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2006年3月

2006年3月31日 (金)

横浜・明日への提言(1) 職人・芸術家・労働者、生き方の選択肢

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横浜エフエム放送株式会社
代表取締役社長 藤木幸夫

(著者紹介:現在、藤木企業株式会社 取締役会長兼社長、 株式会社横浜スタジアム取締役会長、横浜港運協会会長、神奈川県銃器薬物水際排除推進協議会会長、神奈川県野球協議会会長、社会福祉法人希望更生会理事長、小さな親切運動神奈川県本部代表等の役職にあり、平成元年4月に藍綬褒章受章、平成10年11月に横浜文化賞を受賞。)


バブルがはじけてから日本の十数年間は景気の後退に悩み、あらゆる産業が元気をなくし、企業は必死の思いでリストラに活路を見出そうとしてきた。学卒にとって就職は狭き門となり、ニート、フリーターという生き方が生まれた。私らから見ればニートもフリーターも不運な時代に生まれた被害者なのだが、彼らは愚痴一つこぼすでもない。そういう意味では褒めてあげたい。
今また企業に元気が戻って学卒の採用が増え始め、時の歩みを合わせたかのように団塊の世代の一斉退職すなわち2007年問題が浮上した。各産業分野の技術を担い底あげしてきた世代が退場し、ぽっかり開いた空白域には技術も経験もない新人が入ってくる。
これからの時代のキーワードは、当然、技術の継承になるはずだ。
企業社会で団塊の世代が管理職になってから、これから起きる大問題を予感させる事故がたびたび起きていた。東海村原発のバケツリレー、自動車メーカーの欠陥隠しなど、日本の戦後の復興を担った戦前世代の経営者や技術者には考えられないような稚拙な事故や事件が多発した。戦前世代を戦後第一次世代とするならば、団塊は戦後第二世代、団塊以降は戦後第三世代ということになるが、どこかで継承がつまずいて、技術者の間に年齢を重ねるごとに蓄積されてきた「えもいわれぬ暗黙知」が途絶えつつある。すでに途絶えたという声すらある。
団塊の世代がいてもこのありさまだったのに、いなくなったら日本の産業、企業はどうなってしまうのか。
まして、日本は昨年から人口が減少に転じ、企業の間では人材の獲得に深刻な悩みがささやかれている。では、生産人口が減って就職環境がよくなるのかといえば、必ずしもそうとはいえない。一難去ってまた一難の企業は採用する人材の選別を厳しくし、足りないところは派遣社員やパート労働力で補う傾向を強めることだろう。ニート、フリーターには明日がないという現実は変らない。
そのことも問題だが、より以上に技術の継承は深刻な課題である。企業そのものが生き残りの岐路に立たされているのだ。どうすれば迫りくる危機を打開できるか。まず、団塊の世代まで継承されてきた「暗黙知」が何かを各自が再確認することではないか。
ハンチントンは「文明の衝突」で、世界に存在する文明を八種類か、または十三種類に分類しているが、日本の文化文明は他のいずれにも属さない独特のものであると断じている。日本人の価値観は世界中に類型がないというのである。
日本の工芸技術が近代西欧社会で最初に評価されたのが漆器である。漆で器にまくをつくるという発想は中国から伝来したものだが、古来からすぐれた木地挽の技術を伝承し良質の漆を産することから「漆工芸」は日本の独壇場になった。職人は工芸の幅を一気に広げて美しい色模様の貝殻を使って螺鈿を生み出し、その堅牢さに着目して兜に代わる陣笠を発明した。汎用品から芸術的な工芸品にいたるまで広く普及していく過程で、漆工芸は日本を代表する技術に磨き上げられた。日本製の漆器に最初に接した西洋人は「ジャパニング」の名で呼び、その技術の粋に酔い、舌を巻いたという。
ひるがえって、今、高く評価されている画家の作品、何十億何百億円で競売に掛けられている画家の作品、それらが制作された当時の評価はどうであったかというと、ゴッホのように存命中は一顧だにされなかった例もある。たまたま売れても、家族を養う生活費にはならなかったろう。売り物にもならないものに努力を傾注する営みを、合理主義者は嘲笑するかもしれない。しかし、作品にとって大切なのは、作品がつくられる背景となった時代、思想、文化、作者の全人格の投影である。それらが評価されるのが死後数十年後であったとしても、あるいは後世になって鑑識眼に優れた人間が現れたとしても、作品がなければ何も始まらないわけである。
私は港の仕事をしているが、そこには作品というものが存在しない。貨物の移動に伴う作業が労働のすべてである。しかし、作業に携わる人たちは身体と一体になった技術に磨きをかけ、努力の傾注においていかなる職人、芸術家にも劣らない。技術はかたちを取るとは限らないという見本である。
どういうかたちであれ、技術を磨き駆使する喜びを知れば、「暗黙知」の何たるかがみえてくる。知ることは愛することにつながり、いかに生きるかの答えが自然に出る。評価を得るのはそれからのことだ。
どうか、みなさん、世の中の不都合に屈しないで、あるいはまた合理性のみを価値の基準にしないで、人生の充足感につながるよう「生き方の選択肢」を増やし、評論家のわけ知り顔の机上の見通しに惑わされることなく、みずから築いた信念で確かな一歩を記していただきたい。

2006年3月28日 (火)

ヨコハマ ストーリー 第1回 私の大桟橋物語

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ヨコハマ ストーリーは、FMヨコハマで2005.4.5~2006.3.26(毎週日曜日6:45~出演:小林節子 )に放送された番組の脚本再録です。

魅力あふれる街、ヨコハマ。
日本そして世界の表舞台に登場したのは今からおよそ150年前。
ペリー艦隊が来航したこの時からその歩みは始まりました。
そして今もヨコハマはユニークな街であり続けています。

そんなヨコハマの由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」
第1回目の今日は、「私の大桟橋物語」

安政6年、1859年、現在の横浜港大桟橋のある海岸に二本の波止場が完成した。突貫工事で造られたこの150年前の波止場こそが現在の日本を代表する大桟橋へと発展していく第一歩だった。
それから50年後の明治43年、1910年、横浜と関わりの深かった明治の文豪、森鴎外は三田文学に「桟橋」という短い文章を載せている。

桟橋が長い長い。四筋の軌道が縦に斜に切っている鉄橋の梁「はり」に、長い桁と短い桁とが子供のおもちゃにする木琴のようにわたしてある。靴の踵や下駄の歯をかみそうな桁の隙間から、所々に白く日の光を反射している黒い波が見える。空は真っ青に晴れている。

これは100年前の大桟橋。どこかのどかな風景の描写であるが、埠頭が出来、横浜が世界への玄関口として国際舞台へ登場していくことを決定づけたまさに横浜の夜明けといってもいいようだ。
以来、何回もの改築、改修、拡張を経て平成14年、2002年には客船クルーズ時代にふさわしい、国際客船ターミナルを持つ 現在の横浜港大桟橋となっている。   

私が帰宅して部屋に入ると「ママ宅急便が届いてるわ。」と二階から娘の声がした。テーブルの上には荷物が置いてある。送り主を見ると友人の信子からのものだ。早速開くと手紙と共にさわやかな桜色のパッケージが現れた。
華やかな包装からお菓子だなとすぐ感じた。どんなお菓子かしらと中味もとても興味があったが、まず手紙を読むことにした。
その手紙には、昨年私の親族に不幸があって何かと多忙と推察したことや新年の挨拶も失礼したこと。おまけに寒中お見舞いも出し損ねてしまったが元気を出してと励ましの言葉が書かれていた。
お菓子は春らしいからと、またよく味わえば昔の事もいろいろ想い出すからと意味不明のことも書かれていた。
しかし信子の優しさが、最近ふさぎ込んでいた私の心にしっかりと届いた。そしてきれいな桜色の包装紙の贈り物は、間違いなく私の家にも遅い春が来たような気分にさせた。パッケージを開いてみると、山下町のレストランの洋菓子だとわかった。いつも行動に一工夫とアイデアのあるセンスのいい信子のこと、きっと何かあるんだわと感じつつ、ようやく春を意識出来る余裕が私にも生まれたのかしらと思っていたら二階から大きな声で「ママ、中は何なの」「お菓子よ。今お茶を入れるから」と答えた。

「お茶が入ったわよ」娘は猫と一緒に二階から下りてきて、じっと見つめてから「まあ美味しそう、二つもらっていい」と言うとお茶を持って自分の部屋に戻っていった。手を休める事が出来ない何かをしているみたいだ。猫はお菓子の匂いを少し気にしただけで自分のものではなさそうだと興味を示さずソファーに飛び乗って片隅の定位置で丸くなった。お菓子はゼリーの洋菓子だ。レストランのお菓子ということを想い出し説明書きを読むと、そのレストランは、昔私達がいったことがあるお店と同じ名前だった。しかも山下町。
信子と私と男友達二人。四人で横浜港にクイーン・エリザベスⅡが入っているというので見に行ったことがあった。
1975年、クイーン・エリザベスⅡが初めて日本に来た時に、私達は横浜に行き、あの素晴らしく大きな船を見てみんなで感動した。大桟橋で船をバックに何枚も写真を撮った。今でもその時の写真は持っている。そしてその帰りに立ち寄ったのがその名前のレストランだったのだ。そう、大桟橋通りを真っ直ぐに戻って大きな道を超えてすぐのところ。お腹の空いていた私達は、お酒を飲んで食事をし、色々なことをよくおしゃべりして最後にお茶を飲んだ。季節は春だったが、若かった私達の心は夏真っ盛りだった。
そのレストランは今もあるんだ。大桟橋とクイーン・エリザベスⅡとレストラン。大げさに言ってしまえば人生でたったの一日。信子は、たまたまその船を一緒に見に行った二人の男友達の一人、徹と結婚し一男一女に恵まれ幸せに人生を送っている。私とは今でも親友だ。そして今日「桜ゼリー」という洋菓子と共に冬だった私の心に明るい春を届けてくれた。身体も不思議に軽くなったみたいだ。五月には、大桟橋にクルーズの豪華客船も入ってくる。港まつりのパレードもある。信子を誘ってあのレストランにも行ってみよう。
私は立ち上がりカレンダーを確認し、信子に伝えようと電話のある方に向かった。ソファーの猫も目を大きくして私の変化を気にしていた。

ヨコハマの魅力と由緒あるスポットを舞台に、物語と音楽で紡いでいく「ヨコハマ・ストーリー」
今日の、「私の大桟橋物語」いかがでしたか。出演、小林節子、脚本浮田周男でお送りいたしました。

なお、横浜大桟橋へは、みなとみらい線「日本大通り駅」から歩いて五分です。春の一日、大桟橋の豪華客船をはじめ、山下町の街並みを楽しんでみてはいかがでしょう。「ヨコハマ・ストーリー」また来週をお楽しみに・・・

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