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2006年8月31日 (木)

横浜・明日への提言(11) キーワードは「横浜はじめて物語」

11

横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)

 350万都市、人口ナンバーツーというだけでは、横浜は張り子の虎も同然だ。ひとひねりも、ふたひねりも工夫を凝らさなければ、横浜は東京のベッドタウンで埋もれてしまう。
 人口ナンバーワンの東京の強みは首都機能を持つことだ。ほかにもナンバーワンの勲章がたんさんある。人口ナンバーツーの横浜はどうか。ナンバーワン、ナンバーツーと胸を張れるものがいくつあるだろうか。質問されても具体的には答えられない浜っ子がほとんどではないだろうか。
 活路を見出すキーワードは「横浜はじめて物語」である。よそがやらないことを真っ先に始める、あるいは取り入れる。
 150年弱の歴史しかない横浜市だが、開港当時はガス灯、ビール、パン、アイスクリームなど、「横浜はじめて物語」がたくさんあった。開港によって町が生まれて、ほかに何もなかったから「日本で初めて」の物が始まった。今の横浜も「これぞ横浜」といえるものが少ないのだから開港当時とあまり変わらない。
 よそにないものをつくるにはどうしたらよいか。
 たとえば、横浜ならではの組織として銃器・薬物水際排除推進協議会がある。税関、県警が中心となった組織だが、よそのミナトにはない。普通だと大蔵省の出先だった税関がえばるのだが、上も下もなく20年も仲よく協力してやってきた。ニューヨークの9・11テロがあってから政府のお声がかりで「保安委員会」が生まれたとき、すでに同じことをやっていた横浜は看板を一枚増やしただけで済んだ。他都市の委員長は地元官庁のトップが委員長だが、横浜だけは港湾業界の私が委員長になった。銃器・薬物水際排除推進協議会の会長だったからすんなり決まったのである。横浜は民間主導が早くから根づいていた。人間関係が独特でユニークだから民間主導が生まれたわけで、これも「横浜はじめて物語」の一つといってよいだろう。
 何かというと物を考えがちだが、横浜ならではの人間関係を生かせばほかにも「横浜はじめて物語」に育つ機会はあるのではないか。そうした観点から発想し議論し試行錯誤を積み重ねていけば、いろんな「横浜はじめて物語」が生まれるはずである。