国人墓地へというのがおきまりのコース。作家中里恒子の「墓地の春」などに登場する美少女マリアンヌの墓参りを、叔母はいつも楽しみにしていた。
中里恒子の姪にあたるマリアンヌは日本人の父と英国人の母の間に生れ、幼い頃日本にやってくる。戦争がつづく昭和の時代、横浜の山手とはいえ外国人の血を引くマリアンヌにとって暮しにくい辛い時代だった。人間関係や政治のはざまで苦しみ20歳で逝き、外国人墓地に葬られた。 同じ時代を横浜で過ごし、若い頃「外国人」とからかわれたという叔母にはマリアンヌに共感するものがあったのか・・・・・・。
その日、外国人墓地は、秋の陽の光に大理石や花崗岩の様々な形をした墓石がきらきらと輝いていた。金曜日だった。金曜,土曜,日曜日は一般の人でも中に入ることができる。何度も訪ねているのでそう思ってきたのだがどうやら規則が変わったらしい。
「しょうがないじゃない。来年の春に、ね」叔母はそういって、十字を切り墓地を後にした。
「喜久家」の入り口近くのいつもの席。きょうは、わたし一人。通りには明るい日の光が流れて時間は止まらない。ひとり分の会計をして店を出る。
両側から枝がかぶって小暗い見尻坂を登る。陽だまりで一息、あの日もそうだった。肩で息をしながらも凛とした叔母の姿、はっきりと覚えている。でも今は全て過去形になった。気が付くと外国人墓地。
あの日と墓地の表情はかわらないが、十字架や彫刻の施された苔むした墓標に新春の光が当たり懐かしい音楽を奏でている。時はいつものように流れやがて春はやってくる。
今日の「私の横浜外国人墓地物語」いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、大多田純でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに。