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2006年12月

2006年12月29日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第40回 「私の弘明寺物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に,物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の弘明寺物語」

真っ赤な電車で知られている京浜急行電鉄は、東京・品川の泉岳寺と神奈川・三浦半島の先端を結び、通称・京急とよばれる。この沿線には、しっかりと昔の名前で頑張っている街が多い。そのひとつ「弘明寺」。横浜駅から急行で10分余りの弘明寺は、観音様のほかにアーケイドになっている商店街が中高年層に人気で全国からも注目されている。
弘明寺観音は、今からおよそ1200年前、平安時代に開かれた横浜で最も古いお寺である。木像の観音像は国の重要文化財で、ほかにも、身体の悪いところをこすると、代わりとなって治してくれるという身代わり地蔵も有名で、縁日には多くの人がお参りに訪れる。大晦日にはかがり火が焚かれ、元旦も多くの初詣客で賑わいをみせる。

 弘明寺というと、今でも昔を思い出してしまうことがひとつある。
 放送局のアナウンサー試験を受けたとき。フリガナを付けなさいという設問に「弘明寺」がでてきた。横浜育ちの私は、当然のように知っていることなので「なにか得したな」と含み笑いをしてしまった位だ。コウミョウジやコウメイジとフリガナをふってしまったと,同期入社の同僚が後々に言っていた。地名はニュースなどに出てくる関係上、一般常識のテストではよく出題されたのだ。
 弘明寺を知っていたから合格できたとは思ってもいなかったが、その事を母に話したところ「何か,きっと他にご利益があるかもよ」と一緒にお参りに行ったのを昨日のことのように覚えている。
 母はすっかり弘明寺が気にいってしまい近所の友達を誘ってよく通っていた。しかし、お気に入りは、観音通りの商店街でのんびり歩きながらショッピングをすることだった。商店街の中央付近には、アザラシのタマちゃんで有名になった大岡川が流れており、そこには桜並木があり春にはお花見が出来る。創業100年以上の伝統を誇る和菓子の店「金平堂・コンペイドウ」で「門前ダンゴを買い、さくら橋の上で食べちゃうのよ」と楽しげに語っていたものだ。
 動物好きの母は、アーケイド入り口のところにあるブティック「ウッディ」の表に出ているワゴンの下にいつもいるグミちゃんという猫のことも大好きだったようだ。
 「あれは観音様のまねき猫かもしれないね」母はグミちゃんに会いに弘明寺まで出かけていたのかもしれまない。グミちゃんはいまも健在なのだろうか。
 
きょうの[私の弘明寺物語]いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、浮田周男でおおくりいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・。


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2006年12月22日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第39回 「八景島物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の八景島物語」

横浜の南に位置する、金沢八景。この金沢という地名は、鎌倉幕府を継ぐ、北条氏の分家、金沢北条氏の所有する土地だったことに由来する。かつては、武蔵国六浦庄金沢(かねさわ)と呼ばれていたが、今では「かなざわ」と言われている。江戸時代初期、中国の高名な僧侶「心越禅氏」がこの金沢の地を訪れたときに、海岸の風景が中国で景観の素晴らしさを誇る「瀟相八景」にそっくりだと思った。そのことを歌にして詠んだところから「金沢八景」という名が生まれたとされている。
1993年、横浜八景島シーパラダイスがオープンした。水族館、レジャー施設、ホテルなどからなる複合型遊園地、シーパラダイスは、その景観の素晴らしさをそのままに、市民のみならず、多くの観光客に愛されている。毎年、2月に行われる横浜国際女子駅伝の折り返し地点としても、知られている。

 海に浮かぶクリスマスツリーを見てみたいと思った。
横浜八景島シーパラダイス。高さ7メートルに及ぶブルーのクリスマスツリーが、湾内に浮かんでいるという。いくつもの青い光りが、水面にも反射して、夜は、ことのほか幻想的だろうと想像した。
 寒そうだから嫌だという友人を誘い出して、八景島に行った。園内は、カップルや家族連れで賑わっていた。まるで海の中にいるようなアクアチューブも圧巻だったが、潮風に吹かれて過ごした「ボードウォーク」での時間も心地よかった。八景島桟橋から島を回る船に乗った。15分ほどのクルージング。海から八景島を見ると、どこか遠くに旅したような気分にさせてくれた。
 遠い昔、キリスト教の布教をしていたセント・ニコラスという神父が、ある街で、とても貧しい家をみつけた。彼は、見るに見かねてその家の窓から金貨を投げた。その金貨は、偶然、暖炉の傍に干していた靴下に入った。そうして始まったとされるクリスマスプレゼント。私は、ニューヨークのある新聞に掲載された有名な社説が好きだ。
 「サンタは、ほんとうにいるの?」という八歳のバージニア・オハロンちゃんの質問に対する答え。
 「この世に、思いやりや愛があるのと同じように、サンタも存在します。見たことがないからといって、いないといえますか?」
八景島に夜がきた。シーパラダイスの青く光るクリスマスツリー。集うひとの笑顔にも、ネオンが映っている。輝く海に、優しい気持ちが浮かんで見えた。来年もまたいい年になりますようにと思っていたら、夜空に花火が舞った。空と海に、色がはじけた。

今日の「私の八景島物語」はいかがでしたか?出演、小林節子 脚本北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年12月15日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第38回 「私の新横浜ラーメン博物館物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本再録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」きょうは、「私の新横浜ラーメン博物館物語」

ラーメンブームを決定的にしたのはこの博物館かもしれない。館内すべてがラーメン専門のミュージアム「新横浜ラーメン博物館」だ。1994年のオープン以後、新横浜の人気スポットに成長した。JR新横浜駅からオフィス街を歩くこと5分。入場料は大人300円,子供100円。3ヶ月間何度でも使えるフリーパスは1000円。昭和の街なみを再現したレトロな館内、全国各地からえり抜きの名店のラーメンを手軽に食べられるほか、ラーメンのうんちく満載の展示ギャラリーなど何度訪れても楽しめる。

 友人の恵子と待ち合わせたのが新横浜駅。
 「おなかは」
 「空いてる」
 アウンの呼吸だ。映画「ALWAYS 三丁目の夕日」がヒットして昭和、それも33年がブームだが、ラーメン博物館は、毎日が昭和33年。生活はまだ貧しくとも、行く手に希望が仄かに見えたあの時代。力道山の空手チョップが始まると我が家は、テレビを前に隣近所の人たちで茶の間から玄関先までが埋まった。当時のことで、いまこの歳になってもみる夢がある。
 両親が一緒になって映画館をやっていたということもあって、ひとり留守番をしていることが多かった。その時に鳴る電話のベル。受話器のむこうから誰が、どんなことを・・・。まだまだ、電話はそんなに普及もしていない。今日では想像もできないが、子供にとって電話が怖いものだった時代があった。
 ベルが鳴ると同時に私は「どうしよう、どうしよう」と押入れに入り込んでガタガタ震えて、ある時寝込んでしまった。火鉢でサツマイモを焼いていたのも忘れて・・・。どこかで扉の叩く音がしている・・・。
 夢の中の私はいつも火だるまになる。もう駄目だ。逃げ様としても足が動かない。びっしょりと汗にまみれて、次の瞬間目が醒める。サツマイモが焦げあがって、煙が玄関や台所から流れでていたのだ。まだ私が幼かった昭和20、いや30年?
 昭和30年代ブームという。現代人が見失った人と人とのきずな、お隣が扉を叩いてくれなかったら・・・。穏やな、寛容な社会があった。テレビを観に町中の人がやってくる温かい社会があったことを若い人は知って欲しいし、生き抜いてきた人にはあの時代を思い出して欲しい――ひとりごちる。
 目の前の恵子はウエストを気にしながらも、額に汗を浮かべてミニラーメンとはいえ三杯目に挑戦している。

きょうの「私の新横浜ラーメン博物館物語」いかがでしたか?出演、小林節子 脚本、大多田純でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・


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2006年12月14日 (木)

横浜・明日への提言(18) 神奈川・横浜をがん撲滅先進都市に

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横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表、がん医療と患者・家族を支援する会会長等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)


 古くからの友人である梅沢健治前県会議員などに担がれて、8月4日「がん医療と患者・家族を支援する会」という組織を立ち上げた。世間に訴えて支援の輪を広げようと11月29日に「がん医療の最前線を探る」と題するシンポジウムを企画した。開催当日、私の友人ががんで亡くなった。それも医者からがんを宣告された途端、ショックで人間が変わってしまった。ああ、これなんだ、もっと早くこの会をつくっていれば救えたのではないかと思うと、私は悔やんでも悔やみ切れなかった。
 私は医師ではないから検診も治療もできないが、みんなで支えれば死なずにすみ、助かる人がいることは紛れもない事実だ。私は悔やむと同時に「がん撲滅」は医師だけの役割ではないと肝に銘じた。
 がんの検診・医療技術の進歩はめざましく、最近では重粒子線治療というがん細胞だけにピンポイントで放射線を当て、健康な細胞に害を加えることなく病巣を取り除く治療法が開発され、最早、死病ではなくなったといえるほど治癒率が高くなった。しかし、がん検診・治療がそこまできていることを知らない人が多い。亡くなった私の友人もその一人だ。
 当日、私は会長としてのあいさつで、がんは早く発見すれば治るし、何も知らずにいる患者・家族を助けないといけないと訴えながら、この会の活動を通じて医師でなくともがん患者・家族の支えになれることを一人にでもわかって貰えるようにするのが、友人に対する何よりもの弔意であり、私自身にとっても残された人生最大の使命だと痛感した。
 技術的なことは繁雑になるので省略するが、がん治療の最先端技術といわれる重粒子線治療を始めたのは日本とドイツだけで、日本でも目下は千葉と兵庫に限られるそうだ。神奈川・横浜がまだ始めていないのはさびしいが、今からでも遅くない、たとえ重粒子線治療機器がどれほど高価であったとしても、一台といわず二台でも三台でも導入して、病死する国民の死因の3割ががんであるといわれる現実にまず神奈川・横浜が率先して終止符を打つ。そのための「がん医療と患者・家族を支援する会」でもある。880万の人口を抱える神奈川・横浜が、官学民の立場を超え一体となってがんに立ち向かう体制が取れたとしたら、何よりも新しい「神奈川・横浜らしさ」になるのではないか。
 終わりに提言を兼ねたお願いである。がんを死因とする患者のうち精神的な支えで救える人はかなりの数にのぼるはずだ。情けは他人のためならずともいう。いつ自分が3割の仲間入りをするかわからない。支援の輪に加わるだけでも自分自身の支えになると思うが。

2006年12月 8日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第37回 「私の有隣堂物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の有隣堂物語」

関内駅の近く、イセザキモールに位置する有隣堂本店書店館。創業は、1809年12月13日。横浜を愛し、横浜に愛されてきた歴史ある有隣堂は、文化の発信地として、その役割を守ってきた。有隣堂の名の由来は、中国の論語からきている。「徳は、孤ならず、必ず、隣りあり」。徳を積んでいるひとは、孤独にはならず、必ず、隣に誰かいる、という言葉に由来している。
神奈川の歴史や郷土コーナーも充実しており、ガイドブックやエッセイ、写真集も地元に根ざした品揃えになっている。もちろん、その他の書籍の種類も豊富で、多くの人が本を求めて来店する。
お客様とのコミュニケーションを大切にしたいという思いから始まった、十色のブックカバー。『何色になさいますか?』というひとことが、優しく響く。ブックカバーは、色紙のようなシンプルなデザイン。上質な手ざわりで『本は心の旅路』という文字と、カタツムリのマークが銀色で、さりげなく入っている。 (文庫のブックカバーは2006年から冬季限定で1色増えています)
 
 来年のカレンダーを買うために、有隣堂にいった。休日のイセザキモールは、にぎわっていた。吹き抜けの一階が特に好きだ。高い天井に文化の香りが昇っていく。人々は、思い思いに本を見ていた。選ぶ本はさまざまだったけれど、その横顔はどの人も同じように凛として見えた。
 カレンダーはすぐに見つかった。熊田千佳慕という94歳の画家が描いた花のカレンダー。草花や虫を愛し、自然とともに生きる横浜出身の画家の絵。彼の生き生きとした輝く描写力と、愛にあふれた優しさが心を満たしてくれる。
 熊田千佳慕は、1911年横浜市中区に生まれた。東京美術学校、現在の東京藝術大学を卒業し、グラフィックデザインの道に進んだ。横浜大空襲で被災後は、6Bの鉛筆と縁の下で拾った絵の具を使って細密画法を会得した。初めての絵本は『みつばちの国のアリス』。以来、子供の絵本や雑誌で、花や虫の生態画を手がけてきた。
 彼を好きになったのは『みつばちマーヤ』という絵本のあとがきを読んでからだ。こう書いてあった。「大きな自然の中で、小さな虫たちは小さな命を大切に守って生きているのです。人間も虫も同じ生きものです。なかまです。失われていく自然への感性を大切にしましょう。私も心の灯りを大切に、神の許しのある日まで、愛を大切に生きてまいります。またお会いできる日を楽しみに。心をこめて。千佳慕」
花の絵は、優しかった。丁寧で、温かかった。街に出ると、師走の風が頬にあたった。つめたかったけれど、その寒さが嬉しかった。

 今日の「私の有隣堂物語」はいかがでしたか?出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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2006年12月 1日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第36回「私の山手公園テニス物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の山手公園テニス物語」

横浜、山手公園は、外国人居留地にあったことから、横浜の中の「外国」としての存在感を保ってきた。山手公園は完成して数年後、居留地外国人による『婦女弄鞠社』、すなわち、レディース・ローンテニス・アンド・クロッケー・クラブという女性のテニス団体によって管理運営されることになった。イギリスで始まったばかりのテニスが、1876年横浜に上陸。山手公園で初めて試合が行われたのである。
テニスは、いち早く横浜の女学校に取り入れられた。1870年に創設されたフェリス女学院は、早くから洋式の体操を授業に取り入れ、明治末には、ラケットを持った女学生の写真が残っている。当時のテニスコートは、長さは現在と一緒だが、幅が90cm広かった。テニスに興じる外国人を見て、地元の日本人は、「しゃもじ」と噂したと言われている。

 1918年、横浜に住む三人の詩人が詩集『海港』を刊行した。海の港と書いて海港。彼らは、横浜をこよなく愛した。その三人のひとり、柳沢健は、三木露風を中心とする大正浪漫主義を代表する象徴派の詩人であった。彼は、当時の横浜をこう歌った。
 「窓から覗けば、赤い建物はグランドホテル。山の上の風景は、仏蘭西人コンシェール館の薄霞。静かな雨、白い海鳥。ジャバの紅茶。カピタン室の空気の重さ、軽さ」
 その柳沢健の詩に、山手公園のテニスを詠んだ『ローンテニス』がある。
 「深き緑と、もつるる微風と、踊れるものよ、湧きたつものよ。足には軽き白靴を、手にはボールを、うかがい、うかがいて、彼女の肩を。ボールは強く、右手に響く。微風よ、微風よ、さざめき立てよ」。
 北原白秋の歌に、横浜の公園でテニスボールを追う外国人女性を歌った作品がある。
 「やわらかに、ローンテニスの球光る 公園に来て今日も思える」
 歌集『桐の花』に収められたこの歌は、彼の実体験に基づいている。彼は、そのころ、激しくもせつない恋をしていた。文学好きの人妻、松下俊子との恋。粗暴な夫から逃れたい思いの俊子と深い仲になった白秋だが、夫から訴えられる。仲を裂かれた後、俊子が、横浜の外国人相手のチャブヤで荒んだ生活をしているという噂を聞きつけた白秋は、彼女を探して、横浜山手を歩き回わった。
 歩き疲れた白秋は、公園のベンチで休んだ。そのとき、ヒマラヤスギ越しに、華やかな女性の姿が見えた。彼女たちはテニスをしていた。その美しさ、伸びやかさは、白秋の心に元気を与えた。それからしばらくして、彼は彼女を見つけ出す。
 当時の人たちに、テニスはどう見えたのか。そんなヒントが作品に垣間見られる。そして、ボールを打つあの音は、今も、変わらない。

 今日の「私の山手公園テニス物語」いかがでしたか?出演、小林 節子 脚本、北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・



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