横浜・明日への提言(59) 最早、テレビはトリックスター機器
代表取締役社長 藤木幸夫
(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)
ある日あるとき、ある編集者が私に次のような企画を頼みにきた。
「テレビのない時代とテレビが24時間生活の中に入り込んだ時代の双方を経験し、比較検証できる立場にあるのは70代以上の長老です。是非、比較検証してみてください」
いわれてみれば確かにそうだ。
私は昭和5年生まれで、生まれたときはラジオ放送も開始からわずか6年と日も浅かった。芝居、浪曲、講談、落語、映画、それも主流の無声映画などがバーチャル世界との唯一の接点だった。もちろん芝居小屋、映画館へ足を運ばなければ体験できなかった。これらを映像と音声をもとに分類すると、映像と音声を伴うのは芝居だけで、浪曲、講談、落語は音声のウエイトが大きく、無声映画は映像に偏っていた。それでも物語性、感動性が損なわれなかったのは名演のためでもあったのだろうが、受け手の想像力が豊かに養われていたためだろう。こうした視聴体験を重ねるにつれて子どもたちは想像力を空想力に高めた。
仮に想像力や空想力を思考の迂回路と考えると、テレビのない時代の子どもたちは現実の問題を直視したとき、いきなりショックや疑問に見舞われるようなことはなく、個性的で複雑な迂回路で事実を透視し、独自の結論を導き出した。
ところが、テレビという映像と音声のすぐれ物が登場し、各家庭から各個室にまで入り込み、居ながらにして世界の出来事をニュースとして知るようになると、あまりに便利すぎて想像力、空想力をまったく必要としなくなり、思考回路が短絡で単純化してしまった。
表面的な姿は人間として差はないのだが、生まれたときからテレビを観て育った世代は思考回路が短絡・単純で、刹那的に反応してしまうとか、困難な問題はいともあっさり先送りしてしまうようになった。
特徴的な現象で違いを説明すると、秋葉原無差別殺人などは格差社会の弊害というより、思考回路の短絡・単純化がそのおおもとの原因ではないかと思う。秋葉原の事件直後、親を困らせてやろうという理由だけで、模倣的に無差別殺人に走った事件がつづいたのも思考回路の短絡・単純化に原因がある。
しからば、どうしたらよいのか。
最早、テレビは報道システムの一環というより、それらしい側面を持つだけの「トリックスター機器」とみなし、子どもが視聴できる時間と内容を大幅に制限するくらいの大手術、大英断を下すほかないのではないか。
よくよく考えると、日本人の精神的な資質の低下はテレビの普及と軌道を一つにしているように思われる。因果関係の検証がまだ残されているが、そうした切り口から解決策を考えるのも迂回路思考の妙味の一つであろう。
大雑把で発作的な結論だが、以上が編集者の求めに対する私の当座の返事である。