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2007年4月30日 (月)

横浜・明日への提言(27) 横浜をもう一つのふるさとに

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横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)

 横浜に三日住めば「浜っ子」といわれる。開港都市横浜の開放性を表す言葉である。自慢の材料にすることはあっても異論を差し挟む市民は皆無といってよいくらい隅々にまで浸透している言葉だ。ただ、これまでは言葉にとどまって、それが漠然といわれてきた。
 港湾都市横浜には、麻薬・銃器など生活の安全を脅かすもののように断固として受け容れられないものがある。そしてまた、他都市からきた人を受け容れるからにはととのえなければならない条件がある。私は「波止場の掟」と呼んでいるが、一つには前に述べたことがある横浜港保安委員会の活動で、官民が一体となって麻薬・銃器の密輸を水際で取り締まっている。よそでは税関や警察が個別に取り組んでいるが、横浜港の場合は検疫所、漁業組合まで加わった特別チームで阻止に努めている。始めてから15年になるが、官庁同士の垣根、官民の土俵を取り払って結果する保安委員会があるのはいまだに横浜だけだ。横浜の開放的な空気がつくり出したものともいえる。
 もう一つは、秋田弁の浜っ子、関西弁の浜っ子でも、だれもが心の中に持つ「ふるさと」をもう一つ横浜につくること。
 いざとなったら・・・・・。
 だれしもが「ふるさと」を思うように、横浜の職場が頼みになる。そういう職場を守って、なおかつ継承し子孫に残していく。これが私たち港湾人がめざす開港都市につづく港湾都市のありようで、港で働く人たちは「ミナト・ヨコハマ」を誇りにしているし、市民からも認めていただいている。
 ところが、いざとなったらと頼りにするふるさとを持たない人が貧富の二極化社会、競争社会で嫌な思い、さびしい気持ちで暮らしている。
ふるさとは一つではない、もう一つが職場だとすれば、気持ちよく働くということがどんなに大事なことか。そのための掟がG(義理)、N(人情)、O(恩返し)である。GNOに裏打ちされた護送船団方式、終身雇用制度、横浜はそれがしっかりしているとわかればおのずと「いざとなったら横浜へ」が合言葉になり、東京のベッドタウンという汚名もおのずと返上されていく。
 そこまでいくにはかなりの歳月を必要とするだろうが、横浜がどんどん東京のベッドタウン化する現状に対して指をくわえてただ見ているよりはるかにましだろう、
 この間、国土交通省のある局長さんが演説の中で「横浜港のGNO」といって私の主張に言及してくださった。横浜港で立てたさざなみの一波が中央官庁の幹部に二波となって伝わったわけで、私は実にうれしかった。