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2008年6月

2008年6月30日 (月)

横浜・明日への提言(54) 鐘の響く範囲で暮らそう

54

横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)

 最早、批判の時代は終わった、どうすればよくなるのか。提言する段階だという認識で今日まで書きつづけてきたのだが、振り返ってみて自分で実行できる自分の提言がどれだけあるだろうか、あらためて考えてみると自信のあるものは意外に少ない。
 自分の頭のハエを追えない人間が他人のハエを追えるか。
 確かにその通りである。
 ミレーの晩鐘という絵画を知らない人はいないだろう。自分の役割を果たし終えて職場である野良で感謝の祈りを捧げる。タイトルは「晩鐘」だが、教会も鐘も描かれていない。しかし、間違いなく鐘の音が聞こえるような絵画だ。そう思って私ははっとした。
 鐘の響く範囲で暮らす。
 今の日本は嫌なことばかり聞こえ、目にして、知らされるといっても、グローバリゼーションのコスト主義で格差社会が満遍なく行き渡った世界の中では、まだまだ水槽の中で熱帯魚みたいにぬくぬくと生きていられる。世界同時格差の兆候は全体から見れば比率が小さい。だから、大事なのはまず今の暮らしを守り抜くことだ。
 それを妨げ、あらぬ怒りや不平不満を国民に駆り立てるのがトリックスターなのだから、おかしな方向にたぎらないようにするためにも精神的規範を自分なりに持つことだ。兎に角、今の自分と生活を徹底して守り抜く。利己主義ではなく自分を健全に保つことが病んだ世の中を治す唯一の治療法だと確信して・・・・。
 晩鐘を聴いて祈りを捧げる農民の夫婦を眺めながら、嫌なことばかり多くなった今のような世の中を生きぬく極意はそれではないかと私は教えられた気持ちになった。  
 国民の所得水準をGDPを基準に表すことがやたらに行われるが、要するに平均値だから目安の一つではあるが、現実とかけ離れていることが多い。たとえば中国国民の平均所得は平均値帯に分布するのはかぎりなくゼロに近く、実態は平均値よりはるかに低いか高いかのどちらかである。日本人の所得は平均値近辺に大多数が分布している。こういう場合、平均値で比較することに意味はない。 
 視聴者をシングルイシュー的なまわりが見えない状態に陥れるのがトリックスターのねらいだともいえるから、さきほどの例からもわかるようにケースバイケースで物差を使い分けるセンスを持つことが大切だ。
 自分を見失わず、今の暮らしを守り、世の中の現象をしっかり見抜く物差しを持つ。これができたら鬼に金棒だ。最近、とみにその大切さを痛感する。
 なぜ、そういう認識が国民共有の認識として育たないのか。こうした切り口から身のまわりを、もう一度、見つめ直してはどうだろうか。
 ミレーの「晩鐘」に感銘を受けながら、そんなことも思った。

2008年6月14日 (土)

横浜・明日への提言(53) たぎる根本、精神的規範を持とう

53

横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)
 
 下克上の戦国時代につづく江戸時代の大きなテーマは身分秩序の維持だった。そのためには戦争をタブー視しながら、なおかつ軍隊を維持しなければならなかった。今の日本とよく似ている。しかし、大きく異なる点がいくつもある。
 最大の相違点は刀を武士の魂として尊び、ひとたび抜くからにはそれなりの作法に則ることが厳しく要求されたことだ。抜くには正当な理由がなければならないし、相手に斬りつけるからには一刀のもとに勝負を決しなければならない。作法に反したり、見苦しい振る舞いがあったときには切腹を命ぜられた。作法の基になったのが中国の儒学を取り入れた朱子学で、そういう確固たる精神的規範があった。
 私の考えだと政治家は今日の侍のはずだが、有事のときにも保身が可能なように憲法を改正しようという動きがある。改正の是非うんぬんということとは別に、これほど侍にあるまじき振る舞いはない。
 改憲の理由が軽すぎるのだ。自分の都合に憲法を合わせるのではなく、こうと信じることを断行したうえで、憲法に照らして身を処するのが政治家本来の規範ではないのか。法律で身をよろい、いついかなるときでも法律条文に守られていたい。私にいわせると、そんなのは政治家ではない。
 徳川300年の治世の大詰めにペリーが艦隊を率いて日本に開国を迫ってきた。刀を抜くべきか否か。日本は議論に沸き、たぎった。
 たぎる
 幸田露伴が始めて使ったこの言葉が私は好きだ。たぎるということは国民全体が燃えたということ。財政赤字を減らすために「構造改革だ、民営化だ」というような後ろ向きのことでたぎったのとはわけが違う。 
 そこへいくと田中角栄元首相は日本という国のために捨て身で政策を実行したしっかりしたリーダーだった。捨て身のリーダーのわかりやすくて深い言葉は実に味があった。
「一軒の家で羊羹を貰った。子どもが五人いる。母親が羊羹を切って子どもに配る。そのとき物差しで計るか。目見当で五等分して、いちばん小さい子どもから取らせる。これが政治だ」
 私はこの話も好きだ。前回述べたトリックスターなどとは土台にある精神的規範からして違う。
 こういう政治で国民がたぎる。
 どうしたら、そういう日本になるのか。
 まず自分が人間味のある精神的規範を身につけることだ。だから、GNO、すなわち、義理・人情・恩返し。理屈抜きで身のまわりで身につけた精神的規範に則って振舞うことだ。世の中のことはそのうえで考えればよい。