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2007年10月 1日 (月)

横浜・明日への提言(36) 言葉のレベルを上げよう

36

横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。) 

 政治家の失言問題を持ち出すまでもなく、ボキャブラリーが乏しいと用い方を誤って取り返しがつかなくなることがある。自分の身を守るためにも言葉遣いは大切な武器だ。
 ところが、日本では明治の半ば頃まで国語教育が行われなかった。武家社会の江戸時代、上下関係から敬語が発達し、さらに侍言葉は語尾に必ず「御座候」がつくから、中身がないとお手本通りの敬語と「御座候」「御座候」ばかり耳について話にならなかったろうと思う。だから、中身のボキャブラリーをゆたかにするために、彼らは「能」を習い、膨大な物語にちりばめられた珠玉の言葉をマスターした。今は限られた物語しか演じられないが、新作・古典とも実に多くの作品があった。それが侍が使う日本語をしっかりしたものにし、失言を許さなかった。
 今日の日本語教育はどうか。
 国語教科書が出来、義務教育の小中学校に加えて高校、大学まであって、高校まで国語教育が行われている。しかし、中身はどうか。
 真っ先に考えないといけないことは、日本語には借り物の言葉が多いということだ。外来語どころか外国語をそのままカタカナにして用い、符牒まがいの新造語が氾濫する。理屈でいえばボキャブラリーがその分だけ増えてよいように思われがちだが、実際はそうじゃない。悪貨が良貨を駆逐するように、すぐれた日本語がどんどん使われなくなっていく。  
 これに大きな影響力を与えているのがテレビ言語ではないだろうか。侍が能でボキャブラリーを身につけたように、テレビばかり見てそれを手本にして育った子どもが日本人の大人の大半を占める時代になったら、横浜どころか日本はどうなってしまうか。
 お手本のレベルが下がっているのは間違いない。原因がそこにあるのだから、お手本のレベルを上げるしかない。
 私の場合はおやじ藤木幸太郎が生きた手本になり、古典ともなって、何か起きてもすぐに取り出して上からなぞるだけで、少しは世間に必要とされる人間になれた。
 子どもの頃には近所に読書を勧めてくれた大人がいてくれたお蔭で、私は6歳前後で吉川英治著『宮本武蔵』『三国志』を読みこなし、旧制中学時代は日本文学全集、世界文学全集を読破した。それらが教科書では得られない教養を私の身につけてくれた。
 小中学校で教科書以外にそういう教育が行われているのだろうか。行われていないならやって欲しい。
手本とするものも、これぞわが古典と思うものも、人によってそれぞれであり、受け止め方もさまざまだろう。だからこそ、個性ゆたかな世の中になり、言葉のレベルを押し上げていく。