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2006年7月 7日 (金)

ヨコハマ ストーリー  第15回「私の横浜ジャズ物語」

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ヨコハマストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日 出演:小林節子)に放送された番組の脚本抄録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
この街が世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。ペリー艦隊が来航した時からその歩みは始まりました。そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」今日は、『私の横浜ジャズ物語』。

アメリカ生まれのジャズは、明治の終わりから大正にかけて日本に上陸したと言われる。西海岸から太平洋航路が開拓され、寄港する東洋の港町にジャズを誕生させた。 大戦中、敵性音楽だったジャズは禁じられたが、戦後、傷だらけの横浜の街に進駐軍のラジオからジャズが流れ始めた。同時に軍の施設やクラブなどでジャズの演奏が聴かれるようになった。日本人のバンドマンが仕事を求め、横浜駅前などに集まりバンドマーケットができた。また、日本のモダンジャズの原点といわれる伊勢佐木町「モカンボ」での「モカンボセッション」が行われるようになり、秋吉敏子、渡辺貞夫らが横浜から巣立った。横浜のこのような歴史的背景をもとに、1993年から横浜ジャズプロムナードが開催され、ジャズ文化を発信している。

ミニライブへの誘いの葉書が届いた。中年アマチュアバンドのライブだが「トシオを送る会」と書かれてあるのに引かれて行ってみる事にした。
トシオ君は40年近くにもなる古い仲間だ。高校時代、横浜の規律に厳しいミッション・スクールに通っていた私にとって、日曜日はいつもと違った気分になれる日だった。海岸教会での日曜日の礼拝。私たち賛美歌コーラスの仲間にとって唯一、ボーイフレンドとの出会いの場所だった。今思えば初々しいお付き合いだった。トシオ君もそのひとりだった。ジャズの専門誌「スウィング・ジャーナル」を片手に教会にやってくるトシオ君は、高校時代から先生に怒られながらも「ストーククラブ」や「ちぐさ」に通っていた筋金入りのジャズファン。大学に入ると、仲間を集めてジャズ研究会を作った。そして本格的なジャズボーカリストを目指すようになり、レコードデビューの話も聞くようになったが「上には上がいる」ということで、プロを断念して通信社の記者となった。
会場は関内の小さなビルの2階にあった。奥まったスペースにピアノ、ベース、ドラムが置いてある。アップライトのピアノの向こうにトシオ君がいた。
「お久しぶり。送る会ってどういう意味」
「ニューヨーク支局に転勤さ。今頃ジャズの本場に行ってもね。」
トシオ君がジャズを辞めた本当の理由は、生まれたばかりのお嬢さんが、難しい病気を患っていたということだ。地方廻りの仕事が多いミュージシャンでは、看護も生活も厳しい。「家族のため」サラリーマンを選んだ。それが真実だった。
この日のライブはいつになく賑やかで、アステアばりにリズミカルにタップを踏むトシオ君がとても粋だった。ラストナンバーはおきまりの「ニューヨーク・ニューヨーク」。
そのとき、花束を持ってお嬢さんの典子さんと奥様が登場、会場は一気に盛り上がった。再び大きな拍手の後、トシオ君はアンコールナンバー「マイ・ウェイ」を歌って「送る会」は幕を閉じた。

今日の、『私の横浜ジャズ物語』いかがでしたか。出演、小林節子 脚本、大多田純でお送りいたしました。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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