ヨコハマ ストーリー 第32回 「私の放送ライブラリー物語」
魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の放送ライブラリー物語」
「放送マンは潔さが勝負」テレビ局に入社当時、先輩からよくいわれた。特に生放送の場合は1回限りで訂正はきかない。電波に乗ればそれで終了。20年間、テレビの生放送を続けることができたのも「潔さ」を信条としたからだろう。
さて、きょうは「放送ライブラリー物語」。放送ライブラリーは、県庁近くの横浜情報文化センター、8階から10階にある。いわば放送番組の図書館、わが国唯一のアーカイブ施設で放送法に基づいて番組を収集、2000年にここに移転してきた。テレビ草創期からのドキュメンタリー、報道、ドラマ、ヴァラエティー、アニメなど1万本あまりと1946年以降の貴重なラジオ番組およそ2500本が保存され、無料で一般に公開されている。
知り合いのラジオディレクターBさんから聞いた作り話のように聞こえる実話。Bさんの話しは「かつての神奈川県立博物館に小林峯夫さんというモグラ博士、モグラ研究では有名な先生がいましてね」というところから始まった。
モグラ博士とラジオディレクターのBさんは、モグラ大戦争というラジオ番組制作しようと箱根に向かう。箱根の山では「西軍」コウベモグラが侵攻作戦を続け、むかえうつ「東軍」アズマモグラはタジタジの体、天下分け目の決戦が、展開されているという設定。
モグラ博士ほか総勢7名、テントをはり、10数本のマイクを地中へ。結局、マイクはモグラの陰ひとつ捕らえられず、5日がかりでやっと1匹のモグラを捕まえただけ。しかし捕獲したものの、引き取り先との交渉などなど,侃侃諤諤、さらに3日間を要し、東京・板橋区立下赤塚小学校の子供たちが飼育してくれることになった。
「ミミズ代、金5万円也」上司が目をムく。ラジオ局のオフィスを駆け巡る伝票として不適当と判断され、つき返される。モグラは大食漢だった。毎日自分の体重ほどのミミズを食べる。昼夜を問わずに数時間おきにミミズを与えなければならない。昼間の世話は子供たちだが、日曜も含め「毎日が登校日」。モグラ博士も頻繁にやってきて、ますます、出社もままならぬ日々が続くこと3ヶ月。ボーナス査定にも響いて、深夜、モグラを前に教室に持ち込んだ寝袋の中で何度か泣いた。20数年前の話しだと言う。
黄金のエイティーズ、人、皆、おもしろ悲しかった。モグラを飼育した子供たちも、もはや三十歳を過ぎた。「いまも忘れませんね、都会の子供たちがモグラをはじめてみた時の歓声は」とBディレクター。その歓声は、番組タイトルを「モグラ大戦争」から「モグラたちの夢ゲリラ」にかえて、芸術作品賞のクレジットを付けて放送ライブラリーに保管されているそうだ。
きょうの「私の放送ライブラリー物語」いかがでしたか?出演、小林節子 脚本、大多田純でおおくりしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに。