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2006年4月28日 (金)

横浜・明日への提言(3) ジャンク・フード その②

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横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)

昔は小学校の運動会、遠足というと母親が早起きしておにぎりを握り、野菜の煮物を重箱に詰めた。弁当は「おふくろの味」であり、常にその存在を知らしめるものだった。運動会には日頃仕事で忙しい父親も観にきて、お昼になると家族単位で弁当に舌鼓を打ち、時ならぬ団らんの輪があちこちに出現した。
 今はどうだろうか。都会のあちこちにコンビニ、ファーストフードのチェーン店が店舗を展開し、私たちはお金さえ払えば簡単に食事が間に合う便利な社会に身を置いている。子どもの味覚は十歳前後で決まるというのに生徒が学校へ持参する弁当の多くはコンビニの商品で、家庭でもおやつはファーストフードのハンバーガー、スナック菓子、食事にさえコンビニのお手軽弁当が多くなり、たまさか家族揃って外食するときにはファミレスや回転すしへ入ってしまう。これでは折角の団らんが味気なくなるばかりか、ファミレスや回転すしで子どもが定番のように好んで注文するのがハンバーグ、大トロ、いくら、うに、ボタンエビというようなことになると、食の体験としては貧しいと断ぜざるを得ない。折角、命をはぐくむ食事を営みながら親の愛情のぬくもりが感じられないから、子どもの心は成長に反比例して渇いていく。
 若くして病に倒れる。倒れないまでも出来合いの決まり切った食事を繰り返すことで失われる食べる楽しみ、親への感謝、味覚を広げる充実感など情緒の喪失まで含めて考えると、子どもはもちろんのこと、親にとってこれほど恐ろしい現実があろうか。
 便利を追求する社会には、このような落とし穴が口を開けている。民主主義が多数決を原則とする一方で、「少数意見の尊重」を謳うように常に反対概念を尊重し、対策を講じる姿勢が必要である。致命的な失敗をしないことが成功の第一条件とするなら、将来ある若者にとってはどうしたら成功するかを考える以前に便利な社会に潜む危険を熟知することが必須の心得となるだろう。
母親がつくる具沢山の味噌汁、おじいちゃんが釣った魚の干物、おばあちゃんが漬けたタクアンなど、こうした素朴な食が豊かな人間をつくるといわれるのは、やはり丹精と愛情が子や孫に理屈抜きに伝わるからだろう。ジャンク・フードは商品なりの工夫は凝らされるだろうが、不特定多数が相手だけに愛情が籠もっているとはいいがたい。一日三食、一年三百六十五日、年々歳々、親子の愛情伝達の機会が失われることを思うと、ジャンク・フードの功罪を真剣に考えざるを得ない。まだ小学生あたりの信じるも信じないも判断のつかない年代を襲う犯罪があとを絶たないのも、ジャンク・フードで育った成人のなせるわざだろうか。もちろん、事件とジャンク・フードの間に因果関係があると証明されたわけではない。だから、私はジャンク・フードそのものを否定しているわけではない。
便利に慣らされて大切なものを見失うことが問題なのだ。飽食というからには食生活に不足は何一つないわけで、こうしたシチュエーションが深刻な問題点を自覚させない原因でもある。それこそ問題と感じて、ジャンク・フードを一つの例に取り上げたにすぎない。
 ところで、「平和都市宣言」をする自治体があるが、どうせなら平和の上塗りをするより「食生活構造改革都市」を宣言したほうがはるかに意味がある。みんなで考えるきっかけをつくれば、どうすればよいかの知恵は自然と生まれる。