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ヨコハマ ストーリー Feed

2007年1月12日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第42回 「私の外国人墓地物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の横浜外国人墓地物語」

JR石川町駅から地蔵坂を上り山手本通りへ、港の見える丘公園をめざして左へ進む。フェリス女学院、山手聖公会、山手資料館をすぎると左手に横浜外国人墓地がある。
この墓地には、1854年にペリー艦隊で事故死したウイリアムズ水兵を埋葬したことから始まり、生麦事件のリチャードソン、鉄道事業の祖エドモンド・モレル、ポンチ絵の巨匠ワーグマンなど40を超える国の4000を超える人々が眠っている。墓地の入り口の横には外国人墓地資料館があり、日本の近代化に貢献した外国人たちのパネルの展示や墓地の歴史、横浜の歴史を紹介されている。

 元町の「喜久家」はいつもの待ち合わせ場所。
 「お待たせ」「参りましょうか」
 そういって叔母とマリアンヌの眠る横浜外国人墓地を訪ねたのはついこの間のことだった。終生、独身だった叔母は日本人離れした美しい人で、私を我が子のように可愛がってくれた。元町で会って外国人墓地へというのがおきまりのコース。作家中里恒子の「墓地の春」などに登場する美少女マリアンヌの墓参りを、叔母はいつも楽しみにしていた。
 中里恒子の姪にあたるマリアンヌは日本人の父と英国人の母の間に生れ、幼い頃日本にやってくる。戦争がつづく昭和の時代、横浜の山手とはいえ外国人の血を引くマリアンヌにとって暮しにくい辛い時代だった。人間関係や政治のはざまで苦しみ20歳で逝き、外国人墓地に葬られた。 同じ時代を横浜で過ごし、若い頃「外国人」とからかわれたという叔母にはマリアンヌに共感するものがあったのか・・・・・・。
 その日、外国人墓地は、秋の陽の光に大理石や花崗岩の様々な形をした墓石がきらきらと輝いていた。金曜日だった。金曜,土曜,日曜日は一般の人でも中に入ることができる。何度も訪ねているのでそう思ってきたのだがどうやら規則が変わったらしい。
 「しょうがないじゃない。来年の春に、ね」叔母はそういって、十字を切り墓地を後にした。

 「喜久家」の入り口近くのいつもの席。きょうは、わたし一人。通りには明るい日の光が流れて時間は止まらない。ひとり分の会計をして店を出る。
 両側から枝がかぶって小暗い見尻坂を登る。陽だまりで一息、あの日もそうだった。肩で息をしながらも凛とした叔母の姿、はっきりと覚えている。でも今は全て過去形になった。気が付くと外国人墓地。
 あの日と墓地の表情はかわらないが、十字架や彫刻の施された苔むした墓標に新春の光が当たり懐かしい音楽を奏でている。時はいつものように流れやがて春はやってくる。

今日の「私の横浜外国人墓地物語」いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、大多田純でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに。


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2007年1月 5日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第41回 「私の関東の富士見百景物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の関東の富士見百景・松の内公園馬の背遊歩道物語」

富士山の眺望・ながめをブランドに―――
富士山の景観を生かしたまちづくりを進める国土交通省は「関東の富士見百景」を選定した。富士山の見晴らしがよいことはもちろんだが、だれにでも自由に利用できる公共機関、周辺地域で景観の保全活用の関心が高いなど、当然だが条件は厳しい。横浜でもいくつか選ばれている。「鶴見川からの富士山」「横浜港大さん橋国際客船ターミナル」そして,「松の内公園馬の背遊歩道」である。横浜生まれ,横浜育ちの私だが聞いたこともない。京浜急行・杉田駅から歩いて15分、住所は磯子区中原とある。

 新春のすんだ空気の中で富士山が映えて見える。関東の富士見百景に選ばれただけに、まるで浮世絵の絵を切り取ったような富士山だった。
「松の内公園・馬の背遊歩道は」と、杉田駅の近くで何人かに聞いたのだが
誰も知らない。まだここは知られざる名所なのだ。1月にしては暖かく、陽だまりに置かれたベンチに座っていると眠たくなるほどだった。富士山の近くを1機の飛行機が行く。
 ずいぶん前のことだがラジオから「空に,ライオンが,雪だるまが、飛んでいる」と久米明さんの味わいぶかいナレーションがきこえてきた。
飛行機に乗せられたライオン。雪だるまは、北国の子供たちから雪の降らない南の国の子供たちへのプレゼントだった。私はしばらくラジオに聞き入り、普段見ることもない空をしみじみと見上げた。
 番組がどのようなものだったのかもう忘れてしまった。覚えているのは、空とぶライオン、雪だるまに、番組のラストで登場した糸井重里さん。
 「空にコピーをつけるのですか、うーん,あまり空見ないですよね・・・」
 かなりの間があって、糸井さんのコピーは解りやすく覚えやすかった。
 「ルック・アット・ミー、私ですよ,空ですよ」
 番組を聞き終えた後、「私ですよ,空ですよ」が頭に残ってしばらく空を見上げる。いつもよりゆったりとした気分の私がいた。あれから何年が経つのだろう。「最近、空を見上げたことないな」ひとりごちる。
 富士山とは反対方向、東方の空、房総半島の上を飛行機が行く。ベンチを離れ、うっそうとした木々に囲まれた階段を登るとここが馬の背遊歩道なのだろう。東に房総半島、道を隔てて南に鎌倉、北にみなとみらい地区、パノラマビューが楽しめる。山頂に雪を抱いた富士山はさらに優雅な姿を見せている。富士のように雄大ですばらしい1年に、たまには「空を」と思い公園をあとにした。

 今日の「松の内公園馬の背遊歩道物語」いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、大多田純でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに。


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2006年12月29日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第40回 「私の弘明寺物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に,物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の弘明寺物語」

真っ赤な電車で知られている京浜急行電鉄は、東京・品川の泉岳寺と神奈川・三浦半島の先端を結び、通称・京急とよばれる。この沿線には、しっかりと昔の名前で頑張っている街が多い。そのひとつ「弘明寺」。横浜駅から急行で10分余りの弘明寺は、観音様のほかにアーケイドになっている商店街が中高年層に人気で全国からも注目されている。
弘明寺観音は、今からおよそ1200年前、平安時代に開かれた横浜で最も古いお寺である。木像の観音像は国の重要文化財で、ほかにも、身体の悪いところをこすると、代わりとなって治してくれるという身代わり地蔵も有名で、縁日には多くの人がお参りに訪れる。大晦日にはかがり火が焚かれ、元旦も多くの初詣客で賑わいをみせる。

 弘明寺というと、今でも昔を思い出してしまうことがひとつある。
 放送局のアナウンサー試験を受けたとき。フリガナを付けなさいという設問に「弘明寺」がでてきた。横浜育ちの私は、当然のように知っていることなので「なにか得したな」と含み笑いをしてしまった位だ。コウミョウジやコウメイジとフリガナをふってしまったと,同期入社の同僚が後々に言っていた。地名はニュースなどに出てくる関係上、一般常識のテストではよく出題されたのだ。
 弘明寺を知っていたから合格できたとは思ってもいなかったが、その事を母に話したところ「何か,きっと他にご利益があるかもよ」と一緒にお参りに行ったのを昨日のことのように覚えている。
 母はすっかり弘明寺が気にいってしまい近所の友達を誘ってよく通っていた。しかし、お気に入りは、観音通りの商店街でのんびり歩きながらショッピングをすることだった。商店街の中央付近には、アザラシのタマちゃんで有名になった大岡川が流れており、そこには桜並木があり春にはお花見が出来る。創業100年以上の伝統を誇る和菓子の店「金平堂・コンペイドウ」で「門前ダンゴを買い、さくら橋の上で食べちゃうのよ」と楽しげに語っていたものだ。
 動物好きの母は、アーケイド入り口のところにあるブティック「ウッディ」の表に出ているワゴンの下にいつもいるグミちゃんという猫のことも大好きだったようだ。
 「あれは観音様のまねき猫かもしれないね」母はグミちゃんに会いに弘明寺まで出かけていたのかもしれまない。グミちゃんはいまも健在なのだろうか。
 
きょうの[私の弘明寺物語]いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、浮田周男でおおくりいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・。


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2006年12月22日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第39回 「八景島物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の八景島物語」

横浜の南に位置する、金沢八景。この金沢という地名は、鎌倉幕府を継ぐ、北条氏の分家、金沢北条氏の所有する土地だったことに由来する。かつては、武蔵国六浦庄金沢(かねさわ)と呼ばれていたが、今では「かなざわ」と言われている。江戸時代初期、中国の高名な僧侶「心越禅氏」がこの金沢の地を訪れたときに、海岸の風景が中国で景観の素晴らしさを誇る「瀟相八景」にそっくりだと思った。そのことを歌にして詠んだところから「金沢八景」という名が生まれたとされている。
1993年、横浜八景島シーパラダイスがオープンした。水族館、レジャー施設、ホテルなどからなる複合型遊園地、シーパラダイスは、その景観の素晴らしさをそのままに、市民のみならず、多くの観光客に愛されている。毎年、2月に行われる横浜国際女子駅伝の折り返し地点としても、知られている。

 海に浮かぶクリスマスツリーを見てみたいと思った。
横浜八景島シーパラダイス。高さ7メートルに及ぶブルーのクリスマスツリーが、湾内に浮かんでいるという。いくつもの青い光りが、水面にも反射して、夜は、ことのほか幻想的だろうと想像した。
 寒そうだから嫌だという友人を誘い出して、八景島に行った。園内は、カップルや家族連れで賑わっていた。まるで海の中にいるようなアクアチューブも圧巻だったが、潮風に吹かれて過ごした「ボードウォーク」での時間も心地よかった。八景島桟橋から島を回る船に乗った。15分ほどのクルージング。海から八景島を見ると、どこか遠くに旅したような気分にさせてくれた。
 遠い昔、キリスト教の布教をしていたセント・ニコラスという神父が、ある街で、とても貧しい家をみつけた。彼は、見るに見かねてその家の窓から金貨を投げた。その金貨は、偶然、暖炉の傍に干していた靴下に入った。そうして始まったとされるクリスマスプレゼント。私は、ニューヨークのある新聞に掲載された有名な社説が好きだ。
 「サンタは、ほんとうにいるの?」という八歳のバージニア・オハロンちゃんの質問に対する答え。
 「この世に、思いやりや愛があるのと同じように、サンタも存在します。見たことがないからといって、いないといえますか?」
八景島に夜がきた。シーパラダイスの青く光るクリスマスツリー。集うひとの笑顔にも、ネオンが映っている。輝く海に、優しい気持ちが浮かんで見えた。来年もまたいい年になりますようにと思っていたら、夜空に花火が舞った。空と海に、色がはじけた。

今日の「私の八景島物語」はいかがでしたか?出演、小林節子 脚本北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年12月15日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第38回 「私の新横浜ラーメン博物館物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の新横浜ラーメン博物館物語」

ラーメンブームを決定的にしたのはこの博物館かもしれない。館内すべてがラーメン専門のミュージアム「新横浜ラーメン博物館」だ。1994年のオープン以後、新横浜の人気スポットに成長した。JR新横浜駅からオフィス街を歩くこと5分。入場料は大人300円,子供100円。3ヶ月間何度でも使えるフリーパスは1000円。昭和の街なみを再現したレトロな館内、全国各地からえり抜きの名店のラーメンを手軽に食べられるほか、ラーメンのうんちく満載の展示ギャラリーなど何度訪れても楽しめる。

 友人の恵子と待ち合わせたのが新横浜駅。
 「おなかは」
 「空いてる」
 アウンの呼吸だ。映画「ALWAYS 三丁目の夕日」がヒットして昭和、それも33年がブームだが、ラーメン博物館は、毎日が昭和33年。生活はまだ貧しくとも、行く手に希望が仄かに見えたあの時代。力道山の空手チョップが始まると我が家は、テレビを前に隣近所の人たちで茶の間から玄関先までが埋まった。当時のことで、いまこの歳になってもみる夢がある。
 両親が一緒になって映画館をやっていたということもあって、ひとり留守番をしていることが多かった。その時に鳴る電話のベル。受話器のむこうから誰が、どんなことを・・・。まだまだ、電話はそんなに普及もしていない。今日では想像もできないが、子供にとって電話が怖いものだった時代があった。
 ベルが鳴ると同時に私は「どうしよう、どうしよう」と押入れに入り込んでガタガタ震えて、ある時寝込んでしまった。火鉢でサツマイモを焼いていたのも忘れて・・・。どこかで扉の叩く音がしている・・・。
 夢の中の私はいつも火だるまになる。もう駄目だ。逃げ様としても足が動かない。びっしょりと汗にまみれて、次の瞬間目が醒める。サツマイモが焦げあがって、煙が玄関や台所から流れでていたのだ。まだ私が幼かった昭和20、いや30年?
 昭和30年代ブームという。現代人が見失った人と人とのきずな、お隣が扉を叩いてくれなかったら・・・。穏やな、寛容な社会があった。テレビを観に町中の人がやってくる温かい社会があったことを若い人は知って欲しいし、生き抜いてきた人にはあの時代を思い出して欲しい――ひとりごちる。
 目の前の恵子はウエストを気にしながらも、額に汗を浮かべてミニラーメンとはいえ三杯目に挑戦している。

きょうの「私の新横浜ラーメン博物館物語」いかがでしたか?出演、小林節子 脚本、大多田純でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・


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2006年12月 8日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第37回 「私の有隣堂物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の有隣堂物語」

関内駅の近く、イセザキモールに位置する有隣堂本店書店館。創業は、1809年12月13日。横浜を愛し、横浜に愛されてきた歴史ある有隣堂は、文化の発信地として、その役割を守ってきた。有隣堂の名の由来は、中国の論語からきている。「徳は、孤ならず、必ず、隣りあり」。徳を積んでいるひとは、孤独にはならず、必ず、隣に誰かいる、という言葉に由来している。
神奈川の歴史や郷土コーナーも充実しており、ガイドブックやエッセイ、写真集も地元に根ざした品揃えになっている。もちろん、その他の書籍の種類も豊富で、多くの人が本を求めて来店する。
お客様とのコミュニケーションを大切にしたいという思いから始まった、十色のブックカバー。『何色になさいますか?』というひとことが、優しく響く。ブックカバーは、色紙のようなシンプルなデザイン。上質な手ざわりで『本は心の旅路』という文字と、カタツムリのマークが銀色で、さりげなく入っている。 (文庫のブックカバーは2006年から冬季限定で1色増えています)
 
 来年のカレンダーを買うために、有隣堂にいった。休日のイセザキモールは、にぎわっていた。吹き抜けの一階が特に好きだ。高い天井に文化の香りが昇っていく。人々は、思い思いに本を見ていた。選ぶ本はさまざまだったけれど、その横顔はどの人も同じように凛として見えた。
 カレンダーはすぐに見つかった。熊田千佳慕という94歳の画家が描いた花のカレンダー。草花や虫を愛し、自然とともに生きる横浜出身の画家の絵。彼の生き生きとした輝く描写力と、愛にあふれた優しさが心を満たしてくれる。
 熊田千佳慕は、1911年横浜市中区に生まれた。東京美術学校、現在の東京藝術大学を卒業し、グラフィックデザインの道に進んだ。横浜大空襲で被災後は、6Bの鉛筆と縁の下で拾った絵の具を使って細密画法を会得した。初めての絵本は『みつばちの国のアリス』。以来、子供の絵本や雑誌で、花や虫の生態画を手がけてきた。
 彼を好きになったのは『みつばちマーヤ』という絵本のあとがきを読んでからだ。こう書いてあった。「大きな自然の中で、小さな虫たちは小さな命を大切に守って生きているのです。人間も虫も同じ生きものです。なかまです。失われていく自然への感性を大切にしましょう。私も心の灯りを大切に、神の許しのある日まで、愛を大切に生きてまいります。またお会いできる日を楽しみに。心をこめて。千佳慕」
花の絵は、優しかった。丁寧で、温かかった。街に出ると、師走の風が頬にあたった。つめたかったけれど、その寒さが嬉しかった。

 今日の「私の有隣堂物語」はいかがでしたか?出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年12月 1日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第36回「私の山手公園テニス物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の山手公園テニス物語」

横浜、山手公園は、外国人居留地にあったことから、横浜の中の「外国」としての存在感を保ってきた。山手公園は完成して数年後、居留地外国人による『婦女弄鞠社』、すなわち、レディース・ローンテニス・アンド・クロッケー・クラブという女性のテニス団体によって管理運営されることになった。イギリスで始まったばかりのテニスが、1876年横浜に上陸。山手公園で初めて試合が行われたのである。
テニスは、いち早く横浜の女学校に取り入れられた。1870年に創設されたフェリス女学院は、早くから洋式の体操を授業に取り入れ、明治末には、ラケットを持った女学生の写真が残っている。当時のテニスコートは、長さは現在と一緒だが、幅が90cm広かった。テニスに興じる外国人を見て、地元の日本人は、「しゃもじ」と噂したと言われている。

 1918年、横浜に住む三人の詩人が詩集『海港』を刊行した。海の港と書いて海港。彼らは、横浜をこよなく愛した。その三人のひとり、柳沢健は、三木露風を中心とする大正浪漫主義を代表する象徴派の詩人であった。彼は、当時の横浜をこう歌った。
 「窓から覗けば、赤い建物はグランドホテル。山の上の風景は、仏蘭西人コンシェール館の薄霞。静かな雨、白い海鳥。ジャバの紅茶。カピタン室の空気の重さ、軽さ」
 その柳沢健の詩に、山手公園のテニスを詠んだ『ローンテニス』がある。
 「深き緑と、もつるる微風と、踊れるものよ、湧きたつものよ。足には軽き白靴を、手にはボールを、うかがい、うかがいて、彼女の肩を。ボールは強く、右手に響く。微風よ、微風よ、さざめき立てよ」。
 北原白秋の歌に、横浜の公園でテニスボールを追う外国人女性を歌った作品がある。
 「やわらかに、ローンテニスの球光る 公園に来て今日も思える」
 歌集『桐の花』に収められたこの歌は、彼の実体験に基づいている。彼は、そのころ、激しくもせつない恋をしていた。文学好きの人妻、松下俊子との恋。粗暴な夫から逃れたい思いの俊子と深い仲になった白秋だが、夫から訴えられる。仲を裂かれた後、俊子が、横浜の外国人相手のチャブヤで荒んだ生活をしているという噂を聞きつけた白秋は、彼女を探して、横浜山手を歩き回わった。
 歩き疲れた白秋は、公園のベンチで休んだ。そのとき、ヒマラヤスギ越しに、華やかな女性の姿が見えた。彼女たちはテニスをしていた。その美しさ、伸びやかさは、白秋の心に元気を与えた。それからしばらくして、彼は彼女を見つけ出す。
 当時の人たちに、テニスはどう見えたのか。そんなヒントが作品に垣間見られる。そして、ボールを打つあの音は、今も、変わらない。

 今日の「私の山手公園テニス物語」いかがでしたか?出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・



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2006年11月24日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第35回 「私のカレーミュージアム物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の横浜カレー・ミュージアム物語」

横浜は、わが国初めてというものが数多くある。今や日本の食卓の一番人気、カレーもそのひとつのようだ。横浜カレー・ミュージアムは、伊勢佐木町に2001年1月にオープンした。館内は、大正時代の横浜港をイメージして豪華客船や異人館などが映画のセットのように演出され、楽しいアトラクションも数多い。展示コーナーには、1872年に出版された「西洋料理通」「西洋料理指南」に記されている、日本最古のカレーのレシピを元に復元したカレーの模型が置かれている。カレーを食べながらその文化と歴史を垣間見ることができ、開館5年で内外の観光客を集める横浜の人気スポットなった。

 横浜は日本風洋食の発祥地としても知られている。野毛のキムラや花咲町のセンターグリルには家族でよく行ったものだ。母と私はセンターグリルのオムライス、父はカレーが大好物だった。
 2001年に、横浜カレーミュージアムができたことを知り、早速、興味津々で行ってみた。混雑していて、長時間待たされて中に入った。何を注文したのか覚えていないが、父が言い出したことで大いにもめたことがある。
 カレーは、ライスカレーなのか、カレーライスなのか!?
最初はどう呼ばれていたのか。どちらでも良いことなのだが、父は言い出したら、引かない、ハッキリしなければスッキリしない浜っ子だ。
 カレーの文化と歴史も教えてくれるミュージアムだが、どこを見て回っても、そんなことは一言も書いてない。父は、「ライスカレーが古いのだ」と家に帰ってまで言い張っていた。
 先日、待ち合わせで伊勢佐木町の有隣堂へいった。道すがらカレーミュージアムを通る。もはや時効となっていた「カレー論争」を思いだしてしまった。
 有隣堂には待ち合わせの相手はまだきていなかった。ここで1冊の本を見つけた。伊川公司さんが書いた「横浜・ハマことば辞典」。それによると「カレー・ライス」はライスカレーより後で使われ始めたとある。大正6年の「日用外国語辞典」にライスカレーはあるがカレーライスはない。昭和3年の林芙美子作「放浪記」には、「ねえ、洋食を食べない」「へぇ?」「カレーライス,カツライス、それともビフテキ?」というくだりでカレーライスが出てくる。
 どうやら我が家の5年に及ぶ「カレーが先か、ライスが先か」論争は父に軍配が上がったようだ。ライスカレーの文字から父の満足げな顔が浮かんでくる。

 今日の「私の横浜カレーミュージアム物語」いかがでしたか?出演、小林節子 脚本、浮田周男でお送りしました。ヨコハマストーリーまた来週をお楽しみに。

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2006年11月17日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第34回 「私の氷川丸物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の氷川丸物語」

横浜港、山下公園に係留されている氷川丸は、1930年に竣工、ただちにシアトルに向けて処女航海の途についた。この大型船は、一等船室など随所に1925年のパリ万国博で発表されたばかりのアール・デコ様式のインテリアが取り入れられている。
オーシャンライナー全盛期の優美な船のフォルムと、一流シェフの料理をはじめとする最高のサービス。氷川丸は「北太平洋の女王」と呼ばれた。1932年には、喜劇王チャーリー・チャップリンが、1937年には、イギリス皇帝ジョージ6世の戴冠式に出席された秩父宮ご夫妻が乗船された。太平洋戦争中は、病院船として使命を果たし、戦後は太平洋を横断する唯一の大型客船としてシアトル航路に復帰した。戦前戦後を通じて北太平洋を238回横断し、延べ2万5千人余りの乗客を運んだ氷川丸は、1960年現役生活を引退し、「横浜開港100周年記念事業」の一環として、翌年、生まれ故郷の横浜港に係留された。

 波の音がした。横浜の港にもさざ波は立つのだと、あらためて知った。潮風に交じった冬の気配。カモメの影が、山下公園の木々に小さく陰影をつけた。友人の葬儀は、ひっそりとしたものだった。告別式の弔辞は賛辞といたわりに満ちていた。でも、空が高すぎるせいだろうか。海が青すぎるからだろうか。ふいにせつなさが、こみあげてきた。
 気がつくと、大きな鎖でつながれた氷川丸の前にいた。
 桟橋入り口のボードウォークでは鼓笛隊が演奏している。生誕75周年と書かれた看板が見えた。まるで「偉大なひと」みたいな客船なのだ、と思った。せっかくだからと誰にともなくつぶやいて、チケットを買った。考えてみれば、この豪華客船に乗るのは、ずいぶん久しぶりだ。小さな男の子が、私の足元を走り抜けていった。船の油の匂いが、なんだか懐かしかった。
 船旅が夢を運び、人々の思いを届けていた時代の香りが、壁や床に残っていた。「氷川丸の生涯」という展示パネルに目が留まった。その航海は、波乱に満ちていた。戦争中、南太平洋海域で病院船として海を渡り、終戦後も、多くの同胞を家族が待つ日本に送り届けた。その後は、フルブライト交換留学生や「宝塚歌劇団」を乗せて話題になった。
 1960年8月、横浜。氷川丸最後の航海。デッキと桟橋の間に紙テープが乱れ飛ぶ、という説明つきの写真があった。たくさんの紙テープは、まるで大きなケーキに飾られた無数のロウソクのように、船を囲んでいた。
写真が、よく見えなくなった。泣いてしまった。涙が、最後の航海をにじませた。亡くなった友人も、75歳だったと思い出した。見えない紙テープを、投げてみた。それは、豪華客船に向けて、一直線に飛んでいった。そして、汽笛の音が聴こえた。

今日の「私の氷川丸物語」いかがでしたか?出演、小林節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年11月10日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第33回 「私の横浜国際総合競技場物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の横浜国際総合競技場物語」

2002FIFAワールドカップの決勝の舞台となった横浜国際総合競技場。1998年に完成し、日本最大規模の7万2千人を収容する屋外多目的競技場である。音楽コンサートも数多く開かれ、また,Jリーグ・横浜F・マリノスのホームスタジアムとして使われている。05年3月より日産自動車が命名権を取得して「日産スタジアム」と改称された。
ここで定期的に行われている「ワールドカップ・スタジアムツアー」は世界最高峰の舞台を戦った選手たちと同じ目線でスタジアムを楽しめるというイベントで、ヴィクトリーロードではワールドカップのテーマで使われた入場音楽につつまれ、フィールドへ。まるで試合に臨む選手になったかのような気分が臨場感たっぷりに味わえる。

 久しぶりの横浜国際総合競技場だった。三ツ沢競技場の近所に住んでいたという縁もあってサッカー観戦は趣味のひとつ。三ツ沢の応援風景もかなりのものだが、3年前の横浜国際総合競技場は、雰囲気が違っていた。
 世界が注目するワールドカップの決勝戦。時間は瞬く間に過ぎ、ピッチを切り裂くように、鳴り響く試合終了の笛。「神様ありがとう」優勝の瞬間、黄色いユニフォーム背番号9のロナウドが夜空にむかって十字を切った。スタンドが波を打つようにどよめき、私の耳にサンバのリズムがクローズアップしてくる。
 この日、久しぶりに競技場を訪れたのも、あの興奮と感動を再びという「ワールドカップスタジアムツアー」が開催されていると聞いたからだ。それにしても、間が悪い時はあるもの。出掛けに連れ合いが「ブラジルのサッカーもこれじゃあーな」と私に新聞を手渡した。「八百長に揺れる・サッカー王国ブラジル」と大きく活字が踊っている。全国選手権を舞台に八百長事件が発覚、違法なサッカー賭博に絡み審判が逮捕されたというのだ。一方のチームから不当にペナルティーを取ったり、選手を退場させたり、意図的に相手チームを勝たせた疑いがもたれている。これでは、選手は勿論、ファンも可哀想などと話しているうちにスタジアムについた。
 ピッチへ向かう階段を登るといきなり目の前に広がる美しい芝と7万2千人収容の観客席。ブラジルロッカールーム。2002年6月30日、決勝戦当日の姿そのままに再現されたカブラジル代表のロッカーだった。選手が残したサインや優勝を予言する数字が書かれたホワイトボード、黄色いユニフォームがずらりと並ぶ。その自信に満ちあふれた威嚇的にも映る光景は八百長騒動で揺れていた私の心をそっと鎮める。どこかでサンバの音がきこえて来た。ブラジル代表・セレソン(選ばれし者)の華麗なプレイがよみがえってくる。

今日の「私の横浜国際総合競技場物語」いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、大多田順でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・。

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