00_weblog_default_js

  • // JavaScript Document

fyb_switch_to_sp_js

« 2008年4月 | メイン | 2008年6月 »

2008年5月

2008年5月31日 (土)

横浜・明日への提言(52) アンチ・トリックスター

52

横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)
 
 人間には潜在意識がある。だれもがそれを持っている。持っているけれども潜在して表面には出ない。眠っている意識だ。ところが、トリックスターといわれ、潜在意識を目覚めさせ、顕在する意識のうねりにする役割を果たすものがある。具体的にいえば、電車の中吊り広告やテレビのワイドショーなどでだれもが考えなかったことをいきなりポーンと提示されて、「おやおや」と思っている間に、みんなが興味を掻き立てられてしまうことだ。
 問題はトリックスターが常に仕掛け役で善、仕掛けられる側は悪という図式になることだ。たとえばテレビのワイドショーを観ていて「そうだ、そうだ」という視聴者も善、それも検証抜きの一方的な思い込み。仕掛けられた側は泣き寝入りも同然の立場に置かれてしまう。
 テレビや大衆誌のない時代にはあり得なかった現象だ。新しい現象には研究と検証が必要なはずなのだが、それらが間に合わないまま広く受け容れられてしまい、今やそれどころか高度情報化社会だ。
 機能ばかり高度化して情報の質的内容が伴わない。その傾向に視聴率という量的な物差しの競争が輪をかけた。数字を上げるには視聴者の潜在意識を刺激するのが手っ取り早い。それは何だ。問答無用の主観的正義感、安手のお涙頂戴、ヒーロー願望の裏返しの社会的エリートバッシングなどなど、視聴者の潜在意識を刺激しつづければよい。事実に裏付けられた客観的な意見をいうコメンテーターに代えて、トリックスター向きのコメンテーターを起用していけばよい。かくして、情報の質的検証はますます疎かになっていく。こうした悪循環の中で、人間が病気にかかるように社会も病んでいく。このような社会の病気を断つにはどうすればよいのか。
 一つはテレビのない時代とテレビが普及した時代の両方を生きた世代が、それぞれの社会現象の質的検証を比較論的にきちんとまとめ、世の中に公表することだ。なぜかその作業がまだなされていない。もちろん、私はそのつもりになっているが、それが70歳代の人間の使命だろう。
 もう一つは情報の取捨選択だが、比較論的な質的検証が行われなければ呼びかけても聞き入れられないだろうから、当面、アンチ・トリックスター対策は一つしか考えられない、ということにしておく。そういう意味で70代以上の世代の経験則は貴重だ。もっともっと注目されてよい。
 そもそも、横浜が開港した百五十年前、軍事的に核兵器の時代、航空機で世界が身近になり、インターネットで瞬時に情報が世界を駆けまわるなどという世の中をだれが想像したろうか。人類上、千年の歴史のゆったりした歩みをはるかにしのぐ最近百五十年の文明科学の急激な進歩に見合う哲学的・道徳的規範がきちんと用意されてきたかどうか。こうした歴史的な視点からの検証も必要だ。

2008年5月14日 (水)

横浜・明日への提言(51) マニュアル奴隷から脱却しよう

51

横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)


 逆説的ないい方をあえてすると、中国製冷凍ギョーザの農薬混入騒動ほど日本人の食生活によい意味で警鐘を鳴らしてくれた事件はなかったように思う。  
 騒ぎが起きる前は、中国製の冷凍食品が日本の家庭の隅々に行き渡り、おかあさん方がそれをレンジで加熱するだけで子どもの弁当をつくる。スーパーやコンビニで買ってきたものをそのまま子どもに持たせる。どっちにしても子どもに持たせる食べ物を自分は口に入れたことがない。こういう構図がすっかり出来上がってしまっていた。
 親は安全だけど子はどうなるかわからない。そんな格好になっていようとは、これまでだれも気づかなかった。
 むかしは親が食べて余ったものを子どもに持たせた。
「これ、おいしいから、持っていって食べな」
 安全のためという意識はなかったが、子どもより先に親が食べていたから、結果として何よりもの安全対策になった。
 むかしのことを持ち出すと「古い」という声が返ってきそうだが、そこに錯覚がある。最近二百年の間の科学文明の進歩は実にめざましい。電気製品から身のまわりの品物に至るまですべてコンピュータが人間の判断を代行し、肝腎の人間は金を払って買った製品をマニュアルに従って操作するだけ。携帯電話に夢中の子どもの姿を「エテ公が携帯を操作している」と酷評した知人がいる。表現は適切ではないが、ある意味、当たらずといえども遠からずと感じた。
 さて、ところで、科学文明の恩恵を享受するのは決して悪いことではない。問題は知恵がマニュアルの域を出なくなることだ。さらにいうなら、マニュアルは必要なもので、決してばかにしたものではない。では、なぜ、奥歯に物が挟まったようないい方をするのかというと、ディズニーという会社のマニュアル教育を引き合いに出すとわかりやすい。
 ディズニー社は、新人教育の際、彼らの頭にマニュアルをしっかり叩き込み、その上で次のように釘を刺すという。
「マニュアルはあくまでも参考です。あとは現場であなたが考え、もっとよい答えを出してください」
 消費者に対しても同じことがいえる。原産地表示も、消費期限も、賞味期限も、必要な表示、大切な情報である。しかし、表示頼み、情報だけが判断の頼りというのでは、折角、持ち前の味覚、嗅覚などの食感が泣く。         
 自分で判断し判定できるようになったうえでの表示でないと、与えられた情報を頭から信じるだけのシチュエーションはどこまでいっても変わらず、消費者までだれかさんに「エテ公」と呼ばれかねない。このブログの読者だけでも、せめて、本来の食感を磨き、マニュアルの奴隷みたいな生き方におさらばしたいものである。