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2007年3月 2日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第49回 「私の横浜ビール物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の横浜ビール物語」

横浜開港6年目の1864年のこと。ウィリアム・コープランドというアメリカ人が、横浜にやってきた。彼の夢はビール醸造所をつくることだった。ノルウエーに生まれて5年がかりでビールの醸造を学び、さらにアメリカに渡ってビールを研究した彼は、アメリカに帰化したのち日本にやってきた。横浜に住んで6年。1870年に、ついに念願の日本で初めてのビール醸造所スプリングバレー・ブルワリーを、天沼の豊富な湧き水を利用できる横浜山手の居留地区123番(現在の中区千代崎1丁目25番)に建設した。
日本人はこの工場でできたビールを『天沼ビアザケ』と呼んだ。その醸造所は1884年に閉鎖されたが、翌年にはジャパンブルワリーとして再建された。そして1888年にキリンビールというブランドが生まれる。のちに麒麟麦酒株式会社がこれを引継ぎ、関東大震災までの半世紀にわたりビール産業の歴史を刻み続けた。工場のあった「キリン園」跡地には、麒麟麦酒開源記念碑が立っている。

 キリンビール横浜工場ビアビレッジで、「ビール五千年の旅」探求プロジェクトがあると聞き取材に出かけた。
 ビールの起源は思ったより古い。古代メソポタミアではシュメール人が麦からビールをつくりはじめたという。その様子はモニュマンブルーの粘土板に残されている。まず麦芽を作り、砕いて水とこねる。軽く焼いてパンをつくり、それをほぐして温水を加える。おかゆのようにすると麦芽アミラーゼの働きで糖分が増え、酵母が増殖して発酵しビールになる。その上澄み液を細い管で飲んだのが最初とされている。
 こうしたビールづくりはシュメールからバビロニア、エジプトに伝わった。当時のビールは、医薬品としても使われていたらしい。もっと驚いたことに、あの巨大ピラミッドを建設した何万という人々に、パンとビールが支給されていたというのだ。
映画や小説に登場する古代エジプトのイメージは、国王が国民を従え、むちをうって、自分の大きな墓を作らせていたというものだった。
 しかし、ピラミッドを作った人々が住んでいた町の跡を調べると意外な姿が見えてきたという。実は人々は喜んで働いていたのだ。普通の農民や職人がまるで会社にいくように、規則正しく通っていた名残がみつかった。食事や休暇もキチンととり、医者にも恵まれ、出勤簿までつけていたという。
 とはいっても、王族と一般庶民との食べ物は違った。王様がフルコースなら、庶民は、にんにくと大根がメインだった。しかし王様と庶民が、共通して楽しんだものがビールだった。
 全てのエジプト人が、1日の始まりと1日の終わりにビールを飲む。そんな姿を想像していたら「1888年のビールを再現したものがあります!」と係りのひとが持ってきてくれた。口を近づけると麦芽の香り。まるで自分がピラミッドの前に立っているかのように、ゆっくり喉を潤した。

今日の「私の横浜ビール物語」いかがでしたか?出演、小林節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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