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2007年10月

2007年10月31日 (水)

横浜・明日への提言(38) 横浜の貿易業界は対中貿易に活路を

38

横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)

 横浜といえばだれもがミナト・ヨコハマを思う。横浜はミナト・ヨコハマを持つことで「世界のヨコハマ」である。では、ミナト・ヨコハマと密接な関係を持つ貿易業はどうかというと、外国商館がひしめき合った開港当時の賑わいとは程遠い現状である。
 地域起こしが盛んにいわれる今日、個別の事業ではなく産業として振興を図るターゲットを挙げるとしたら、やはり、世界有数の機能を持つミナト・ヨコハマを窓口とする貿易業ではないか。
 問題は貿易相手国である。過去の実績は別にして台頭著しい中国が相手国の中心になるというのが今日の趨勢である。中国人の日本語を学ぼうとする意欲は実に旺盛で、向こうでは日本語学校が事業の分野として確立をみているほどである。彼らのカウンター・パートナーとしての日本側はどうか。日本の物差しで表面的にしか中国をみていない。ここに問題がある。
 中国の人たちには愛国心がない。共産党に対する愛党心しかない。だから、こちらとは顔と顔の関係しかない。友達であるのかないのか、知り合いであるのかないのか、それが大いに関わってくる。
 私は大連の名誉市民だから友達である。たとえば、私の会社が現地にあったとして税務署が調べに入ったとき「何だ、申告していないじゃないか」ということになったとすると、「感謝料わたすから勘弁してくれ」「よし、わかった」とそれで終わり。中国には「感謝料」という精神的風土がある。だから、中国で仕事をするときには感謝料のやり取りができる人間を置いておかないとうまくいかない。
 ところが、日本の企業は本社が東京にあって、えらい人を一人送って現地の人をマネージャーにつけてやろうとする。こういう企業はみんな撤退に追い込まれる。現地の水に合わなかった、経済的に成り立たなかったというのが理由だが、うまくいくわけがない。感謝料を払うような関係を持っていないのだから相手のいいなりになるほかない。
 感謝料のやり取りというと、日本の物差しだと裏取引みたいに受け取れるかもしれないが、中国の物差しでは精神的風土なのだから郷に入った以上相手に合わせるしかない。中国に進出した日本の大手メーカーのうちA社とB社の生産工場はいいところに決まったが、C社だけ港からはるかに離れた不便な場所になった。C社は日本の物差しで一生懸命努力したが、中国の精神的風土に溶け込めなかったためにそういう違いがでたのではないだろうか。
 ということは、中国という国を表面的に研究しても役に立たない、ということである。人と人の関係でみないと理解できない。そういう研究をきちんとしたうえで進出すればうまくいくと思われる。
 横浜の貿易業界も、ひとつ、そういうことを念頭に置いて大いに進出して羽ばたいて貰いたいものである。

2007年10月14日 (日)

横浜・明日への提言(37)どうしたら言葉のレベルが上がるか

37

横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。) 
 
 どんなに豊富なボキャブラリーを身につけても、使う機会がなければ宝の持ち腐れで終わってしまう。
 幕末の志士は仲間と猛烈に議論した。昼間のうち同志と議論して、家に帰ってから「あそこはこういえばよかった」「このことをいい忘れた」と思うと、すぐに手紙を書いて家来に届けさせた。最初は大した内容でなくても、次第に考えが煮詰まって時代を変え、新しい時代を築くエネルギーになっていった。だから、仲間としゃべり、議論する機会を持つようにすれば、必ず言葉のレベルが上がっていく。
 ところが、最近の小中高大学生は携帯電話をどのように使っているかというと、相手と電話で会話するよりメールという通信が主流になってしまったと聞く。
携帯電話が子どもの間にまで普及し始めたとき、私はある雑誌に「携帯は国を滅ぼす」と書いたことがある。前にも別の意味で述べたと思うが、それがますます現実になりつつある。
 また次のような例もある。
 映画「二十四の瞳」の舞台になった小豆島の十二人の子供たち、それぞれみんな良い子で上級学校へ進ませてやりたいのだが、貧しい島の暮らしが許さない。なかでも飛び切り成績が優秀で、高峰秀子演じる大石先生が「この子だけでも」と強く願い、本人も進みたい気持ちがある卒業生に対して最後にかける言葉に困った。作者の壺井栄は最初に何と書いたか。
 卒業したら島を出て女中奉公に行くのは当たり前だった。「偉いわねえ、感心ねえ」といわせようと思ったけど、それでは気の毒に思う大石先生の気持ちに合わない。しかし、ストレートに「気の毒」と表現してしまったら子どもに傷がつく。結局、「残念ね」という言葉に落ち着いた。
 どの言葉を選び、どのようにいうかで、その場にいる人を感動させもし、シラケさせもする。言葉にはよくも悪くも心がこもる。両刃の剣だから気をつけろというわけである。
 壺井栄ほどとはいわないが、「心を磨く」心得を持つ。これがもう一つの方法である。先頃の参議院選挙のとき、あるテレビ局の女性キャスターが国民新党の綿貫民輔代表に「それって、ずるくないですか」と二度も食い下がっていた。選挙前の予測では国民新党がキャスティングボードを握るのではないかといわれていたが、民主党の一人勝ち、自民党の歴史的大敗でその目は完全に消えた。「野党の先頭に立つのか」という女性キャスターの質問は選挙前なら話は別だが、選挙の後では愚問だ。綿貫民輔代表は「当面、静観する」と答えた。それが正しい。ところが、「それ、ずるいですよ」ときたから、綿貫民輔代表は唖然として「ずるい?」と反問するほかなかった。言葉を話す以前に心を磨く必要がある格好の見本だろう。

2007年10月 1日 (月)

横浜・明日への提言(36) 言葉のレベルを上げよう

36

横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。) 

 政治家の失言問題を持ち出すまでもなく、ボキャブラリーが乏しいと用い方を誤って取り返しがつかなくなることがある。自分の身を守るためにも言葉遣いは大切な武器だ。
 ところが、日本では明治の半ば頃まで国語教育が行われなかった。武家社会の江戸時代、上下関係から敬語が発達し、さらに侍言葉は語尾に必ず「御座候」がつくから、中身がないとお手本通りの敬語と「御座候」「御座候」ばかり耳について話にならなかったろうと思う。だから、中身のボキャブラリーをゆたかにするために、彼らは「能」を習い、膨大な物語にちりばめられた珠玉の言葉をマスターした。今は限られた物語しか演じられないが、新作・古典とも実に多くの作品があった。それが侍が使う日本語をしっかりしたものにし、失言を許さなかった。
 今日の日本語教育はどうか。
 国語教科書が出来、義務教育の小中学校に加えて高校、大学まであって、高校まで国語教育が行われている。しかし、中身はどうか。
 真っ先に考えないといけないことは、日本語には借り物の言葉が多いということだ。外来語どころか外国語をそのままカタカナにして用い、符牒まがいの新造語が氾濫する。理屈でいえばボキャブラリーがその分だけ増えてよいように思われがちだが、実際はそうじゃない。悪貨が良貨を駆逐するように、すぐれた日本語がどんどん使われなくなっていく。  
 これに大きな影響力を与えているのがテレビ言語ではないだろうか。侍が能でボキャブラリーを身につけたように、テレビばかり見てそれを手本にして育った子どもが日本人の大人の大半を占める時代になったら、横浜どころか日本はどうなってしまうか。
 お手本のレベルが下がっているのは間違いない。原因がそこにあるのだから、お手本のレベルを上げるしかない。
 私の場合はおやじ藤木幸太郎が生きた手本になり、古典ともなって、何か起きてもすぐに取り出して上からなぞるだけで、少しは世間に必要とされる人間になれた。
 子どもの頃には近所に読書を勧めてくれた大人がいてくれたお蔭で、私は6歳前後で吉川英治著『宮本武蔵』『三国志』を読みこなし、旧制中学時代は日本文学全集、世界文学全集を読破した。それらが教科書では得られない教養を私の身につけてくれた。
 小中学校で教科書以外にそういう教育が行われているのだろうか。行われていないならやって欲しい。
手本とするものも、これぞわが古典と思うものも、人によってそれぞれであり、受け止め方もさまざまだろう。だからこそ、個性ゆたかな世の中になり、言葉のレベルを押し上げていく。