00_weblog_default_js

  • // JavaScript Document

fyb_switch_to_sp_js

« ヨコハマ ストーリー  第15回「私の横浜ジャズ物語」 | メイン | 横浜・明日への提言(8) 横浜ファッション(流儀)をつくろう »

2006年7月14日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第16回 「私の映画館物語」

161

ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が、世界の表舞台に登場したのは、今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航したときから、その歩みは始まりました。そして今もヨコハマは、ユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく『ヨコハマ・ストーリー』。今日は「私の映画館物語」

1911年のクリスマスの日、横浜長者町に日本最初の洋画専門映画館、オデヲン座が誕生した。オデヲン座は、常設の洋画封切館として東京まで名をはせる第一級の映画館になった。同館は、山下町の貿易商、平尾商会の試写館で、輸入フィルムをいち早く公開できた。
関東大震災で平尾商会が手をひいたあとを、六崎市之介が引き継いだ。まだ無声映画の時代、彼は伴奏音楽に着目した。弁士に合わせて六崎自身がクラリネットを演奏する管弦楽団を編成した。その質の高い伴奏は「活動映画ファン」を魅了した。また、映画のプログラム『オデヲン座ウィークリー』も充実させた。ファンは、この表紙と挿絵に凝った解説書を競って収集した。

私の家は、横浜、日の出町近くで、映画館をやっていた。映画好きの父の夢だった。母もその夢に自分の夢を重ねた。今では、笑い話だけれど、私が産まれる前、よく私の家に泥棒が入ったという。その理由が面白い。『心の旅路』という映画を上映していて、毎日、父と母がそれを観にいき家を空けていたからなのだ。
私の幼いころの思い出は映画館にある。当時の映画館には冷房の設備などない。暑さしのぎに氷の柱が置かれた。その氷の中に花が入っていたのを今も覚えている。
映画館のチケット収入だけでは、思うように儲からないので、母は売店を思いついた。PXと呼ばれる米軍専用の店から、ルートを使って品物を仕入れた。アイスクリーム、チョコレート。おせんにキャラメル以外の商品に皆、飛びついた。
映画が終ったあと、ドアが開いて観客があふれてくる瞬間。出てくる人は、どの顔もうれしそうで幸せそうだった。その光景は、物をつくったり毎日会社に行かなくても人を幸せにする仕事があることを教えてくれた。
私は映画が好きだ。あの暗闇の中で人は人生を生きる。笑い泣きながら、自分とは違う人生を味わう。光りあふれるロビーに出る瞬間、私は一生分の2時間を体験したことを知る。

今日の「私の映画館物語」はいかがでしたか?出演、小林 節子 脚本北阪昌人でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

162 163