00_weblog_default_js

  • // JavaScript Document

fyb_switch_to_sp_js

« 横浜・明日への提言(52) アンチ・トリックスター | メイン | 横浜・明日への提言(54) 鐘の響く範囲で暮らそう »

2008年6月14日 (土)

横浜・明日への提言(53) たぎる根本、精神的規範を持とう

53

横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)
 
 下克上の戦国時代につづく江戸時代の大きなテーマは身分秩序の維持だった。そのためには戦争をタブー視しながら、なおかつ軍隊を維持しなければならなかった。今の日本とよく似ている。しかし、大きく異なる点がいくつもある。
 最大の相違点は刀を武士の魂として尊び、ひとたび抜くからにはそれなりの作法に則ることが厳しく要求されたことだ。抜くには正当な理由がなければならないし、相手に斬りつけるからには一刀のもとに勝負を決しなければならない。作法に反したり、見苦しい振る舞いがあったときには切腹を命ぜられた。作法の基になったのが中国の儒学を取り入れた朱子学で、そういう確固たる精神的規範があった。
 私の考えだと政治家は今日の侍のはずだが、有事のときにも保身が可能なように憲法を改正しようという動きがある。改正の是非うんぬんということとは別に、これほど侍にあるまじき振る舞いはない。
 改憲の理由が軽すぎるのだ。自分の都合に憲法を合わせるのではなく、こうと信じることを断行したうえで、憲法に照らして身を処するのが政治家本来の規範ではないのか。法律で身をよろい、いついかなるときでも法律条文に守られていたい。私にいわせると、そんなのは政治家ではない。
 徳川300年の治世の大詰めにペリーが艦隊を率いて日本に開国を迫ってきた。刀を抜くべきか否か。日本は議論に沸き、たぎった。
 たぎる
 幸田露伴が始めて使ったこの言葉が私は好きだ。たぎるということは国民全体が燃えたということ。財政赤字を減らすために「構造改革だ、民営化だ」というような後ろ向きのことでたぎったのとはわけが違う。 
 そこへいくと田中角栄元首相は日本という国のために捨て身で政策を実行したしっかりしたリーダーだった。捨て身のリーダーのわかりやすくて深い言葉は実に味があった。
「一軒の家で羊羹を貰った。子どもが五人いる。母親が羊羹を切って子どもに配る。そのとき物差しで計るか。目見当で五等分して、いちばん小さい子どもから取らせる。これが政治だ」
 私はこの話も好きだ。前回述べたトリックスターなどとは土台にある精神的規範からして違う。
 こういう政治で国民がたぎる。
 どうしたら、そういう日本になるのか。
 まず自分が人間味のある精神的規範を身につけることだ。だから、GNO、すなわち、義理・人情・恩返し。理屈抜きで身のまわりで身につけた精神的規範に則って振舞うことだ。世の中のことはそのうえで考えればよい。