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2007年2月

2007年2月28日 (水)

横浜・明日への提言(23) 精神的遺産都市宣言

23

横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)

 世界文化遺産登録のための追加国内候補が出揃ったのが1月23日。現在、登録に向けてユネスコで選考が進んでいると思われるが、もし、開港当時の町並みが残っていたら、間違いなくミナト・ヨコハマも候補に挙げられただろう。しかし、関東大震災、戦災で二度廃墟を経験、赤レンガ倉庫、開港記念会館(ジャック)、神奈川県庁旧庁舎(キング)、横浜税関(クイーン)、神奈川県立歴史博物館などがとびとびに残っただけで周辺は近代的なビル街に一変した。かつてはあったというだけでは世界遺産登録は無理だろう、とだれもが思うに違いない。
 世界文化遺産への登録、地域名産ブランドの獲得が町おこしの手段に用いられる傾向が全国的に目立ってきた。町おこし自体は大いに結構なことである。だが、世界文化遺産、地域名産にしても、物に与えられるブランドである。横浜は物をなくしたが、精神的には復興都市だ。廃墟を二度も経験しながら常に蘇った。その歴史に着眼すれば先人たちの不屈の精神が浮かび上がる。日常は目立たないが、いざとなれば浜っ子は物凄い底力を発揮する。これほどの精神的遺産を遊ばせておくのはもったいない。
 開港当時の横浜も、考えてみればゼロからの出発だった。しかし、ゼロにならないと底力を発揮しないというのではまずい。日頃から大きな目標を持ち段階を積み重ねて組み上げていく。そういう姿勢に切り替えることが、開港150年目を迎えようとする横浜の課題だ。
 ミナト・ヨコハマに限っていえば、政策的にも、インフラ整備の面でも段階を踏んで、とうとうスーパー中枢港湾(ハブポート)の実現に漕ぎ着けた。京浜港に千葉港、木更津港を加えたスーパー中枢港湾が世界のハブポートとなるならば、あえてミナト・ヨコハマの伝統ある名称にはこだわらない。たとえばの話だが、スーパー中枢港湾をメトロポリタン・ポートの名前で包括し、ミナト・ヨコハマをカッコ書きすればよい。そういう大きな目標で明日にチャレンジしつづけている。
 横浜市全体がこうした具体的な目標を掲げ、不屈の精神を土台に日々チャレンジし、明日を築く。目標は今後の議論に待つとして、精神的遺産都市宣言をスローガンとして、次に来るべき開港200年へのバネとしたらどうか。
 目標が定まらなければ行動も始まらない。だから、目標は大きいに越したことはないし、多ければ多いほどよい。開港150周年記念イベントの目玉はその中からおのずと生まれてくるはずである。

2007年2月23日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第48回 「私の神奈川スケートリンク物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。
そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。
そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」 今日は、「私の神奈川スケートリンク物語」。

東急東横線・反町駅。JR東神奈川駅。京浜急行・仲木戸駅、神奈川駅。それぞれの駅から徒歩5分ほどの場所にある神奈川スケートリンク。オープンしたのは昭和26年、今年で55周年を迎える。屋内スケートリンクとしては日本で最も古い。54m×27mのメインリンクと、27m×6mの初心者用サブリンクの2つがあり、滑走料金は幼児・小学生が800円から大人の1200円まで4段階で、スケート靴は400円で借りられる。入場後は料金は加算されず、閉館時間まですべることが出来るのも人気の一つだ。
閉館時間後は、アイスホッケー、フィギュアスケート、カーリングなど部活動や各団体の練習場としても使われ、ここから神奈川県を代表する数多くの選手が生まれている。

 反町に暮らす幼なじみのお宅を訪ねた。子どもの頃の懐かしい話題で盛り上がっていると、お嫁さんが「お母さんたちにもそんな頃があったんですね」と熱いお茶を注いでくれながら語りかけてきた。
 「あの頃、私たちはオテンバでね、男の子とケンカしても負けなかったんだから。そういえば、我が家のオテンバ娘はまだ帰ってこないの?」と友人。
「ケイ子なら神奈川スケートリンクに行ってますよ。あの子、ミキティやマオちゃんにすっかり夢中になっちゃって」
 ケイ子ちゃんは友人のお孫さんで、小学3年生。家からほど近い神奈川スケートリンクのフィギュアスケート教室にこの冬から通い始めたという。
 「ねえ、ケイ子のフィギュアスケート姿、見に行ってみない?」
 友人の誘いに、ケイ子ちゃんに久しぶりに逢いたかった私は二つ返事で応えた。
神奈川スケートリンクは、何年ぶりだろうか。若いカップルに混じって、割とお年を召した方々も楽しそうに滑っている光景に少し驚いた。
 フィギュアスケート教室はサブリンクで開かれていた。私たちは、彼女に見つからないように様子を見守ることにした。子どもたちが一人ひとりコーチの前をすべってポーズを決めている。ケイ子ちゃんに順番が回ってきた。彼女は両手を広げ颯爽と滑るが、ターンに失敗して尻餅。すぐに立ち上がってもう一度挑戦。今度はきれいにターンを決めた。コーチに頭を撫でて誉められケイ子ちゃんも嬉しそうに微笑んだ。
 練習が終了して、彼女は私たちに気がついた。私は「ケイ子ちゃん上手ね、誰のようになりたいの?」と訊くと、「私、浅田真央ちゃんみたいに滑りたいの。オリンピックにも出るの。」と目をキラキラさせて答えてくれた。今はスケートが楽しくて仕方がないようで「じゃあ、おばあちゃんたち、また後でね。」と言うと友達が滑っている場所へ戻っていった。
 私たちはしばらく彼女が楽しそうに滑る様子を見ていたが、友人がついにこう切り出した。「ねぇ、私たちも久しぶりに滑らない?あの子のキラキラした目を見てたら、何でも出来るって思っていた子どもの頃を思い出しちゃって。」
 私は躊躇したが、結局彼女の勢いに押し切られ、滑るはめになってしまった。
 孫に手を振りながら友人は「私もフィギュア教室に通おうかしら。8年後には孫と一緒にオリンピックに出たいわ」と言う。私たちは一瞬顔を見合わせ、しばらく笑いが止まらなかった。

今日の、『私の神奈川スケートリンク物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、二羽信宏がお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

2007年2月16日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第47回 「私の日本新聞博物館物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の日本新聞博物館物語」


横浜には日本で最初が多い。1870年「横浜毎日新聞」発行、日刊新聞も横浜から。日本新聞博物館はその日刊新聞発祥の地横浜に2000年に開設された。新聞のことなら何でもわかる新聞専門の博物館でニュースパークとも言う。この博物館は横浜の歴史的な建造物である旧横浜商工奨励館を改築、改装した横浜情報文化センターの中にある。新聞の歴史、新聞社の仕組みや情報の大切さなどを学んだり、自分だけの新聞や広告をつくったり、子供からお年寄りまで楽しめる仕掛けがいっぱいで、自然と新聞について詳しくなれる。
新聞ライブラリーには日本新聞協会に加わっている各社の発行する日刊新聞が創刊号から収集、保管されていて調査や研究に使用できるのはもちろんのこと、自分の誕生日や記念日などの新聞をコピーすることができる。

 お蕎麦屋さんで手にした週刊誌を読んでいくうちに何かおかしな感じがした。
タレントのロマンスなのだが、週刊誌の表紙を見ると1年前のものだった。おかしな感じは当たりまえだ。その二人はもう離婚している。
 日本新聞博物館は創刊号からの新聞を読むことができる。少し前のことだが、取材でお邪魔した時に自分の誕生日の新聞を調べてみた。大昔の新聞を読んでいるようだった。物の値段が違う。広告も。レトロなどといえば格好言いが、古いこと,古いこと。「私はそんな古くないぞー」と新聞に向かって怒ってみる。
 同行したディレクターは、「帝銀事件知ってますか、僕は事件の翌日に生まれたんです」といい歳をしてはしゃいでいた。時間が経って、時差をつけて情報と出くわすのは、実は面白い。
 日本新聞博物館を訪ねた数日後、山下公園の陽だまりのベンチに座りウツラウツラしながら新聞を読んでいる。なにかおかしな感じがした。2月なのに「三ツ沢公園の桜満開、フレッシュマン花見の陣取りにおおわらわ。プロ野球、ベイスターズ開幕から6連勝」思わず日付を見ると4月10日。
 あれ、去年の新聞?!、と、もう一度日付を見る。2006年4月10日、どうみても今年のものだった。どうやら私は宝物を手に入れたようだ。それからが忙しかった。誰もが考えるように、ギャンブルの結果、競馬も競輪も結果を、未来の新聞は教えてくれる。連れ合いは、「生きてて良かった」などと大げさにいい、恥ずかしげもなく「新聞は俺のもの」と本性剥き出しで私から奪い取る。連れ合いのカッコ悪さをみる。
 ―――と。「フウーッー」とたんに夢から醒める。
 新聞も時間が経ってある程度結果が解った時点で読みなおすと面白いものだ。間違いの多いことにも気付く。何はともあれ、どう考えても未来の新聞なんてありはしない。何でも教えてくれる日本新聞博物館だって。

 今日の「私の日本新聞博物館物語」いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、大多田純でおおくりいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに。


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2007年2月14日 (水)

横浜・明日への提言(22) 客観的評価と主観的評価

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横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)
 
 生活者の視点、国民のほうを向け、内閣支持率、果ては勝ち組・負け組に至るまで、政治家やマスコミが考えたキャッチフレーズや造語が氾濫する世の中である。私は言葉だけ踊るような風潮が嫌いだから耳をふさぐようにしているが、内閣支持率で政権が浮揚したり沈んだりする昨今の風潮だけは黙っていられない。
 内閣支持率は世論調査で弾き出される。では、その世論調査とは何なのか。それを知らずに勝手なことをいってはもうしわけないので、世論調査の専門家に説明を求めて驚いた。世界の社会学者の間では「世論などない」というのが定説だというのである。
 FMヨコハマにも大いに関係あることだが、視聴率調査についても「犬が見てても視聴率」という揶揄的な業界言葉があるそうだ。テレビの前にいるのはペットだけでも測定機器のスイッチが入っていれば記録紙にカウントされてしまう。それはさておき、視聴者の好みや満足度などの質的な反応を知る客観的評価手段がないため便宜的に視聴率を用いているわけで、必ずしも正しい方法ではないという。それが業界の常識といわれたときは正直驚いた。われわれはあやふやな評価に踊らされて一喜一憂しているわけだ。
 内閣支持率に話を戻すと、世論調査には量的調査と質的調査があるが、後者は善悪・良否・正邪などの判定が調査票質問文設計者の主観に左右され結果の判定が客観的でなくなるため、現在はほとんど用いられないという。量的な調査なら質的な吟味なしに世の中の動きや思潮を項目化してそれぞれに傾向を数値で測るだけだから、それなりに客観的な結果が得られやすい。
 「つまり、傾向を測るだけで、価値判断は含まないのが世論調査。仮にそれを世論というとしても参考に留めるのが本筋で、丸呑みにして従うなど愚の骨頂だ」
 長く生きてきて、これほど驚いたことはない。
 ミナト・ヨコハマについても、客観的というと輸出量がいくらいくらで世界第何位という数値だけ語られて、それが正確無比で不動の評価であるかのようにいわれる。港湾技術の優劣などは数値化できないし、判定できるセンスを持つ者が第三者にいないから、質的な評価は港湾関係者が自分で判定し、改善はもとより創意工夫に智恵を絞り実現に汗を流す。それがミナト・ヨコハマの流儀だ。世論調査の何たるかを聞いてから、私はますます主観的な評価を大事にし、われわれがかくあるべしと信ずるミナト・ヨコハマにしていこうと強く決意した。
 FMヨコハマについても同じことがいえる。どこのだれが何をいっているかもわからない数値だけの視聴率・聴取率などより、地域に密着したエフエム放送に深い愛着を持ち明確な好みから発せられるリスナー個人の意見のほうがはるかに尊い。
 そこで結論、これからの日本と横浜に必要なのは、脱数値的評価による方向性を見出す努力だろう。それができたら、個性的な都市が日本のあちこちに出現し、当然、真っ先にこころがけた横浜が最先端を行っているはずである。

2007年2月 9日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第46回 「私の総持寺物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。
そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の總持寺物語」

曹洞宗総本山「總持寺」はJR京浜東北線か京急線の鶴見駅から歩いてすぐのところにある。石原裕次郎の菩提寺としても有名なこの寺は、他にも元総理大臣の芦田均、元横綱の前田山、そして画家の前田青沌など著名人の墓が多い。総持寺の正式名称は、「諸嶽山総持寺」。その開創は、675年もの昔にさかのぼる。もとは石川県能登半島にあり、1万3千余りの寺院を擁する大本山だったが1898年4月13日の夜、本堂の一部より出火。火はまたたくまに全山に広がり、慈雲閣、伝燈院を残し伽藍の多くを焼失した。それから7年後の明治38年5月、本山の貫主となった石川素童禅師は、本山の復興は現代的使命との自覚にもとづいて、寺院を横浜鶴見の丘に移した。
現在の総持寺は、前に東京湾と房総半島を望み、後ろに富士の霊峰をしたがえた景勝の地にある。わが国の海の玄関、横浜に位置するところから、国際的な禅の道場としての役割も担っている。

 曹洞宗の総本山が、横浜のそれも街中にある。それが妙に不思議に思えて、訪ねてみることにした。鶴見駅から歩いて数分。参道はゆるやかな登り道。奥に進むと、霊験を感じさせる本堂や、なぜか真新しい拝殿が見えてくる。手入れの行き届いた境内、特に渡り廊下が磨き上げられているのを見ると、心が浄化されるような気持ちになる。
 一番奥は後醍醐天皇の御霊殿。1322年のこと、総持寺をまかせられていた宝山禅師のもとに、後醍醐天皇の使者、臨済宗の和尚がやってくる。和尚は後醍醐天皇から託された十種の質問を禅師にゆだねた。その返答が帝の心に深く響き、同年8月28日に、総持寺は曹洞宗、曹洞出世の道場として認められ、紫の法服を着用することが許されたという。そういえば、この禅師には、面白いエピソードがあった。夢の話だ。
 日本海に突き出た能登半島の一角に諸嶽観音堂という霊験あらたかな観音を祀った御堂があった。その住職である律師が1321年の4月18日の夜、夢を見た。枕元に観音様が現れて「酒井の永光寺に宝山という徳の高い僧がいる。すぐ呼んで、この寺をその禅師に譲りなさい」と言った。
不思議なことに、その五日後の23日の明け方、やはり能登の永光寺で座禅をしていた宝山禅師本人も、まったく同じようなお告げを聞いた。観音様は、「諸嶽観音堂にいきなさい」と言った。宝山禅師はかねてから、諸嶽観音堂を禅の寺にしたいと考えていたので、寺におもむき住職となった。
 禅師と律師は夢で通じ合った。律師は夢のお告げだけで山を譲り、山をおりた。禅師は夢のお告げだけで山に出向き、一生をささげる覚悟を持った。宝山禅師は、寺の名を仏が満ち満ち保たれている総ての中心という意味をこめて、総て持っている寺と書いて「総持寺」と名づけた。

今日の「私の總持寺物語」はいかがでしたか?出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2007年2月 2日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第45回 「私の六角橋商店街物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の六角橋商店街物語』。

東急東横線・白楽駅前の六角橋商店街。表通りから一つ裏にはアーケードに覆われた仲見世通りがある。人がすれ違うのも大変なこの通りは、まさに昭和の下町風情が今なお残っている。通りは肉屋、魚屋、八百屋といった定番商店から、時計屋、鉄道模型などの専門店、そしてラーメン、オデン、カフェなどの飲食店まで、180店舗近くが軒を連ねる。近くには神奈川大学があり、お年寄りから若者まで通りを行き交う人々の年齢層は幅広い。六角橋商店街は今も残る昭和下町情緒のおかげで、テレビや映画のロケ地に選ばれることも多く、最近思わぬ注目を集めている。

 白楽に住んでいる大学時代の友達、正を久しぶりに訪ねた。落ち合った白楽駅は神奈川大学の学生さんだろうか?若者たちの姿が目に付き、六角橋商店街も活気が感じられる。
 昨年2月、仲見世通りの一角で18店舗を焼く火災が起きた。仲見世通りの狭い路地をいくと、現場はいまだにビニールシートがかけられていた。ビニールシートの前には食料品が並べられ商売をしているのに驚いた。そのたくましい姿にかつての昭和の風情を見たような気がした。
 仲見世通りの中ほどにある[喫茶・はら]にむかう。正と私の白楽でのおきまりのコース。途中アクセサリー店や南国風のカフェなど、新しい店もいくつか見受けられた。新しい店も不思議に通りの雰囲気に溶け込んでいる。
 「喫茶・はら」は座席が12席しかない小さな喫茶店。いつも黒いエプロンのマスターが一人で切り盛りしている。マスターは60代半ばで戦後間もない頃から六角橋に暮らし、20数年前からこの場所で喫茶店を経営しているという。 マスターと昔話に花を咲かせた。しばらくして一人の男性が店に入ってきた。
 「おじさん、お久しぶりです!」とマスターにニコニコしながら話しかける。
彼は元・神奈川大学の学生で、15年ぶりに六角橋を訪れたという。学生時代にこの店に通い、よくマスターの作る焼きそばを食べていたそうだ。15年前と変わらないという店の雰囲気にとっても嬉しそうだ。彼は当時自分の暮らしていた下宿屋が無くなっていたこと、通った銭湯はまだ残っていたことなど、マスターと私たちに語りかける。
 そんなことを話していると、今度は若者が二人入ってきた。そして開口一番「おじさん、卒業決まったよ!」。2人は神奈川大学の4年生でこの店の常連。卒業が決まりマスターに報告しにきたのだ。卒業後は一人は故郷の大阪へ、もう一人は千葉の企業に行くとのこと。
 それを聞いた男性は「じゃあ、今日は先輩がおごってやるから、何でも注文していいぞ」と若者たちに語りかける。
 「ありがとうございます!」
 「その代わり、卒業して横浜に来ることがあったら、必ずこの店に寄るんだぞ」と男性は付け加えた。六角橋商店街。古き良き時代からの商店街に息づく優しがいまも残っている。

今日の、『私の六角橋商店街物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、二羽信宏でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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