ヨコハマ ストーリー 第17回 「私の磯子物語」
魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の磯子物語』。
(このストーリーの舞台、横浜プリンスホテルは平成18年6月末で閉館となりました。)
JR京浜東北線の南端だった桜木町駅からさらに南に向かって電車が走るようになったのは1964年、根岸線の桜木町・磯子間が開通したときからだ。これにより、根岸や磯子地域は急激に発展した。そして同時期から始まった根岸湾埋め立て工事で、工場が誘致され臨海工業地帯が作られていった。また磯子駅周辺には大型店舗を核とする商業地域と、海を見下ろす高層住宅地域が出現した。こうして、磯子区は1964年にはおよそ8万8千人だった人口が、今では16万2千人と一大ベッドタウンとして発展した。
先日、新聞に面白い小さな記事を見つけた。横浜プリンスホテルのフラワープロムナードで「アガウェー・ショーウィー」という珍しい花が、まもなく開花しそうだという記事だ。「アガウェー・ショーウィー」は、英語名で「センチュリー・プラント」と呼ばれ、百年に一度花を咲かせ、枯れてしまうと生涯を終える神秘的な植物ということだ。実際には30年から50年に一度開花するそうだが、それでも開花まであまりの長い年月がかかるので「センチュリー・プラント」と名付けられたのだろうか。
私は興味をそそられ友達と出かけた。フラワープロムナードでは長く伸びた「アガウェー・ショーウィー」が黄緑色の花を咲かせていた。そばにいた方に聞いたところ、日本では龍舌蘭と呼ばれているメキシコが原産の花で、樹液からはテキーラなどのアルコールが作られるとのことだ。
ここ横浜プリンスホテルは、地元の私たちは「磯子プリンスホテル」と言っていた。
ここのプールには懐かしい思い出がある。大学一年の女子の体育の必修科目が水泳だった。単位のためにはテストで25メートル以上泳がねばならない。子供の頃、本牧の海岸線にはバス停ごとに海水浴場があったくらいで、夏休みには家族や近所の友達とよく海に行った。しかし、私は浮き輪で遊んでいただけで、泳ぎは全くダメでカナヅチだった。
横浜から通っていた同じ学部の同学年に泳げない女の子が一人いた。私たちはすぐ友達になり、水球部の一人の男子学生をバーベキューをごちそうするからと、コーチに頼み夏休みに4回くらい横浜プリンスホテルのプールで特訓した。
おかげで、二人とも何とか25メートルくらいは泳げるようになった。毎回プールから上がって、夕方3人で食べたバーベキューの味と楽しさは、若き日の夏の思い出となっている。この話にはオマケがある。秋になってテストの日、緊張からか焦りからか、電車を降りるとき棚に水着を入れたボストンバッグを忘れてしまった。その日のテストはついに受けられなかった。幸い後日、次のテストで何とか合格し無事単位がとれた。
今日の、『私の磯子物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、浮田周男でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・