横浜・明日への提言(104) 時代の気風を再構築しよう
取締役社長 藤木幸夫
(著者紹介:現在、藤木企業株式会社取締役会長、株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器・薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)
ミナト・ヨコハマの私の会社のことで恐縮だが・・・。
酒井信太郎親方の名を出して、ああ、あの方とわかる人は少なくなった。私の親父の藤木幸太郎の名を覚えていてくれる人はさいわいなことにまだ大勢いるようだ。酒井信太郎親方が明治13年生まれの辰、私の親父が明治25年生まれの辰で、藤木企業の恩人と創業者はそろって辰年だ。
コインを売る店の前を通ったりすると、なんとなく懐かしさを覚えて、私は中へ入って明治時代の古い一円銀貨を買う。酒井の親方が生まれた明治13年発行の一円銀貨があればどんなに高くても買う。親父が誕生した明治25年発行のものももちろんである。
大きさは眼鏡のレンズくらいあって、ずっしりとした重みがある。そんなに高いものではないが、1万円はしたと思う。ところが、同じ銀貨、同一年発行でありながら値段が違うことがある。あれっという思いで店のオヤジの顔を見ると、オヤジが察しよく口を開いた。
「銀貨をよく見てごらんなさい」
見ると、安いほうの銀貨には四角い刻印がある。
その刻印こそ台湾のお墓から出た証拠だという。当時、台湾や沖縄の人たちは住む家より大きなお墓をつくった。だれか亡くなると、埋葬するとき、故人にお金を持たせる習慣があった。当然、墓あらしが横行する。台湾を統治していた明治政府は盗掘を防ぐため埋銭を禁止した。それでも、埋銭・盗掘ともやまない。対策として、銀貨に刻印を打った。刻印のある一円銀貨が出まわれば盗掘品と一目瞭然である。それが売られているのだから、墓堀人はいたわけだし、安く売られるのは盗掘の量が膨大だったことを意味する。
明治25年発行の一円銀貨には刻印がないものとあるものが揃っているが、親父はまさしく刻印のないほうの一円銀貨だった。明治人には私たち昭和生まれが持たない気骨があり、真似のできない威厳があった。その人だけが持つというより、時代の気風とでもいおうか、それが気骨のある人間を育て、そうでないものを淘汰したのだろう。
今、時代の気風はどうなっているのか。第一、時代の気風といえるものがあるのかと考えて心細くなった。
100回を目途に始めたブログをひとまず今回で閉じるに当たり、どうしたら時代の気風を取り戻せるのか、私なりに立ち止まって考えてみたい。
長らくのご愛読ありがとうございました。