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2007年1月

2007年1月31日 (水)

横浜・明日への提言(21) 麗しき後継争い

21

横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)

 前回述べたように、横浜は確かに道が狭い。震災と戦災で二度都市インフラを失い、郊外の急激な人口増加と緑地への対応を優先したことにより、都心部の復興が遅れたためだ。だから、行政にどうにかしろといってもどうにもならないことが多い。これを不満のままに留めてしまうか、お先にどうぞの精神で解決するか、その違いは実に大きい。
 ところで、お先にどうぞの精神は何から生まれるのだろうか。私は答えを考えながらある出来事を思い出した。かつて岸野清太郎さんという政治家の鑑のような県会議員がいた。その人の秘書を努めたのが先頃現役を引退した梅沢健治元県会議員である。しかし、梅沢健治さんが県会に立つ前に一波乱あった。岸野清太郎さんが亡くなってだれが跡を継ぐかで、次男の登君と梅沢健治さんの間で喧嘩が始まったのだ。その仲裁役を頼まれ喧嘩の原因を聞いたとき、私は驚くと同時に感動した。
 政治家の後継争いというと、双方が「俺にやらせろ」と張り合うのが普通だが、二人の場合は「おまえがやれ」の譲り合い、実に麗しい後継争いだった。どちらも政治家にしたい、なって貰いたいとこちらから頼みたい男だ。それだけに何も知らずに仲裁を引き受けた私は思わぬ苦渋を味わった。しかし、二人は立てられないから、登君には事業を継がせ、政治は梅沢健治さんに委ねることで収拾した。その後の梅沢健治さんの世の中への献身は政界に広く知られる通りである。
 義理・人情がしっかり身につくと、高潔・清廉・公正な資質が生まれる。いわゆる正しい分別が身に備わるわけだ。そういう意味で、私は二人の喧嘩は単なる謙譲や相手への気兼ねから始まったのではないと理解した。加えて、梅沢健治さんは岸野清太郎・登親子から受けた恩を世の中にそっくり返した。
 今日、パフォーマンス政治がマスコミにもてはやされ、世間もそれなしでは満足しない世相だが、彼我の隔たりの何と大きいことか。
 義理(G)・人情(N)・恩返し(O)の大切さは、今、盛んに論じられている企業のコンプライアンスにも当てはまる。G・N・Oは流行や風俗からすると時代遅れに受け取られがちだが、政治と同様コンプライアンスをも裏打ちする規範なのだから、古いとか新しいとかの尺度で論じるものではない。だから、コンプライアンスそのものを云々するよりも、その根源にあるG・N・O、すなわち日本人固有の精神的規範の確立を急ぐべきだろう。
 浜っ子といえばG・N・Oといわれるようになれば、当然、都市インフラ整備に抱く不満はあらかた消える。しかも、整備すべき優先順位が明快になり不毛の議論が影を潜め、横浜全体に和が生まれるに違いない。これぞ浜っ子が持つべき分別というべきか。

2007年1月26日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第44回 「私の大倉山物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の大倉山物語」 

東急東横線大倉山駅は、かつて地名から太尾駅と呼ばれていた。1932年3月に渋谷・桜木町間の東横線全線開通の際に現在の大倉山駅に変更された。
1928年6月のある日、後に大倉山と呼ばれる太尾村の小高い丘に二人の男が立っていた。一人は東京横浜電鉄常務五島慶太。もう一人は西洋の紙の取り扱いで資産を増やした大倉洋紙店の社長大倉邦彦。大倉は持っていたステッキをぐるっとまわして「だいたい、このくらいの土地がほしい」と言った。そうして五島慶太から買った土地が7,500坪。二人は、ともに明治15年生まれの46歳だった。
その丘からは西南に富士山、東南に横浜港、北には国会議事堂が見えた。日本の象徴と近代西洋文明の窓口そして首都。それらを一望できるその丘は、東西文明の融合を目指した大倉邦彦にとって理想の地だったに違いない。彼は常に教育の大切さを説き、個人の成長の上に会社の発展があり、国家の繁栄があると語った。彼はこの大倉山をひとつの地球と見立て、文化の種を植え続けけた。

 大倉山記念館でのコンサートの司会をすることになった。風は冬の肌触りだったが空気には春の予感がひそめいていた。東横線に並行して続く坂道を登ると大倉山公園の入り口。そこから三十数段の階段をあがると、目の前にギリシャ神殿風の建物が見えた。これが、大倉山記念館だ。この記念館は実業家で東洋大学学長も勤めた大倉邦彦が、古今東西の精神文化研究のために昭和7年に建設した。その造りは重厚でゴージャス。古典主義様式建築の天才と言われた建築家長野宇平治のモニュメントだ。
 記念館の横を通り抜け、大倉山梅林に向かった。梅が見たかった。
 東横線開通直後に乗客誘致のため植えられたたくさんの梅。当時は白梅を中心に14種類1,000本を越えていたが、第二次大戦中に燃料用の薪として伐採されてしまった。そして戦後昭和25年頃から再び梅祭りが復活したという。現在は25種類、約180本の梅が植えられている。
 まだ満開には早かったが、八重野梅や寒紅梅は少し花をつけていた。この梅林で本数が多いのは大きな実をつける「白加賀」。中国伝来で花が緑色がかった「緑がく梅」が春を呼び込むかのようにつぼみをふくらませていた。私は、「思いのまま」という梅が好きだ。白とピンクの花を思いのままに咲かせる。
 大倉山をつくった大倉邦彦は「ひとは信仰心を持たなければならない」と説いた。彼の言う信仰心とは「宇宙全体の中で、使命を持って生まれ、そして生かされている自分を自覚すること」だった。彼は宗教や宗派にとらわれてはいけない、修行の手段は違ってもおおもとは一緒だと語ったという。
 梅を見ながら、そんなことを考えていたら、今日のコンサートの演奏者にばったり会った。
 彼は、まぶしそうに梅を見て「毎年、同じように見えるけれど、ひとつとして去年と同じ花はないんですよね」と言った。柔らかな風が、つぼみをかすかに揺らした。

今日の「私の大倉山物語」はいかがでしたか?出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2007年1月19日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第43回 「私の横浜中華街春節物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。
今日は「私の横浜中華街春節物語」 【2007年の春節は2月18日(日)です】

横浜中華街では春節にむけて「春節燈花」が始まっている。春節とは中国のお正月。旧暦の一月一日に祝う中国では最も盛大な祝日だ。「春節燈花」とは、春節を祝って行う中華街のイルミネーションのこと。歩道整備でゆとりある歩行空間と魅力的な装いに生まれ変わった中華街に、空に浮かぶ雲の形のイルミネーションを施すとともに、中華街全域に電飾と提灯を飾っている。
横浜中華街で春節の行事が始まったのは1986年。中華街発展会は、中華街は食事を楽しむ場所であるとともに、文化を伝える場所でもあると考えた。横浜生まれの中国人が多くなった今、伝統を守っていくことの大切さは計り知れない。また街全体がひとつになってお祭りを開催することの意味は、年々大きくなる。

 毎年、春節の時期には中華街を訪れる。春節の別名は「過年」。中国では『年』は、頭に角が生えた恐ろしい怪物だという伝説がある。大晦日になると、深い海の底からこの『年』という名の怪物が這い上がってきて、村に繰り出し家畜や人を食べてしまう。だから、大晦日には村人たちは家畜を追い老人と子どもを連れて山に逃げた。
 ある年、もうすぐやってくる大晦日に備えて、村人たちが準備をしていると、村に汚い身なりのおじいさんがやってきた。おじいさんは、お腹をすかせていたが村人は、彼にご飯をあげる暇もなかった。でも、ある優しいおばあさんが可哀想に思い、にぎり飯を作って上げてこう言った。「もうすぐ『年』という名の怪物がやってくるから、早く逃げなさい」。おじいさんは、にっこり笑って、逃げるどころか「おばあさんの家に泊めてください。そうしたら、その『年』をやっつけますから」と言った。おばあさんは、そんな簡単にいくわけがないと思が、おじいさんの姿をもう一度よく見ると、どこか気位が高くかくしゃくとしていて、頼もしい感じもしてきた。でも、やはり無理だと思い「バカな真似はおよしなさい」と言ったが、おじいさんはただ微笑んでいるばかりだった。
 誰もいない村におじいさんだけがいた。大晦日の夜は更け深夜になった。そして、『年』という名の怪物がやってきた。怪物は、いつもと違う雰囲気にとまどった。おばあさんの家の門には赤い紙が貼ってあり、家の中は煌々と灯りがともっていた。ビクビクしながら『年』は、おばあさんの家に近づいた。『年』が庭に入るなりバンバンとけたたましい音がした。そこへ、赤いマントをまとったおじいさんが現れて「あははは」と大声で笑った。『年』は、心底驚いてあわてて逃げ出した。
 戻った村人たちは、すっかり無事な村を見て驚いた。おばあさんは、おじいさんを探したが見つからなかった。ただ自分の家の門に赤い紙が貼られ、ろうそくが燃えていた。バンバンと音がするので行ってみると、竹が火に燃えてはぜていた。以来、どこの家でも大晦日になると、縁起のいい文句を書いた赤い紙を貼り、爆竹を鳴らし、夜中まで灯りを灯しておくようになったという。
 春節は、この『年』という名の怪物が無事に過ぎたお祝いなのである。

今日の「私の横浜中華街春節物語」いかがでしたか?出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・


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2007年1月14日 (日)

横浜・明日への提言(20) お先にどうぞ

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横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)

 正月の松飾りも取れて、世の中が活発に動き出してきた。私は元旦から歩いてミナトの関係の会社に出た。これは毎年恒例のことで、大晦日も元旦も、入院したとき以外は出社を欠かしたことがない。
 道々、私は歩きながら考えた。正月の間、本牧の自宅から北仲通の会社まで初詣の若者と数多くすれ違った。今の若者は男女に関係なくわが道を行く感じで歩くので、すれ違うたびに私が脇によけて道を譲った。だから、正月はいつもより時間がかかる。
 なぜ、こんな話を持ち出したかというと、若者の態度が傍若無人だとか、横浜は道路も歩道も狭いというようなことをいうためではない。確かに道は狭いし、だれもが好き勝手な歩き方をしたら、お互いに肩をぶつけ合って不愉快な思いをするだろう。だからといってモラルハザードだと叫んで批判したところで何の解決にもならない。不愉快な思いをしないですむように歩道を広げれば車道を狭め、税金の無駄遣いどころか世の中に弊害を押しつける結果になる。
 では何の対策もないのかというとそうでもない。
 昨年、FMヨコハマが発行する雑誌の対談企画に駆り出され「強い男の条件」について質問を受けたとき、そんなことが頭にあったのでとっさに「お先にどうぞといえる男だ」と答えた。それはこういうことだ。
 私の座右の銘は「して欲しかったら先にやれ」である。長幼の序も大人の面子も大事だが、モラルハザードの昨今、それだけでは「おまえが先に譲れ」「おみえこそ譲れ」で喧嘩になってしまう。だから、座右の銘がものをいう。「して欲しかったら先にやれ」が日常の心がけで「お先にどうぞ」は結果ということになる。狭い道でも譲り合うようになれば広くなる。物理的に広げなくとも心がけ一つで広げられるという手品のような解決策だ。強さの物差しは勝ち負けではない。私は自分でいった答えに満足した。どんなつまらない問題でもきちんと解決できる男が強いと思っているからだし、ましてや我先に勝ち馬に乗ろうとしたり、他を蹴落として勝ち組になろうなどというのは論外だ。
 私が小さな親切運動に関わってから何十年という歳月が過ぎた。大したことをやってきたわけではないが、これも座右の銘の実践の一つである。目立たないし、それをやったから世の中が劇的によくなるわけでもない。だが、空中の塵を核に取り込まないと美しい結晶を結べない雪と同じで、小さな親切、小さな心がけも、営々と繰り返していくうちに結晶を結ぶのではないかという夢がある。そういう夢を持つ、人生でこれほどの醍醐味はない。
 浜っ子のみなさんがどんな些細なことでもまず今からでもやれるようなことを日常的に心がけたら、横浜の未来はぐんと開けるだろう、これもまた私の大事な夢の一つだ。

2007年1月12日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第42回 「私の外国人墓地物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の横浜外国人墓地物語」

JR石川町駅から地蔵坂を上り山手本通りへ、港の見える丘公園をめざして左へ進む。フェリス女学院、山手聖公会、山手資料館をすぎると左手に横浜外国人墓地がある。
この墓地には、1854年にペリー艦隊で事故死したウイリアムズ水兵を埋葬したことから始まり、生麦事件のリチャードソン、鉄道事業の祖エドモンド・モレル、ポンチ絵の巨匠ワーグマンなど40を超える国の4000を超える人々が眠っている。墓地の入り口の横には外国人墓地資料館があり、日本の近代化に貢献した外国人たちのパネルの展示や墓地の歴史、横浜の歴史を紹介されている。

 元町の「喜久家」はいつもの待ち合わせ場所。
 「お待たせ」「参りましょうか」
 そういって叔母とマリアンヌの眠る横浜外国人墓地を訪ねたのはついこの間のことだった。終生、独身だった叔母は日本人離れした美しい人で、私を我が子のように可愛がってくれた。元町で会って外国人墓地へというのがおきまりのコース。作家中里恒子の「墓地の春」などに登場する美少女マリアンヌの墓参りを、叔母はいつも楽しみにしていた。
 中里恒子の姪にあたるマリアンヌは日本人の父と英国人の母の間に生れ、幼い頃日本にやってくる。戦争がつづく昭和の時代、横浜の山手とはいえ外国人の血を引くマリアンヌにとって暮しにくい辛い時代だった。人間関係や政治のはざまで苦しみ20歳で逝き、外国人墓地に葬られた。 同じ時代を横浜で過ごし、若い頃「外国人」とからかわれたという叔母にはマリアンヌに共感するものがあったのか・・・・・・。
 その日、外国人墓地は、秋の陽の光に大理石や花崗岩の様々な形をした墓石がきらきらと輝いていた。金曜日だった。金曜,土曜,日曜日は一般の人でも中に入ることができる。何度も訪ねているのでそう思ってきたのだがどうやら規則が変わったらしい。
 「しょうがないじゃない。来年の春に、ね」叔母はそういって、十字を切り墓地を後にした。

 「喜久家」の入り口近くのいつもの席。きょうは、わたし一人。通りには明るい日の光が流れて時間は止まらない。ひとり分の会計をして店を出る。
 両側から枝がかぶって小暗い見尻坂を登る。陽だまりで一息、あの日もそうだった。肩で息をしながらも凛とした叔母の姿、はっきりと覚えている。でも今は全て過去形になった。気が付くと外国人墓地。
 あの日と墓地の表情はかわらないが、十字架や彫刻の施された苔むした墓標に新春の光が当たり懐かしい音楽を奏でている。時はいつものように流れやがて春はやってくる。

今日の「私の横浜外国人墓地物語」いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、大多田純でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに。


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2007年1月 5日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第41回 「私の関東の富士見百景物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の関東の富士見百景・松の内公園馬の背遊歩道物語」

富士山の眺望・ながめをブランドに―――
富士山の景観を生かしたまちづくりを進める国土交通省は「関東の富士見百景」を選定した。富士山の見晴らしがよいことはもちろんだが、だれにでも自由に利用できる公共機関、周辺地域で景観の保全活用の関心が高いなど、当然だが条件は厳しい。横浜でもいくつか選ばれている。「鶴見川からの富士山」「横浜港大さん橋国際客船ターミナル」そして,「松の内公園馬の背遊歩道」である。横浜生まれ,横浜育ちの私だが聞いたこともない。京浜急行・杉田駅から歩いて15分、住所は磯子区中原とある。

 新春のすんだ空気の中で富士山が映えて見える。関東の富士見百景に選ばれただけに、まるで浮世絵の絵を切り取ったような富士山だった。
「松の内公園・馬の背遊歩道は」と、杉田駅の近くで何人かに聞いたのだが
誰も知らない。まだここは知られざる名所なのだ。1月にしては暖かく、陽だまりに置かれたベンチに座っていると眠たくなるほどだった。富士山の近くを1機の飛行機が行く。
 ずいぶん前のことだがラジオから「空に,ライオンが,雪だるまが、飛んでいる」と久米明さんの味わいぶかいナレーションがきこえてきた。
飛行機に乗せられたライオン。雪だるまは、北国の子供たちから雪の降らない南の国の子供たちへのプレゼントだった。私はしばらくラジオに聞き入り、普段見ることもない空をしみじみと見上げた。
 番組がどのようなものだったのかもう忘れてしまった。覚えているのは、空とぶライオン、雪だるまに、番組のラストで登場した糸井重里さん。
 「空にコピーをつけるのですか、うーん,あまり空見ないですよね・・・」
 かなりの間があって、糸井さんのコピーは解りやすく覚えやすかった。
 「ルック・アット・ミー、私ですよ,空ですよ」
 番組を聞き終えた後、「私ですよ,空ですよ」が頭に残ってしばらく空を見上げる。いつもよりゆったりとした気分の私がいた。あれから何年が経つのだろう。「最近、空を見上げたことないな」ひとりごちる。
 富士山とは反対方向、東方の空、房総半島の上を飛行機が行く。ベンチを離れ、うっそうとした木々に囲まれた階段を登るとここが馬の背遊歩道なのだろう。東に房総半島、道を隔てて南に鎌倉、北にみなとみらい地区、パノラマビューが楽しめる。山頂に雪を抱いた富士山はさらに優雅な姿を見せている。富士のように雄大ですばらしい1年に、たまには「空を」と思い公園をあとにした。

 今日の「松の内公園馬の背遊歩道物語」いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、大多田純でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに。


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2007年1月 1日 (月)

横浜・明日への提言(19) 保守の革新・横浜方式

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横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)

 
 みなさん、明けましておめでとうございます。今年も思いついたことを提言として述べさせて貰います。
 今年は平成19年、新年早々から暗い話やむずかしいことをいってはもうしわけないので、横浜らしさについて考えてみたいと思う。
実は横浜らしさといっても、具体的にはすぐにイメージが浮かばない。だから、私は日本らしさから考えるようにしている。文明的にいうと日本は輸入国だから西洋文明を受け継いできたようなものだ。当然、日本らしさというと2000年近い歴史を持つ京都を中心に培われた「みやび」「わび」「さび」、400年あまりの歴史を持つ江戸を中心に育まれた「武士道」や「義理」「人情」「恩返し」など精神的な文化になる。
 150年足らずの歴史しか持たない横浜は、そうした日本的な精神文化を一人ひとりの流儀として持つだけで、全体としては統一したものを持たないから何でも受け入れた。よそから越してきたその日から「浜っ子」として通るし、関西弁、東北弁の浜っ子がたくさんいる。三代を経ないでも仲間になれる開放的な気風は貴重だし、よそには真似のできないことだと思う。
 結局、歴史的伝統をよそから持ち込むのだから、浜っ子は取捨選択の文化的センスが磨かれた。守るべき伝統がないから自由に革新的に考え、行動できる。こんな都市の気風がよそにあるかといったら、おそらく横浜以外には存在しないと思う。
 外来文化についても、決してよいものばかり入ったわけではない。外来文化の玄関口の役割を務めた先輩たちは、京都や江戸の文化に照らしながらきちんと取捨選択に努めてきた。他都市の人々は横浜で取捨選択された外来文化の恩恵に浴したのである。換言すれば、横浜は保守といわれるほど伝統を持たないし、かといって闇雲に外来文化を受け入れたわけでもない。実はリトマス試験紙的な役割を果たしたその姿こそ「横浜らしさ」なんだろうと思う。
 われわれはそういう精神的にすばらしい土俵にのぼっているわけだが、いつまでも今のままでいいわけがない。世の中の移り変わりは避けがたいわけで、現状維持だけやっていると3、4年はもつけど10年先はわからない。恐らく2年先に迫った開港150周年あたりが横浜の大きなエポックになるだろうし、しないといけない。基本的には横浜らしさを体現してきた先輩たちの業績をもう一度洗い直し、よく学んで、それを守るべき姿勢として創意工夫を加え、次代に引き継ぐ。いわゆる「保守の革新」ということになるのだろうが、横浜は伝統や因習の障害なしに保守と革新が溶け合う優位にある。われわれがまず心がけねばならないことは、先輩たちが残してくれた貴重な資産を糧と自覚し今後に生かすことだ。