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2006年7月

2006年7月31日 (月)

横浜・明日への提言(9) 横浜の将来像を議論しよう

09

横浜エフエム放送株式会社 
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)


 かつて獅子文六が随筆で次のようなことをいった。
 横浜というところは船の出入りが忙しいせいか、あんなに殺風景な街は見たことがない。食い物一つろくなものがない。あれだけ船の出入りが激しかったら、わびだのさびだのといってる暇はないだろう。城下町と違ってお城のない街はさびしいものだ……。
 こんな内容だったと思う。
 作家は主観で書くから、獅子文六がどう書こうと問題ではない。比較論的にいえば、城下町にはそれぞれに根ざした封建的な遺風というようなものがあり、そこから何となく脱し切れない空気があって街全体を包み込んでいる。よそから来た人間にとっては、お城のある宿場町が日常とは別次元の魅力として映る。泊まるとしてもせいぜい三日か四日だから魅力的な面が強く印象に残る。けれども、城下町の人々はよそから来た彼らを観光客、通行人としてしかみなさない。
 横浜は伝統にしばられないから、自由に街をつくってきた。城下町のように武家屋敷町、宿場町、職人町などの強制的な区割がなされなかったから、大震災、戦災で建てては焼けの繰り返しで、伝統を感じさせる街並みが残らなかった。獅子文六の目には、だから殺風景に見えたのだろう。
 しかし、開放的で自由を愛する気風までは焼けなかった。
「今日、横浜に引っ越した。今日から俺は浜っ子だ」
「オッケー」
 これで通ってしまう。だから、秋田弁、関西弁の浜っ子が大勢いる。
 しかしながら、開放的で自由を愛する気風といっても、弊害がないわけではない。横浜はやたらとイベントが多い街で、「そんなのやめろ」という人間もいない代わり、「やれ、やれっ」と威勢よく声援を送る者も、加勢する者も出てこない。要するに自分がすることには熱心に取り組むが他人がすることには無関心で、大きく一つにまとまってやろうという気構えが欠けているわけだ。おまけに人口が370万人に迫ろうとする日本で2番目の大都市である。そういう横浜で「開港150周年」を全市的なイベントに立ち上げるのは至難のわざだろうが、考えようによっては現実にする絶好のチャンスでもある。
 しからば、どうすればよいか。
 いっそのこと何をするか無理に決める前に、横浜の将来像を真剣に議論し、せめて方向づけをすることから始めたらどうだろうか。

2006年7月28日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第18回 「国際劇場会館物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「横浜国際劇場会館物語」


横浜、野毛。今は場外馬券場「wins」になっている場所にかつて横浜ショービジネスの中心として観客を魅了し、数々の伝説を生んだ横浜国際劇場会館があった。
昭和23年。横浜国際劇場会館一周年記念特別興行。小唄勝太郎の前座で登場したのはわずか十歳の少女だった。スポットライトをあびた彼女は、笠置シヅ子の「セコハン娘」などを歌った。およそ2千人の観客は驚き、そして割れんばかりの拍手を送った。美空ひばり、表舞台登場の瞬間であった。このステージをきっかけに、美空ひばりは、横浜国際劇場会館と約半年間の専属契約を結んだ。また映画『悲しき口笛』は、野毛周辺が舞台になり、それにちなみ劇場跡地の道路をはさんだ向かい側に、シルクハットをかぶった美空ひばりのブロンズ像が建っている。この劇場は、階段状の客席に絨毯が敷かれた立派なホールで、観客が戦後の暗い世相を瞬時忘れることができる空間であった。

 「母が倒れた」という知らせを受けたのは、劇場での仕事が無事終った楽屋だった。マネージャーの北里さんが、落ち着いて話してくれた。私が司会をつとめるクラシックコンサートが始まる寸前に知らせが入ったのだが、北里さんは黙って舞台を見守り続けた。その判断に救われたかもしれない。
なぜなら、私は、モーツアルトの「レクイエム」の説明をしなくてはならなかったのだ。もし母のことを知ったら、不吉な想像をして、きっと声をつまらせてしまったことだろう。
 急いでタクシーに乗り、流れていく風景を見ながら母をひたすら案じた。
母は、劇場に足を運ぶのが大好きだった。昭和31年、美空ひばりが8年ぶりに横浜国際劇場会館に出演した姿を観たことが何よりの自慢で、私が生まれてからも芝居、リサイタルと劇場通いはやめなかった。私が、劇場と縁がある仕事をしているのも、少なからず母の影響なのだ。私が司会をつとめる舞台には、必ず足をはこんでくれた。
 病室の母は安定していた。パイプ椅子を広げて座ると母が目を覚ました。
「痛む?」と聞くと、「だいじょうぶ」と小さく言った。そして「コンサートは、うまくいった?」と聞かれ私は大きくうなずいた。母は、幸せそうに微笑んだ。
 「初めて、お芝居に連れていったときのことを思い出すわ。騒ぐことも退屈がることもなく、黙って、じっとお芝居を観ていた。今でもその横顔を覚えている。客席から舞台に立つあなたを見ると、ほんとうに幸せな気持ちになるの。そしてね、あなたを自慢に思ってるのよ」と母が言ったとき、不覚にも涙がこぼれた。

今日の「横浜国際劇場会館物語」いかがでしたか。出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年7月21日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第17回 「私の磯子物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の磯子物語』。

(このストーリーの舞台、横浜プリンスホテルは平成18年6月末で閉館となりました。)
JR京浜東北線の南端だった桜木町駅からさらに南に向かって電車が走るようになったのは1964年、根岸線の桜木町・磯子間が開通したときからだ。これにより、根岸や磯子地域は急激に発展した。そして同時期から始まった根岸湾埋め立て工事で、工場が誘致され臨海工業地帯が作られていった。また磯子駅周辺には大型店舗を核とする商業地域と、海を見下ろす高層住宅地域が出現した。こうして、磯子区は1964年にはおよそ8万8千人だった人口が、今では16万2千人と一大ベッドタウンとして発展した。

 先日、新聞に面白い小さな記事を見つけた。横浜プリンスホテルのフラワープロムナードで「アガウェー・ショーウィー」という珍しい花が、まもなく開花しそうだという記事だ。「アガウェー・ショーウィー」は、英語名で「センチュリー・プラント」と呼ばれ、百年に一度花を咲かせ、枯れてしまうと生涯を終える神秘的な植物ということだ。実際には30年から50年に一度開花するそうだが、それでも開花まであまりの長い年月がかかるので「センチュリー・プラント」と名付けられたのだろうか。
私は興味をそそられ友達と出かけた。フラワープロムナードでは長く伸びた「アガウェー・ショーウィー」が黄緑色の花を咲かせていた。そばにいた方に聞いたところ、日本では龍舌蘭と呼ばれているメキシコが原産の花で、樹液からはテキーラなどのアルコールが作られるとのことだ。
 ここ横浜プリンスホテルは、地元の私たちは「磯子プリンスホテル」と言っていた。
ここのプールには懐かしい思い出がある。大学一年の女子の体育の必修科目が水泳だった。単位のためにはテストで25メートル以上泳がねばならない。子供の頃、本牧の海岸線にはバス停ごとに海水浴場があったくらいで、夏休みには家族や近所の友達とよく海に行った。しかし、私は浮き輪で遊んでいただけで、泳ぎは全くダメでカナヅチだった。
 横浜から通っていた同じ学部の同学年に泳げない女の子が一人いた。私たちはすぐ友達になり、水球部の一人の男子学生をバーベキューをごちそうするからと、コーチに頼み夏休みに4回くらい横浜プリンスホテルのプールで特訓した。
おかげで、二人とも何とか25メートルくらいは泳げるようになった。毎回プールから上がって、夕方3人で食べたバーベキューの味と楽しさは、若き日の夏の思い出となっている。この話にはオマケがある。秋になってテストの日、緊張からか焦りからか、電車を降りるとき棚に水着を入れたボストンバッグを忘れてしまった。その日のテストはついに受けられなかった。幸い後日、次のテストで何とか合格し無事単位がとれた。

 今日の、『私の磯子物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、浮田周男でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年7月14日 (金)

横浜・明日への提言(8) 横浜ファッション(流儀)をつくろう

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横浜エフエム放送株式会社 
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)

 
 歴史をひもとくと、日本の開国当時、欧米社会は礼節・儀礼・教養を重んじた。武家社会を根幹とする鎖国日本には、尊皇思想という精神的革命の風が起きていて、天皇を頂点にした精神的秩序が再構築されつつあった。すなわち、日本を欧米の侵略から守ったのは台場でも大砲でもなく、日本人の高度な礼節・儀礼・教養だった。
 安政3(1856)年、伊豆下田に着任した文官ハリスは交渉相手の下田奉行、日常接する住民の姿から滲み出る日本人の美風に圧倒され、英仏艦隊が到着する寸前まで誇りを持って文官外交を貫いた。日本が欧米の植民地にならなかった原因は実はそこにある。
 昭和20年8月15日、日本人が初めて知った敗戦のショック――日本を占領しにやってきたマッカーサーは、日本の伝統的な精神文化に惚れ直し、日本を南北に二分して好きなように支配しようと持ちかけたロシアに「ユー、ファイト(やるか)」とすごんで、その野望を砕いた。そのお陰で、日本人は衣食住に不自由しながら文化国家を唱え、あらゆるものに「文化」の名を冠して復興に立ち上がることができた。文化住宅、文化包丁、文化何々という具合に……。
 ところが、ソニーがトランジスタラジオを発明して世界中に売りまくってから、日本は高度経済成長の波に乗って、あらぬ方向へ走りだした。日本が「文化国家」をやめて「経済大国」を唱えると、学校教育は右へ倣えして世界に冠たる礼節・儀礼・教養を教えなくなった。国民的規範を教わらずに育った若者は糸の切れた凧みたいに方向定めず、経済オンリーの社会を野放図に漂い始めた。
 現在、教育基本法の改正が国会で議論され、愛国心がうんぬんされているようだが、私には見当違いなことをしているように思われてならない。愛国心は礼節・儀礼・教養を身に備えた結果である。G(義理)N(人情)O(恩返し)を古くさいという人間に愛国心が芽生えるとは思えない。GNOには平和、信頼、友愛、思いやりなどありとあらゆる精神的規範が含まれる。普遍の精神的資産が古びて廃れるはずもない。さりとて、私は日本を論じる立場にないから、せめてもミナト・ヨコハマだけでもおかしな風潮に毒されないように心がけてきた。だから、ミナト・ヨコハマには勝者もいなければ敗者もいない。最近10年の間に倒産した会社は皆無だし、すべてが中産階級のままでいる。
 みんなが中産階級でいられること、それがベストではないとしても、現実的にはベターだと私は信じている。日本人1億の8割が中産階級であった頃は世の中が明るかった。開港150周年を控えて、横浜の将来に必要なのは何かといえば、「横浜といえばGNO」とだれもが認めるような精神的規範を横浜市民が共有し、礼節・儀礼・教養を個人のファッション(流儀)にすることではないか。

ヨコハマ ストーリー  第16回 「私の映画館物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の映画館物語」

1911年のクリスマスの日、横浜長者町に日本最初の洋画専門映画館、オデヲン座が誕生した。オデヲン座は、常設の洋画封切館として東京まで名をはせる第一級の映画館になった。同館は、山下町の貿易商、平尾商会の試写館で、輸入フィルムをいち早く公開できた。
関東大震災で平尾商会が手をひいたあとを、六崎市之介が引き継いだ。まだ無声映画の時代、彼は伴奏音楽に着目した。弁士に合わせて六崎自身がクラリネットを演奏する管弦楽団を編成した。その質の高い伴奏は「活動映画ファン」を魅了した。また、映画のプログラム『オデヲン座ウィークリー』も充実させた。ファンは、この表紙と挿絵に凝った解説書を競って収集した。

私の家は、横浜、日の出町近くで、映画館をやっていた。映画好きの父の夢だった。母もその夢に自分の夢を重ねた。今では、笑い話だけれど、私が産まれる前、よく私の家に泥棒が入ったという。その理由が面白い。『心の旅路』という映画を上映していて、毎日、父と母がそれを観にいき家を空けていたからなのだ。
私の幼いころの思い出は映画館にある。当時の映画館には冷房の設備などない。暑さしのぎに氷の柱が置かれた。その氷の中に花が入っていたのを今も覚えている。
映画館のチケット収入だけでは、思うように儲からないので、母は売店を思いついた。PXと呼ばれる米軍専用の店から、ルートを使って品物を仕入れた。アイスクリーム、チョコレート。おせんにキャラメル以外の商品に皆、飛びついた。
映画が終ったあと、ドアが開いて観客があふれてくる瞬間。出てくる人は、どの顔もうれしそうで幸せそうだった。その光景は、物をつくったり毎日会社に行かなくても人を幸せにする仕事があることを教えてくれた。
私は映画が好きだ。あの暗闇の中で人は人生を生きる。笑い泣きながら、自分とは違う人生を味わう。光りあふれるロビーに出る瞬間、私は一生分の2時間を体験したことを知る。

今日の「私の映画館物語」はいかがでしたか?出演、小林 節子 脚本北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年7月 7日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第15回「私の横浜ジャズ物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の横浜ジャズ物語』。

アメリカ生まれのジャズは、明治の終わりから大正にかけて日本に上陸したと言われる。西海岸から太平洋航路が開拓され、寄港する東洋の港町にジャズを誕生させた。 大戦中、敵性音楽だったジャズは禁じられたが、戦後、傷だらけの横浜の街に進駐軍のラジオからジャズが流れ始めた。同時に軍の施設やクラブなどでジャズの演奏が聴かれるようになった。日本人のバンドマンが仕事を求め、横浜駅前などに集まりバンドマーケットができた。また、日本のモダンジャズの原点といわれる伊勢佐木町「モカンボ」での「モカンボセッション」が行われるようになり、秋吉敏子、渡辺貞夫らが横浜から巣立った。横浜のこのような歴史的背景をもとに、1993年から横浜ジャズプロムナードが開催され、ジャズ文化を発信している。

ミニライブへの誘いの葉書が届いた。中年アマチュアバンドのライブだが「トシオを送る会」と書かれてあるのに引かれて行ってみる事にした。
トシオ君は40年近くにもなる古い仲間だ。高校時代、横浜の規律に厳しいミッション・スクールに通っていた私にとって、日曜日はいつもと違った気分になれる日だった。海岸教会での日曜日の礼拝。私たち賛美歌コーラスの仲間にとって唯一、ボーイフレンドとの出会いの場所だった。今思えば初々しいお付き合いだった。トシオ君もそのひとりだった。ジャズの専門誌「スウィング・ジャーナル」を片手に教会にやってくるトシオ君は、高校時代から先生に怒られながらも「ストーククラブ」や「ちぐさ」に通っていた筋金入りのジャズファン。大学に入ると、仲間を集めてジャズ研究会を作った。そして本格的なジャズボーカリストを目指すようになり、レコードデビューの話も聞くようになったが「上には上がいる」ということで、プロを断念して通信社の記者となった。
会場は関内の小さなビルの2階にあった。奥まったスペースにピアノ、ベース、ドラムが置いてある。アップライトのピアノの向こうにトシオ君がいた。
「お久しぶり。送る会ってどういう意味」
「ニューヨーク支局に転勤さ。今頃ジャズの本場に行ってもね。」
トシオ君がジャズを辞めた本当の理由は、生まれたばかりのお嬢さんが、難しい病気を患っていたということだ。地方廻りの仕事が多いミュージシャンでは、看護も生活も厳しい。「家族のため」サラリーマンを選んだ。それが真実だった。
この日のライブはいつになく賑やかで、アステアばりにリズミカルにタップを踏むトシオ君がとても粋だった。ラストナンバーはおきまりの「ニューヨーク・ニューヨーク」。
そのとき、花束を持ってお嬢さんの典子さんと奥様が登場、会場は一気に盛り上がった。再び大きな拍手の後、トシオ君はアンコールナンバー「マイ・ウェイ」を歌って「送る会」は幕を閉じた。

今日の、『私の横浜ジャズ物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、大多田純でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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